『卑弥呼と台与の真実』その4 川崎一水
『卑弥呼と台与の真実』 その4 川崎一水
2 卑弥呼と台与
〝卑弥呼〟とはだれか?
つづき
そしてここでの最大の謎、〝迹日〟とは何か?
〝迹日〟は〝外日〟か?
〝迹日〟は〝トヒ〟
そもそも『日本書紀』よりも前に編纂された『古事記』には〝ヤマトトトヒモモソヒメ〟とは書かれていない。〝ヤマトトモモソヒメ〟と書かれている。藤原不比等が中臣氏の都合のいいように書いたともいわれる『古事記』には『日本書紀』の〝ヤマトトトヒモモソヒメ〟から〝トヒ〟が抜かれている。
藤原不比等は〝トヒ〟を隠したかったのか?
確かに、〝トヒ〟はよく隠されている。「外」、「等彌」、「登美」、「十三」、「外美」、「当美」ばかりではなく、「鳥見」、「鳥飛」、「宝」もそうであり、一般にはよく知られる「臣」も「富(冨)」もそうである。
不比等の本当の名は〝史〟であったといわれる。本名は隠す。
〝ヤマトトトヒモモソヒメ〟の本名も隠された。
〝トヒ〟とは「臣」であり「富(冨)」であった。おわかりのように中臣の「トミ」である。なぜこれがかくさなければならないのか。それにはさらに深いわけがある。それは最後に述べるとして、ここで明らかなことは、〝ヤマトトトヒモモソヒメ〟の〝トヒ〟は「臣」と「富(富)」と同じ意味である「鳶」のことを示す言葉である。
この「鳶」とは神武天皇を大和に導いた金鵄として描かれる〝ヤタガラス〟のことであると一般にはいわれる。熊野から大和に神武天皇を道案内した〝ヤタガラス〟は、『古事記』のなかではニニギノミコトの天孫降臨の際の「岐の神」である〝サルタヒコ〟にもなぞらえられている。「岐の神」である〝サルタヒコ〟は伊勢の神ではあるが、中臣氏の本拠である鹿島にも、富家の本拠である出雲にも祀られる。
ところが神武天皇にはむかった敵は〝トミ〟のナガスネヒコである。『古事記』の中ではナガスネヒコの味方であったはずのニギハヤヒが神武天皇に帰順し、神武天皇は大和を平定する。〝トヒ〟である「鳶」でもある〝ヤタガラス〟は「トミ」でもあった。
手前に述べたように、神武天皇は「トミ」である〝ヤタガラス〟によって大和に導かれた。つまり、もともと奈良盆地は大和であった。ただ読み方が違うだけで、当時の大和は「大倭」であった。「大倭」は「大輪」である。文字を「トミ」のときと同じように変えただけで、大和は「応和」であり「オオワ」であった。神武天皇は大和(ヤマト)ではなく「大和(オオワ)」に導かれたのであった。
大神神社の宮司の方は言う「ここは出雲です。」と。つまり、ニギハヤヒもナガスネヒコも皆出雲の富家の流れをくむ者たちであり、いわゆる国譲りが行われるまでは奈良盆地を含む西日本全体が出雲の国であったことがわかる。そうして、国譲りの後、「トミ」は東へ東へと追われていくことになる。中臣は鹿島、『古事記』のなかの大毘古と建沼河別は“会津”へ。『古事記』のなかの〝ヤマトトトヒモモソヒメ〟は〝ヤマトトモモソヒメ〟になってしまった。
3 卑弥呼と台与の居た場所
〝ヤマトトトヒモモソヒメ〟のもとの名は〝ヤマトモモソヒメ〟であった。
ここにも謎がある。
