批判や評価を手放す−セッションをする在り方
僕がセッションをする時の理想の在り方がある。
それは僕が批判や評価を手放すということだ。
人が語る時、批判や評価を受けると思うと、どうしても表現が”歪む”と思う。
基本的に批判はされたくないし、いい評価を受けたい。
批判大歓迎の人も、成長や改善につながるから大歓迎の人が多い。
批判そのものには避けたい思いを持つ人は少なくない。
どうしても、多くの人は批判されにくい表現をとる。
素直な表現と違ったどこか”歪み”がある表現になってしまう。
一方でいい評価もまた、表現に”歪み”を生む。
よく思われたいのは人間の自然な機能。
ちょっと耳触りのいい言葉にしたり、頑張っているように見せたりしてしまうことはあると思う。
みんながみんなではないけど、批判や評価を受けると思えば思うほど、素直な表現は難しくなる。
聞き手として、僕がこういった現象を起こすことは避けたい。
そういった受け取り手主体の言葉選びじゃなく、送り手主体の言葉選びをしてほしい。
話す人が主人公になってほしい。
僕のワークの軸になっているリフレクション、これは話し手を主人公にする聴き方だ。
自分の言ったことを聞き手が受け取ってくれていると、話し手が思いやすいよう意図されている。
リフレクションは、話し手が言ったことを、そのまま伝え返す。
だから、批判や評価は基本起こらない。
そこに僕は希望をかんじている。
聞き手が行う批判や評価による”歪み”のない表現を出し尽くした時に何が起きるんだろう。
聞き手からの批判や評価がない時、内側にあるものがそのまま出てきてくれると思う。
そして、話せば話すほど深くなる気がする。
話し尽くすことで、その人がその時に表現できるところまで、心の奥側に降りていくことができる。
奥側に行ければ行くほど、本物の表現が生まれると思う。
そして、”自分を知る”ことができると思う。
自分って意外と分からないと思う。
なんでこうしちゃったんだろうとか、どうしてこの時こうなっちゃうんだろうとか、よくある悩みだ。
冷静になれば後悔するけと、その瞬間は湧き上がる衝動に流されてしまうことはよくある。
そういったことは、表面上対応しても繰り返す。
自分と向き合うことが必要になる。
自己対話が必要になる。
リフレクションとは、鏡のようなものだ。
自分の言った言葉、自分の出した表現を”眺めること”ができる。
鏡を見ることで自分の顔や表情、服装を見ることができるように、リフレクションで自分の話を客観視できる。
だからこそ、リフレクションは深い自己対話を可能にすると思っている。
本当に”自分を知る”ことのきっかけになると思う。
この深い自己対話。その時に生じる”何か”を僕は探求したい。
僕が構築中のワーク
このワークではたっぷりと、リフレクションを通じて自己対話できる。
しかも、その後に大切な価値観を僕と共に感じることができる。
さらに、僕からの分析をプレゼントする。
このリフレクション以降も、僕は批判や評価を手放す。
他己分析は批判や評価が入り込みやすい。
それでも、僕は手放す。
大切な価値観の確認も他己分析も、僕は”プレゼント”する意識でやっている。
大切な価値観を”プレゼント”する。
どう扱うかはあなた次第。
僕の分析を”プレゼント”する。
これもどう扱うかはあなた次第。
僕のプレゼントを一旦は受け取ってもらうけど、それを内側に受け取るか、それとも僕がそう言っていた事実のみを受け取るか。
あなた次第だ。
ずっと僕は批判や評価は手放す。
大切な価値観の確認や他己分析でも、批判や評価を僕は手放す。
ただプレゼントしているだけ。
プレゼントして、共に内側の世界の探求をするだけ。
でもその内側の世界はあなたの絶対領域。
僕は、あなたにとってのその大事な領域を侵したくない。
だから僕は批判や評価を手放す。
あなたの自然な表現を尊重したい。
ただ、セッションのときに、クライアントが批判や評価に対して表現を変えていくのは歓迎している。
それが、僕の批判や評価からでなければ。
そのクライアントにとって、批判や評価の存在が自然であれば、その批判や評価を念頭に入れた表現もまた自然だと思う。
その時は、その批判や評価も探求の対象だ。
自然にクライアントの内側から出てきてくれた、批判や評価は色んなことをお知らせしてくれる。
自己探求を手助けしてくれる。
ただ、僕が批判や評価をしないこと、クライアントの中の批判や評価を過度に刺激しないことが大事だ。
だから、批判や評価を僕が手放す。
クライアントは、批判や評価に関しても自然に表現してほしい。
話す時、批判や評価を気にするのは当たり前。
だから批判や評価に関しては、気にしても気にしなくてもどっちでもいい。
好きに表現してほしい。
どんな表現でも探求しがいのある表現になるから。
そう、クライアントの自然な表現から、共に探求を深めたいのだ。
だから、”僕が”批判や評価を手放す。
