見出し画像

休んでも心が癒されない人へ 【エッセイ編②】

最近、「暇と退屈の倫理学」を読んでいる。

読みながら、ずっと考えていた。

人は、なぜこんなにも疲れているのだろう。

現代は、昔より便利になった。

洗濯機がある。
スマホがある。
AIがある。
移動も速い。
仕事も効率化されている。

本来なら、
人はもっと楽になっていてもいいはずだった。

けれど実際には、
多くの人が疲弊している。

休んでも、回復しない。

休日はある。
動画もある。
ゲームもある。
SNSも見ている。

それなのに、
心だけが、なぜか癒されない。

私は最近、
現代人は「疲れている」のではなく、
「感動できなくなっている」のではないか、
と思うようになった。

人は本来、
心を動かしたい生き物なのだと思う。

芸術に触れたい。
誰かの言葉に震えたい。
映画を観て涙を流したい。
知らなかった世界に驚きたい。

つまり、
「生きている実感」を求めている。

しかし現代社会は、
その逆方向へ進んでいる。

タイパ。
コスパ。
効率化。
最適化。

立ち止まる時間より、
早く処理する能力が求められる。

学校教育も、
いつの間にか、
「役に立つか」が中心になった。

もちろん、
生きるためには必要だ。

だがその一方で、

「君は、何に感動する人間なのか」

という問いは、
あまりにも置き去りにされている気がする。

私は教師をしていて、
ずっと違和感があった。

勉強を教えているのに、
何か一番大切なものを教え損ねている感覚。

点数。
進学。
資格。
就職。

もちろん大事だ。

けれど、
それだけを目的に学び続けると、
目標を失った瞬間、
人は空白に落ちる。

何をしたいのかわからない。
何に心が動くのかわからない。

そして、
ただスマホを見続ける。

引きこもりや無気力の問題も、
単なる怠惰ではなく、

「自分の感動との接続を失った状態」

なのではないか、
と思うことがある。

人は、暇そのものに耐えられないのではない。

「心を動かすものが見つからない暇」

に耐えられないのだ。

だから、
刺激を探し続ける。

しかし刺激は、
感動の代わりにはならない。

感動には、
時間が必要だからだ。

立ち止まる時間。
ぼんやりする時間。
答えのない時間。

本を読んで、
意味がわからないまま考え込む時間。

映画を観たあと、
何も言えなくなる時間。

そういう「無駄」の中でしか、
人の感受性は動かない。

けれど社会は、
その無駄を削り続ける。

すぐ結果を出せ。

すぐ理解しろ。

役に立つのか。

それは金になるのか。

その圧力の中で、
人は少しずつ、
「感動する力」を失っていく。

かつて子どもだった大人たちも同じだ。

そして人生の後半になると、
突然、
時間の有限さに気づき始める。

あと何年、
自由に動けるのだろう。

そのとき人は、
再び学び始めるのかもしれない。

資格のためではなく、
競争のためでもなく、

「もう一度、世界に驚くために」。

哲学を読む。
歴史を調べる。
絵を描く。
音楽を聴く。
文学に没頭する。

一見、
暇つぶしに見えるかもしれない。

でも本当は逆なのだと思う。

人は、
暇を埋めたいのではない。

心を動かしたいのだ。

だから私は、
教育に必要なのは、
「正しい答え」を増やすことだけではなく、

感動に出会う場を、
消さないことだと思う。

芸術。
文学。
哲学。
音楽。
自然。
対話。

効率の悪いものばかりだ。

けれど、
人生の最後に残るのは、
そういう時間なのではないか。

最近、
そんなことを考えている。


らんどーるの記事、言葉の「動き」についての記録は、
こちらにまとめています。
らんどーるの英語note案内

いいなと思ったら応援しよう!