<振り向けば、短歌>恐れが足りない
触角の如く恐れにみちてゐる今日の心と書きしるすのみ『草の翳りに』河野愛子
「通勤」をしなくなって7年ほどたった。2018年8月から教会の「牧師館」という牧師の居住エリアに住むようになったからだ。それ以前は、自宅から教会まで毎日電車で通っていた。片道40分ちょっとだった。いくつかの理由があり「牧師館」には住まなかったのだが、大阪北部地震が契機となって、急遽、「牧師館」へ転居した。
「牧師館」に住みはじめると、会議や教会員の訪問といったこと以外で電車や車で外出することがなくなった。なので下手すると、日がな一日、教会敷地内から外に出ないこともあるようになった。出てもせいぜい、スーパー、コンビニ、郵便局、たまにチョコザップで、徒歩5分圏内で生活が完結してしまうことがほとんど。もともと出不精なので特に不便は感じない。というか都会の真ん中なので便利である。
ただ最近、少し不安がある。教会の中で1日が完結してしまう日々の中、なんとなく「恐れが足りていない」気がするのだ。世間から遊離しているとか、運動不足とか、そういったことはどうでもよい(いやあまりよくないが、、)。しかし、決定的に「恐れが足りていない」ことに恐れを抱いている。教会の中(+徒歩5分圏内)ですべてが完結した生活をしていると、すべてが神に抱かれているようで、飢え渇きみたいなものが感じられないのだ。
そんな私からすると、河野愛子の短歌の「恐れ」は異質だ。この「恐れ」は何だろう?彼女はたしかクリスチャンだったと思う。歌集『草の翳り』のこの歌の前後を読んでも、「恐れ」の具体的なものは分からない。平穏な日々に潜む目に見えない裂け目のようなものへの恐れかもしれないし、自分自身の内側に抱える何ものかへの恐れかもしれない。
明確に作品に現れているわけではないが、彼女の精神のありようには、神という絶対者と、絶対者から相対化される自分という構図があると思う。この構図は一般的な日本人にはないものだ。その構図のなかで、あまりに繊細過ぎる「恐れ」へのセンサーは「触角の如く」という言葉に集約されている。触角は外部に出た器官だが、この短歌では心全体が触角となっているというのだ。
一方、私の「恐れ」へのセンサーはへっぽこだ。しかも、年々、劣化している。しかし、そんなへっぽこセンサーの私でも恐れを感じることはある。それは、夕暮れ時の礼拝堂だ。やや雲の多い日の日暮れ時、夕焼けが低い雲に遮られ、そこから不思議な紫色の光が漏れて広がるときがある。ひととき、街もその紫の光に包まれ、その光が礼拝堂にも満ちて来る。そのなんともいえない紫の光に礼拝堂が満ちる時、恐ろしくてたまらない。なぜだろうか。なにかがあらわにされる気がするのだ。で、へっぽこな私は、夕暮れ時には礼拝堂に入らないようにしている。
むらさきの夕べの気配満ちてゐる礼拝堂は中世のごとし
短歌人2025年6月 吉浦玲子
