【 #脱スピ 】 #會津格 ・ #高橋誠 ・ #竹田陽子 をアーティストとして認めない理由|カルト宗教団体『F』で神格化された“ #芸術 ”の空虚な正体
花より団子!スピより饅頭!!
レッツ脱スピ!!
スピは不幸の連鎖を生む!!
アクセス数増加で一部有料化の可能性あり。
無料の今が読みどき!!
面白かったらスキをお願い致します!!
創作大賞2026狙ってます!!
■私はなぜこの3人を
アーティストとして認めないのか
私は、會津格、高橋誠、竹田陽子の
3人を、少なくとも信頼に足る
アーティストとしては決して認めない。
理由は単純である。
この3人が存在していた場所が、
自由な批評と市場競争にさらされた
開かれた芸術空間ではなく、
カルト宗教団体Fの内部で神格化される
閉鎖空間だったからだ。
芸術は本来、作品そのものが見られ、
比較され、批評され、
時には否定されることで価値が磨かれる。
ところが、この3人の周囲で
起きていたのは逆だった。
作品より先に物語があり、
評価より先に信仰があり、
批評より先に空気があった。
そんな環境で持ち上げられた作家を、
私は素直に評価する気にはなれない。
◻️問題は
「上手いかどうか」ではない
ここで勘違いしてほしくない。
絵が上手いか下手かだけの話ではない。
実際、経歴だけを見れば、
學歴も展示歴もある。
一見すると、もっともらしい。
だが、もっともらしいことと、
信頼できることは別だ。
私が見たのは、
セミナーや合宿で集金し、
仮想通貨ビジネスで夢を見せ、
そこで「アーティスト集団」と称して
画家たちを祭り上げ、
閉じた場で作品を販売する構造だった。
この時点で、作品の価値はすでに
作品の外に置かれている。
つまり、作品の内容ではなく、
「この人は特別だ」
「今のうちに買うべきだ」
「将来もっと価値が上がる」
という期待や空気が値札を支配していた。
それはアートの評価ではない。
演出された希少性の販売である。
◻️會津格が象徴として
使いやすかった理由
會津格は、内向的でスマート、
どこか神格化された雰囲気をまとっていた。
酒をほどほどに嗜み、
四人兄弟の末っ子、
山形の実家はおそらく裕福。
2018年ごろには出雲に移住していた。
私生活の断片まで含めて、
いかにも“意味ありげ”に
語りやすい人物だ。
しかも、馴れ初めですら物語にしやすい。
元々マッサージ師だった10歳ほど
年下の女性と結婚したという話も含め、
周囲が勝手にロマンを上乗せしやすい。
しかし、私にとって重要なのは
そこではない。
人間として洒落て見えることと、
アーティストとして信頼できることは、
何の関係もない。
雰囲気は作品の証明にはならない。
むしろ、雰囲気が先に立つ時点で危うい。
藝術の中身ではなく、
人物の気配がブランドになっていたなら、
それは作品評価ではなく偶像化である。
◻️高橋誠が権威化されやすかった
理由
高橋誠は内向的で無口、酒好きで、
私もほとんど会話したことがない。
だが、その無口さは団体内では
むしろ都合が良かったはずだ。
喋らない人間は、
周囲が好き勝手に意味づけできる。
「寡黙な天才」
「言葉ではなく作品で語る人」
「分かる人にしか分からない」
こうした美辞麗句は、
沈黙の周囲にいくらでも
貼り付けられるからだ。
さらに、彼には
“マコトブルー”
という呼び名まであった。
独特の青の表現が得意。
それ自体は作家性の一要素だろう。
だが、
一色の印象や固有名があることと、
作品が深く評価されることは
別問題である。
閉じた団体の中で「この青は特別だ」と
言い続ければ、
やがて本当に特別なもののように
見えてくる。
だがそれは、
作品の普遍性が証明されたわけではない。
ただの反復である。
閉鎖環境における反復は、
しばしば評価の代用品になる。
#PR 頭の中のお花畑を叩き割れ!
現実を見るためにまずは
日用品から整えろ!!
■竹田陽子と「美術館構想」が
決定的に信用できない理由
竹田陽子は“作品”より“機能”が
目立っていた。
3人の中で最も理詰めに
見るべきなのは竹田陽子だ。
彼女は明るく、外交的で、
コミュ力がある印象だった。
つまり、場を動かす力がある。
無口な象徴や、神秘的な雰囲気の
人物だけでは集団は回らない。
人を繋ぎ、話を回し、
空気をつくる者が必要になる。
竹田陽子は、その役割に最も適していた。
絵について言えば、無難に上手い。
だが、正直に言ってしまえば、
それ以上でもそれ以下でもなかった。
少なくとも私には、
突き刺さるような固有の表現力や、
見る側の認識を揺さぶるほどの強度は
感じられなかった。
上手さはあっても、必然性が見えない。
綺麗にまとめる能力と、
作品が人の精神を動かす力は違う。
◻️決定打は
「クーデターを起こした立役者」
であること
さらに重要なのは、
竹田陽子がカルト宗教団体『F』の中で
クーデターを起こした
立役者だったという点だ。
これは単なる性格情報ではない。
この事実が示すのは、
彼女が単なる受け身の作家ではなく、
内部権力の再編に関わる側の人間だった
可能性である。
ここで見方が変わる。
もしその人物が、
作品だけで静かに勝負している作家なら、
私はまだ別の評価もできた。
だが実際には、
組織内で主導権の奪い合いがあり、
その流れの中で美術館建設の話まで
出てきた。
そうなると、作品は表現というより、
組織運営や求心力形成のための道具に
見えてくる。
◻️「島原に美術館建設」
という話の空虚さ
私が美術館建設の話を聞いたのは
竹田陽子からだった。
島原に建設するという建前。
しかし裏では、
何も計画が動いていなかった。
これがすべてを物語っている。
本当に美術館を作るなら、
最低でも必要なのは、
土地、資金、建設計画、運営体制、
収蔵方針、維持費、来館者導線である。
そんなものは芸術家気取りの
ふわっとした夢ではどうにもならない。
美術館とは建物ではなく、
継続運営のシステムだ。
そこが一切ないのに「作る」とだけ
語るなら、それは計画ではない。
人を興奮させるための看板でしかない。
しかも、その前段にはセミナー、
合宿、仮想通貨ビジネス、
アーティスト集団の神格化がある。
ここまで並べて、
なお「純粋な文化事業でした」と
思えるほど私は甘くない。
むしろ逆だ。
美術館という言葉を使うことで、
胡散臭い金の流れに文化の香水を
吹きかけていたようにしか見えない。
◻️私が最終的に認めない理由
結局、私がこの3人を認めない
理由は明確だ。
第一に、作品が開かれた批評空間で
鍛えられているように見えなかったこと。
第二に、閉じた団体の中で人物像や
雰囲気が過剰に価値化されていたこと。
第三に、作品販売が芸術鑑賞というより、
共同幻想の維持装置として
機能していたこと。
第四に、美術館建設のような大きな話が、
実務ゼロのまま語られていたこと。
第五に、少なくとも私が見た範囲では、
藝術の自律性より、
組織の都合が前面に出ていたこと。
これでは認めようがない。
肩書があろうが、展示歴があろうが、
学歴があろうが、
そんなものは免罪符ではない。
芸術家を名乗るなら、
信仰や閉鎖性や集団の空気ではなく、
作品そのもので立つべきだ。
そこから逃げて神格化のぬるま湯に
浸かった時点で、
私にとっては失格である。
ここまで読んで、
「わかる」
「自分も似た空気を見たことがある」
と思ったなら、ぜひフォローとスキを
お願いします。
脱スピは、夢見がちな甘い言葉を剥がし、
現実の構造を見抜くための営みです。
無料で読める今のうちに、
胡散臭い物語に抗う視点を一緒に
育てていきましょう。
#脱スピ
#カルト宗教
#アートビジネス
#スピリチュアルの闇
#神格化の手口
#美術館構想
#FLG
#五十嵐光一
#木村靖子
#會津格
#高橋誠
#竹田陽子
いいなと思ったら応援しよう!
洗体代にしますね🥹