#133✈️言語が変わると、私の輪郭も変わる|スリに怒鳴って気づいた、もうひとつの私
「Tu fais quoi ! Quitte là !」(何してんの!あっち行って!)
と崩れたフランス語で怒鳴り、
段ボール紙を跳ね飛ばした自分に驚いた。
─そこはイタリアだった。
通じるか通じないかなんて考える余裕もなく、口と手が先に動いた。
フリスビーみたいに飛んでいったそれを、彼女らは談笑しながら拾いに行った。
だが、狙われていた同行者の、「分かりやすいスリだったねー。」という言葉には、気が抜けた。
ときにある、瞬時に湧き上がった感情を主張しなければいけないとき、
私の場合、日本語では思考が先回りするけれど、フランス語なら自然に出てしまうことがある。
おそらく、アフリカで地元の人に溶け込み生活した、ときに懐に飛び込み、ときに感情あらわに闘った日常も影響しているとは思う。
大げさに言えば、負けないように、潰されないように、自分の居場所を見つけるために話しまくった。
というよりも、日本語で感情的に話すことに、そもそも慣れていない。
海外では、「何か言わないと」と思っているせいもある。
例えば、
街中でしつこくつきまとわれた時、くるっと身体をその人に向け、
「Papa, on n’a pas besoin de guide.」(おっちゃん、ガイドはいらんねん。)
と言って、その人の歩みを止め、バイバイした。
日本だと、無視するか、逃げるだろうか。
きっと、言語が与える影響は、認知や表現だけではない。
言語はアイデンティティをつくる
言語も、方言も、少しずつ変容しているが、
守るべきアイデンティティだと思っている。
大阪弁の、「なんでぇな」や「なぁ」ひとつでも、いろいろ意味が変わるように、
佐賀弁や長崎弁の、「先生の来らした」が、主格の違いだけでなく、距離感までもが変化するように、
それぞれの方言も興味深いものがあるだろう。
メルボルンの博物館で見た展示でも、オーストラリア先住民の諸言語がアイデンティティの核であると語られていて、
「言語は遺産だ」と思った。
帰国後、方言を話す友人に、「かっこいい」とそのままの熱量で伝えてしまったほどに。
言葉には「話す」ことでしか守れないものが存在する。
もともと文字を持たないアイヌ語のような、
声に出して初めて命が宿る言葉、口承文芸の文化も存在する。
言語が消えるとき、その言語でしか見えなかった世界も消える。
言語は未来の形を変える
言語には、アイデンティティだけでなく、時間の捉え方までも含まれているように思う
アラブ圏でよく使われる「インシャッラー(もし神が望むなら)」という言葉は、
無責任な言葉ではなく、自分たちの限界を受け入れ、未来の不確実さに謙虚でいる姿勢を表していると教えてもらった。
実現することを願い、もし叶わなくても誰も責めないという意味がこもった優しい言葉だ。
一方で、日本語の「ご縁があれば」は、
機会や人間関係の巡り合わせを期待するニュアンスが強いように感じる。
「インシャッラー」を知って、「約束の重さ」で押しつぶされなくなる。
そして「ご縁があれば」を知って、「偶然の出会い」に感謝が深まる。
そんな気がする。
言葉で具現化する
言葉にするということは、感覚や思考に名前を与え、
外からも認識できる形に整えることである。
適当な名前が見つからないこともあるし、
どうしても ニュアンスが変わってしまうこともある。
『どの言語で考えて育ったか』と
『どんな輪郭の自分を持つか』は、きっと直結している。
言語習得で自分自身の輪郭が変わる
しかし一方で、新しい言語を習得することで、
自分の輪郭が少しずつ変わっていく。
主語のとり方、単語の選び方、怒り方、
距離の取り方、思考や感覚の表現、
いろんなものの選択肢が増えていく。
今まで言語化できなかった感覚に、名前が与えられることもある。
以前、感覚や思考に”言葉”という”名前”が付くことで繊細な意味合いが削ぎ落とされることについて書いたが、その『言葉の檻』が広がるようにも思える。
無意識だった価値観が、他言語とのズレで浮き上がり、
「これは自分だと思っていたもの」や「自分の中の基準」、
「他人との距離」、「世界の見方」が、
実は言語に依存していたのだと気づくこともある。
新しい言語を学ぶことは、
単なる翻訳能力やコミュニケーション手段の獲得ではなく、
自分の内面を広げることにもなる。
翻訳アプリが便利になり、助けられることも多くなっている。
しかし言語習得は、心身ともに揺れながら、新たな輪郭を手に入れる行為なのだと思う。
冒頭のスリ未遂のとき、
同行者は、「あの人たち、なんでー?みたいな悲しそうな顔してたね。ちょっとかわいそうだね。」と言った。
危機感から相手を「加害者」として瞬時に切り捨てた自分と、その背後に「悲しそうな人間」を見ていた同行者。
それを聞いて、確かにきつく言い過ぎたかと一瞬後悔した。
─いやでも…
あれは、生活がかかっている感じではなく、「いけたらラッキー」くらいに見えたで。
同行者の言葉で一瞬揺れたのも、フランス語で怒鳴ったのも、どちらも私。
状況依存だと言われれば、そうともとれるが、
言語が変わると、自分の輪郭も揺らぐ。
⬇️言葉は混線することもある
⬇️言葉の檻は解像度を落とす
⬇️言葉で距離感が変わる
⬇️言葉で距離感を変える
⬇️気質を“自分の輪郭”と見るか、“仕様”として扱うか
