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創作大賞感想【制服にサングラスは咲かない/森葉芦日】

前半がネタバレ無し、後半がネタバレありになっています。
ネタバレタグをつけると、避けてしまう方もいらっしゃると思うので、先に断り書きをつけることにしました。よろしくお願いします。

 ひりひりする。
 森さんの文章を読むとき、私はいつも、ひりひりするのだ。

 森さんのことを知ったのは、青豆さんがきっかけだった。森さんはたしか、青豆さんに触発されて小説を書き始めた、と言っていたと思うのだが、間違っていたら申し訳ない。尊敬する師匠は青豆さん、といろいろなところで仰っている。

 おそらく青豆さんが記事を出すと思ったので、出されるまで待っていようと思ったのだが、待ちきれず、とても申し訳なくておこがましいが、先に記事を出すことにした。青豆さん、森さん、すみません。



 森さんは今、バンクーバーにいらっしゃる。

 時折、お題などで小説を書き、エッセイを書かれている。見逃してしまうエッセイも多いのだが、森さんの書かれる作品は、何とも言えずいい。
 こんなこと、ナニモノでもない素人の私に言われたくないと思うが、作家の眼差しだと感じる。

 最初にコメントしたのはこの記事、だったと思う。

 衝撃を受けたのがこの答え。

46.日常で「自分はもの書きだ」と感じる瞬間は?
全くありません。どれくらいないかで言うと、最近、蟻と話したのはいつですか?と聞かれるくらいありません。

 ―――これって「もの書き」「作家」の答えですよね!と思った。

 森さんの文章は、目の前で起こっていることの観察、情景、風景、考えていることなどが描写されているな、と思っていると、ふっと想像の世界に移行していることがある。自然過ぎて、あれ、これは想像だったか、いつの間に、と思うが、それが全く不自然ではない。
 私たちはみんな、普段「ここまでは思考していたが、いまから想像する」なんて考えていない。思考から想像に、またその逆に、いつのまにか移行していることがほとんどだと思う。その瞬間を「文章で書け」と言われたらできないと思うのだが、どうだろう。それを、森さんは軽々とやっているように見受けられる。

 青豆さんが、どこかのコメントで「森さんの作品はミニシアターの映画のよう」とコメントされていたが、まさにその通りだなと思う。

 その森さんが、今回創作大賞に応募されたのはこちらの作品だ。

 オンラインゲームをしていた「ツリバリ」。チームを組んで一緒にゲームをしていた「ビーチサンダル」から同じチームの「アジサイ」を仲間から追い出す算段についてのメッセージを受け取る。
 「ツリバリ」はそこまでゲームにのめりこんでいないから、アジサイに対して何も感じていなかった。「血の掟」などと言われても「どうでもいい」としか思えない。一緒にゲームはしているが、しょせんネットの繋がり、と冷めた目で見ている。しかし「ビーチサンダル」と彼以外のメンバーは結局「アジサイ」をチームから追い出した。
 それだけ。それだけの話だったはずだった。「ツリバリ」はそういうことがなんとなくやるせなくて、チームから脱退し、ひとりでゲームをしていた。ところがある日「アジサイ」のログインに気づく。そして彼女とリアルで会う約束をしてしまう。
 人生に意味を見出せず、どこにも居場所を見いだせない「ツリバリ」は自分のことを偽ってゲームをしていた。みんなそんなもんだろうと思っていた。「アジサイ」と会うのに、彼は行くのをやめようかと思うほど悩む。
 そしてついに彼らは出会い、ふたりが出会ったことで、思いもかけない出来事が次々に起きていくのだった。

あらすじ

 ふたりの出会いも、そこからの出来事も、先がわからないからこそ引きこまれる。まさか、そうくる?いやでも、え、そうなっちゃうの、ああ、そんなことに。そんな風に思いながらどんどんのめりこんで読んでしまう。

 的確で美しい描写の底の方に、胸をえぐられるような悲しみがある。綺麗な音楽が流れているのに、耳に聞こえない不穏な重低音がいつも響いている。いつかどこかでこんな気持ちになった。『天気の子』を観たときも、こんな気持ちになった気がする。 

 ところで、下に貼った記事では、森さんが嘆きのエッセイを書かれている。

 noteという媒体は、「創作大賞」と銘打ってはいるが、基本的に小説が読まれにく媒体なのだ。特に長ければ長いほど読まれにくい。
 それと、どちらかというと、テーマは明るくてアットホームでハッピーな話が好まれる傾向にあるようだ。「書きたい人」>「読みたい人」で、需要と供給のバランスもいまいちなんじゃないかなと感じることがあるし、そもそもタイムラインに流れてこないと存在を知ることができない、という難点がある。

 だから「スキ」は、絶対に相関関係がないとは言わないが、作品のよさには関係がない、と私は思う。

 どうしても「スキ」が多い方が良い作品なのではと思ってしまう心理的バイアスがかかってしまうのだが、知らなければ好きか嫌いかもわからない。相互フォローしていれば作品の情報も流れてくるし、読んでみようと思う。すると必然的に「スキ」が増えるが、タイムラインに流れて来たから読んだ、誰かが薦めていたから読んだ、フォローしてくれている人だから読んだ・・・と、理由は様々で、必ずしもその作品が心に響いたから、とばかりは言えない場合もある。いろいろな考え方の人がいるから一概には言えないけれど、読んでくれたから読む、読んでもらうために読む、のケースもあるだろうなと思う。

 noteでは「作品ありき」ではなくまず最初に「名前を知ってもらう」ことが大事だ、ということになっている。作品の良し悪しの前に「名前を売ること」みたいなことになってしまう傾向があって、これは本当に残念な点だと思っている。

 この物語は素晴らしい。
 一読して、ぜひとも沢山の人に読んで欲しい、と思った。

 私のようなnoteの中ではたいして知られてないような輩がオススメしたところで、森さんの力にはなれないかもしれないが、少しでも多くの人に読んで欲しくて、感想文をかかせていただくことにした。

 読んでみて欲しい。
 きっと、あなたの心に残るから。

 ここからは、ネタバレになる。
 これから読む、と言う方は、ここまでで。





 チームを脱退させられ、ゲームに来ないはずの「アジサイ」は、なぜ、最後のログインで「ツリバリ」にリアルで会おうと思ったのか。

 彼女は「ツリバリ」に会う前に大変な過ちを犯していた。最初は未必の故意、というものだったが、彼女はその後、意志を持って罪を犯す。しかしその理由をきけば、誰だって「それは仕方がなかった」と思ってしまう過ちだった。彼女がそれまでされてきたこと、受けて来た苦しみを思えば、そこには同情しかわかない。わからない。誰だってそう思うのか。そう思わない人もいるのか。

 その罪を抱えて、彼女は「ツリバリ」、つまり主人公に会おう、と言う。相手が「ツリバリ」だったから会ってみたくなったのだと思うが、もし彼女が彼に会わなかったら、どうなっていたのだろう。
 そして会うことになった後も、いったいどんな人間が来ると思っていたのだろう。幸いツリバリは世を儚んでいたにせよ、彼女を害したり、ジャッジしたりする人間ではなかった。彼は自分の嘘をどう取り繕うかばかり考えていたわけだが。

 その後の彼らの逃避行は、ただただ、胸が痛い。
 もうおそらく「いなくなると決めている」アジサイは、それでも「ツリバリ」と思い出を作りたくて一緒にいる。痛々しくてひりひりして、私は何度も胸を押さえた。この世から零れ落ちようとしている限界ギリギリのところで、お互いが、お互いを救いたいと願うふたりの心が、どうしようもなく胸を刺す。

 そのふたりの心をいちばんわかって、感じ取っていたのは、逃避行の末に逃げ込んだ納屋で彼らを発見し、孫のようにかわいがってくれたゲンジさんだ。
 元警察官のゲンジさんは、ふたりの境遇をすぐに理解したことだろう。そして、かつての妻との逃避行に重ね、さらには生まれることのなかった子供のように、彼は必死にふたりを匿い、守ろうとする。

 もうこのあたりで涙腺が危ういことになるから要注意だ。

 彼らを追い詰めるのは「ビーチサンダル」の執拗なメッセージと、田舎暮らしを楽しもうとやってくる大学生のグループに混じってやってきた危ない目をした「サトル」と言う男。
 もしかしたら、という予感が的中し、サトルが「ビーチサンダル」だと分かった時の恐怖は、寒気を伴う。そしてそれ以後のサトル=ビーチサンダルの異常な言動が、とても恐ろしい。

 最後には、悲しい結末が待っている。
 ネタバレといいつつ、ここに書くのが辛いくらいの結末だ。

 それでもふたりのやりとりはいつだってどこまでも純粋で、このままずっと、ふたりのままでいさせてあげてほしかった、と思ってしまった。

サングラスをかけている女子高生なんて、僕も見たことないかもしれない。
変装するにも早急に服を買ってからサングラスをかけさせないと、アンバランスな感じが一層怪しさを引き立たせるかも。
「どう?」
「やっぱ制服にサングラスは咲かないねぇ」
「なんかいいワードだね『制服にサングラスは咲かない』って、前から思っていたけどさ、ツリバリってなんかワードセンスいいよね、小説家になったら?」
「小説家なんて僕がなれるわけないよ、第一に何も書ける話がないし」
「あるじゃん」
「どこに?」
「目の前」
制服を着ながらサングラスを掛けたアジサイが僕に敬礼をしてみせた。
「私とのことを書けばいいじゃん、私が捕まるまでにきっと色々なことが……」
「捕まらないよアジサイは」
気がついたら、アジサイの言葉を遮っていた。確証はない。捕まらない確率の方が低い。僕の願望だけが、脳を経由しないでダイレクトに口をついて出た。

 起こってしまったことは変わらないのに、未来を明るく考えることが出来そうもない状況なのに、ふたりは「もしかしたら」に賭けるように、縋るようにそっちの未来へと進もうとする。

 もう彼らをそっとしておいてあげたい、と、何度も思う。

 それでも、現実は残酷だ。
 ゲンジさんもアジサイも亡くなった後で、ツリバリはゲンジさんの家を訪れる。もう取り壊されることが決まったその家と、ゲンジさんの墓前がラストシーンだ。

 そのシーンを、何回も読んだ。
 「アジサイ」=「紫」とツリバリは、本当はふたり、ゲンジさんの家で幸せになって良かった。それを阻んだのは、身勝手な人間の、獣みたいな荒ぶる魂。
 紫の父親が紫を虐待しなければ。
 ツリバリの両親がツリバリをネグレクトしなければ。
 邪悪なビーチサンダルに目をつけられなければ。
 でもそのすべてがなければ、2人は出会わなかったかもしれない。

 なんて切ない物語を書くんだろう、森さんは。

 紫はツリバリのおかげで保っていた心、ものすごく危ういバランスで成り立っていた心を、離れ離れになったことで保っていられなくなったのだろうなと思った。それでももし、ふたりが逃げきってどこかで暮らせたとしても、彼女はいずれ自らを罰したように思えてならない。それがとても、とても、とても辛い。だれにも止められないことが、たぶん、あるから。

 だからツリバリはきっと小説を書く。
 書くしかない。自分を保つために彼ができることはきっとそれしかない。でも小説って、本当はそういうふうに書くものなのかもしれない。鎮魂と、贖罪と、救済とのために。レクイエムとして。

 森さんは、あとがきにこのように書いている。

 思い入れのある登場人物は『ビーチサンダル』で、なんとモデルは実在しているのだという。あんな人が実際に身近にいたなんて、想像を絶する恐怖だ。

 どんなときも『いつか物語にしてやる』

 私にはそこまでの経験はないけれど、それでも、これはあるなあ、と思った。
 
 さらに、毎回書くことに苦痛を伴っているので、書くのが『楽しい』という人がいる事実を疑ってしまう、と書かれていた。

 私、書いてたな。『楽しい』って。
 そして、翻って若い時、書くのが楽しかったかどうか、考えてみた。
 楽しかった、気がする。そして改めてその『楽しさ』ってなんだろうなと思った。
 「わくわくして、めっちゃハッピー」なものでは、ない。
 もしかして、書くのが楽しい、というのは、一種の嗜虐、マゾヒズムなんじゃないかと、思った。思い出しながらむかつきながら怒りながら泣きながら書いて、それで楽しいってやっぱり変態なのかもしれないな、と。

 書くのが好き、書くのが趣味って言うのやめようかなと思った。笑



 森さん、うまく書けませんでした。
 改めて、素晴らしい物語をありがとうございます。
 そして、優花里が気になるという、私へのコメントの意味がちょっと分かった気がしました。