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めちゃくちゃだった文芸の世界、は終わらない。

先日、私の好きな書き手の一人である堀元見さんのnote記事を読みました。とても面白い記事でした。

内容について詳しく書いてしまうと有料記事のネタバレになってしまうので控えますが、その記事では「かつての破天荒で世渡り下手な作家の時代が終わり、現代は合理的でスマートな作家が増えている」という、文芸界の地殻変動のようなお話がスマートに分析されていました。

それを読んでいて、私は「人間はグラデーションだなぁ」と改めて思ったのです。

破天荒な人はいなくなるのか?

私が若い頃にも、 「最近の作家は優等生ばかりだ」 「昔みたいな破天荒な芸術家はいなくなった」 「このままでは文学はつまらなくなる」 と心配する評論家はたくさんいました。

お笑いの世界でも同じです。 「あんな芸人はもう出てこない」 「昔の芸人はもっとめちゃくちゃだった」 そんな話は何度も聞きました。

引退や時代の変化によって、突出した個性を持った人が表舞台からいなくなるたびに、私たちは「もうあの頃のようなものは見られないのではないか」と寂しさを覚えます。

そして、おそらく私たちの親の世代にも、祖父母の世代にも、同じことを言う人はいたのでしょう。さらに言えば、三十年後にもきっといるような気がします。

「最近の作家は真面目すぎる」 「昔はもっと破天荒だった」 「文学は終わった」 なんて言いながら(笑)。

人間はそんなに単純じゃない

私は、人間というのはそんなにきれいに分類できるものではないと思っています。

真面目な人と、破天荒な人。 良い人と、悪い人。 仕事のできる人と、できない人。 世渡りの上手い人と、下手な人。

私たちはついそんなふうに二項対立で分類したくなります。でも、本当にそうでしょうか。

だって、一人の人間の中にだって、真面目な部分と破天荒な部分があります。優しい部分もあれば意地悪な部分もあります。賢い部分もあれば愚かな部分もあります。

私自身だってそうです。子どもたちに木育講座をしている良い人のようでいて…いやいや、ここではちょっと書けませんね…(^^;;

人間は白か黒かではなく、その間のどこかにグラデーションとして存在している。日によって、あるいは向き合う相手や環境によってその割合が変わるし、そこがまた人間の面白いところかも知れません。

時代の変化によって「破天荒な一面」を表に出しにくくなった現代ではありますが、だからといって人間の破天荒なエネルギーそのものが消えてなくなるわけではないと私は思うのです。

それは形を変えて、必ず誰かの中にグラデーションの一部として息づいています。

5000年前から変わらないもの

島田紳助さんがお笑い界を引退したとき、 「巨星墜つ」 「お笑い界の損失だ」 「もう昔みたいなお笑いは見られない」 と言われました。

確かにその通りだったと思います。紳助さんの代わりは誰にもできません。 でも、その後お笑いはなくなりましたか? そんなことはありませんでした。また新しい芸人が現れ、新しい笑いが生まれました。

松本人志さんがメディアから姿を消したときも同じです。 「松本のいないお笑い界なんて」 という声をたくさん聞きました。でも、お笑いそのものは今も続いています。

私はたぶん、大谷翔平選手でさえ同じだと思っています。 もちろん大谷選手は唯一無二です。誰も代わりにはなれません。

しかし、仮に大谷選手が引退したとしても、人々は野球を愛し続けるでしょう。新しいスターが現れ、新しい物語が生まれるでしょう。

「最近の若いものは…」という言葉が古代のエジプトの遺跡(壁画)に書かれていたという有名な話がありますが、人類の歴史を見れば、本質的な部分は大昔から何も変わっていないのかもしれません。

一人ひとりはかけがえのない存在です。誰にも代わることのできない唯一無二の存在です。

でも同時に、人類という大きな流れの中では、一人が消えたからといって世界そのものが止まるわけではありません。

だけど、その「一」がないと、なにもはじまらないのです。大谷選手も、八百屋さんも、ホームレスのオジサンも、そして私も、全員が等しく全体に必要な「一」なのだと思います。

「一は全、全は一」
私は、そんなふうに思ったりしています。

…ちなみに、いつも言っている「一は全、全は一」は“鋼の錬金術師”内のセリフ。

私は、人はマンガで人生を学ぶもんだと思ったりしています(^^;;

ほんじゃあ、また。

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