#155✈️「あなたに会うまで、日本人は大嫌いだった」と素直に言う背景を考えた
「あなたに会うまで、日本人は大嫌いだった。」
と面と向かって言われたことがある。
私は、韓国人の経営するフィリピンの語学学校にいた。
随分前の話である。
短期で詰め込みたかったので、スパルタコースを選択した。
入った初日に、ディレクターに呼ばれ、
「このコースは韓国人向けにプログラムされている。
結果が出なければ、学校に対して親から強い苦情が出るので、ルールはかなり厳しくしている」
と説明された。
「日本人のあなたに合うか、あなたが耐えられるか分からないので、何か希望があればすぐに教えてほしい」と言われた。
もしかしたら、私がその学校で初めての日本人学生だったのかもしれない。
早朝から夜遅くまでプログラムされ、自習まで時間と場所が決められていた。
毎日3食一緒に韓国料理を食し、休憩時間も基本的に中庭で一緒に過ごした。
毎日テストがあり、平日は外出禁止、土日も隔週でしか校外に出られなかった。
私は最後の週末の外出だけ無理を言って認めてもらったが、あとはすべて従った。
マニラから離れた街まで、同じ入所日の人たちと長距離バスに乗った。
隣の人は、最後まで一度もこちらを見なかった。
同じ学校に行くはずなのに、声をかけることはできなかった。
初日は明らかに、遠巻きに見られているのは分かっていたが、気にしていなかった。
ディレクターが、「この人は日本人だよ、仲良くしてね」と声をかけに来てくれた。
先生たちの間でも、日本人がひとり入ったと話題になっていると聞いた。
あとから思えば、心配しなければならない状況だったということかもしれない。
集団行動が苦手な私にも、
気づけば、カカオトークを使い、いつも一緒に過ごす友人もできていた。
「韓国人の友達といるより、なぜかあなたといる方が落ち着く。」
と言ってもらえて、とても嬉しかった。
そのうち、夜中にヤンニョムチキンをデリバリーして一緒に食べる別の仲間もできた。
「4人にインタビューをする」という個別課題が出た。
たくさんいる生徒たちの中、私に質問してくる人がとても多かった。話したことがない人まで。
今思うと、『危険人物じゃないかもしれない』と思い始めたのだろうか。
単なる好奇心だったのだろうか。
その環境に身を置いてしばらく経ったころ、
「学校でも家でも、日本人は悪いと教えられて来た。
あなたをずっと見ていたけれど、日本人にも良い人がいるんだと初めて分かった。
あなたに一番最初に話しかけた〇〇は偉いと思う。2人目は〇〇で次は〇〇だったね。」
と初めて話す人に言われた。
衝撃だった。きっとこの先も忘れられない。
私という日本人が、そこで一緒に時間を過ごした意味は、あったのかもしれない。
全然悪気はなさそうで、むしろ親愛の情としてそれを伝えている感じがした。
ずっと観察していたのだろう。教えられてきたことを自分の目で確認するように。
差別感情が「自然な正義」として内面化されていることの根深さが、
その言葉に凝縮されていて、恐ろしさを感じた。
私は腹も立たなかったし、悲しくもなかった。
ただ、自分の観察に基づいて正直にそう言うその人が、純粋なのだろうと思った。
偏見を持っていたことよりも、それを疑わずに育ってきたことの重さを考えさせられた。
それだけに、外から入る情報を信じ切るのではなく、
自分で考えることの必要性、真実を知ろうとする姿勢の重要さを感じた。
それと同時に、たった一人の言動で、こんなにも簡単にそれを覆すこともできるのだと実感した。
腹が立たなかった理由はふたつある。
そこで使用した教材のなかに、
朝鮮民主主義人民共和国における、
酷すぎる食糧事情や経済状況、非人道的な食材確保事情が、具体的に描写されていた。
事実なのか、脚色しているのか、事情を知らない私にはわからないが、
読むのが辛いくらい、信じがたい光景が描かれていた。
厄介なのは、完全な嘘ではなく、事実、誇張、そして演出が混在していることが多いということ。
現実の切り取り方ひとつで、人の認識はいくらでも操作されてしまう。
これは今の日本でも起きているかもしれないと再認識した。
でも私が恐怖を感じたのは、その内容の真偽よりも、それが「英語の教材」として扱われていることだった。
疑う余地なく受け取られる形で届けられるとき、
きっと、情報はより深く刷り込まれる。
もしかしたら日本もこのような描写がされているのかもしれない。背筋が寒くなった。
腹が立たなかったもう一つの理由は、
『与えられた情報』が、現実の認識をどう歪めるかを深く考えていた時フラッシュバックした、
その数年前にソウルで体験した光景。
観光客の少ない通りを歩いていたら、私たちに向かって大きな声で何かを言う人が何人もいた。
「反応しないで。罵声だよ。」
と教えてくれたのは、行きの飛行機で隣に座った日本人だった。
韓国の大学に留学しているというその人は、
予定を組んでいなかった私たちを案内してくれていた。
その浴びせられた罵声に、その人は何も反応せず、「よくあること」と言っていた。
その地で生活する中で、その言葉の奥を理解していたのか、ただ耐えるしかなかったのか、
その時の私に、聞ける余裕はなかった。
この話を思い出したきっかけは、
ガザの写真家の企画展が開催されていた、立命館大学国際平和ミュージアム訪問だった。
そこでは、日本からだけの視点ではなく、多角的な視点の展示が待っていた。
日本人が占領地へ行ったことは広く知られていると思うが、
占領地から日本だけではなく、占領地から他の占領地へも人が流れていたと視覚的に訴え、
リソースのように動かされる人の多さに、言葉を失った。
韓国からの流民が、ずば抜けて多かった。
移動先での過酷な労働、厳しい生活、同化の強制と差別や、命を落とした人々の存在。
そして、当事者たちの証言が生々しく展示されていた。
「無知な選民意識にとらわれて、現地の人たちと交流しなかったことを悔やんだ」
という日本人の言葉もあった。
日本は占領地でインフラ整備をしたと、良いことをしたように語られる面もあるが、
その過酷な作業の裏側を、こんなにはっきりと見せられたことはなかったように思う。
現場で失われた命や尊厳を相殺できるものではないという実感が湧く。
どちらか一方だけを強調する情報に流されず、
複雑な全体像を見る必要があると感じた。
先述の韓国人の言葉を思うと、これだけ近い時代の記憶であれば、
家族の繋がりを重視する国で、日本人が悪いと伝えられるのも少し理解できる気がした…が、
その痛みを”忘れない”ことは必要だと感じる一方で、
”怒り”や”憎しみ”として持ち続けることの弊害と、
”教訓”として未来を見据え、知性に変える必要性も感じた。
世界中の多くの国が、苦しい過去を持つ。
その”痛み”を、『国家』が”憎しみ”として前面に出してしまえば、歴史は繰り返されるのだろう。
憎しみの連鎖という呪縛をどうすればとけるのか、考える必要があるのだと思う。
近しい人の負の記憶や、手の届きやすい一部の情報、プロパガンダが、
子どもの無邪気さと組み合わされば、憎しみは簡単に生まれる。
大人でさえ、危うい。
ミュージアムの展示では、日本でのプロパガンダが展示されていた。
そこには、日常に溶け込むプロパガンダと、当時の子どもの無邪気さが結びつき、肉親の死を願う言葉が強烈な言葉で記されていて、恐ろしくなった。
家族の死が「悲しい別れ」ではなく、「勲章」となってしまう。
聞いた大人は戦慄するが、同調圧力の下では否定することも、諭すこともできなかったのだろう。
言った本人も大人になったときに深く後悔し、自分を責めてしまうだろう。
戦時中や占領下の時代とは、程度も意味も違いがあることは理解している。
しかし、与えられる情報を信用して、全て信じ込むのは危ないのではないだろうかと思ってしまう。
サジェストされた情報だけをただ拾い集めても、広い知識は得られないし、
知ろうと思わなければ、調べることもない。
情報は溢れているようで、決定的に足りていないものもある。
「どの条件ならその情報を採用するか」という自分なりの基準設定が必要なのかもしれない。
冒頭の言葉が、誰かから与えられた情報から生まれたと思うと、
情報発信者に悪気があろうと無かろうと、
人の感情は、意志とは関係なく、与えられた情報に簡単に揺さぶられてしまうのだと実感する。
⬇️そのミュージアムで流れていた映像を観て、極限状態でむき出しになるものを考えた
⬇️開催されていたガザの写真展
⬇️地道にラベルを剥がす
