#151🤍「特別」は特権か│シェルターの排除から考える、歪んだ仲間意識
ウクライナの難民保護施設(シェルター)での出来事だった。
妊婦だから少しの配慮をしてもらった。
それがルールに従わなかったとされ、
ロマの妊婦を含む女性2人と子どもたちが、荷物を投げ出され、寒空の下に追い出された様子の映像と、その証言を見た。
その映像を見たのは、国際平和ミュージアムだった。
平和を希求するその場所で、今まさに起きている『排除』の光景が流されている。
平和という名の下で見過ごされかねない『今』の危機であることを物語っていた。
国際的にも「より脆弱な立場にある人」として配慮されるべきとされる妊婦や子どもに対する「配慮」が、
「ルール違反」として機械的に処理され、排除される。
それは本当に正当化されうるのだろうか。
私はその映像を見ながら、
非人道的なことをする人、される人、
そして、それをただ傍観する人のことを考えていた。
もし止めに入れば、新たな対立が生まれ、暴力的な騒動になるのだろうか、
自分がその場にいたとき、どこに立つのだろうか、と。
戦争や危機のような極限状況では、
本来守られるべき人権が揺らぎ、既存の偏見がむき出しになる。
恐怖と保身が、おかしいという感覚を封じ込め、倫理や原則を主張できなくさせる。
これは、歴史の中で繰り返されてきた。
以前、ロマの歴史について知ったとき、
排除や分離は「一部の人の問題」ではなく、
社会の仕組みとして積み重なってきたものだと感じた。
何をどうすればいいのか、考えても簡単に答えは出ない。
ただ、そこに現れているのは、
普段から私たちの中にある「歪んだ仲間意識」なのだと思う。
「誰を優先するか」という発想が、境界線を引き、人を排除する。
それは極限状況だけの話ではなく、
日常のラベルや仲間意識の中にも、すでに静かに埋め込まれているように思う。
矮小な選民意識が、対立や偏見を生み、
愚かな行動につながる。
自分は唯一で特別な存在。
でも、それは特権ではない。
その「特別」は、すべての人に等しく備わっている「普遍」。
それは、状況によって変わるものではないはず。
⬇️ロマ文化博物館での学び(社会の中で繰り返されることについて)
⬇️情報や記憶、プロパガンダと人間の認識
⬇️ラベルは「身分」じゃないと思う(「特別」という感覚が個人の中でどう歪むかについて)
