#88💭HSP、LSP、繊細さん|「気質ラベル」は、呑むものか、見せるものか
人の痛みに敏感だという、その気質ラベルの向き、
向けられた人大丈夫かな。
と思ってしまうのは私だけだろうか。
あらゆる"疾患ではない気質"に名前をつけていけば、
「配慮の椅子取りゲーム」が始まるかもしれない。
背景や未来を想像して思考が巡り、少し心配になる。
「繊細な私」への配慮を求める声は、以前よりも確実に可視化されている。
けれど、他の気質への配慮を求める声は、まだそれほど目立っていない。
臨床的な疾患や特性、人道的な権利や尊厳への配慮とは別物の「気質への配慮」について考えた。
HSPという概念
HSPという概念が広まり、もともとは「臨床的な概念ではない」と強調された、自己理解や適応のヒントになるニュートラルなツールだったはずのものが、
いつの間にか「繊細さ」のアイデンティティになっている。
HSPという言葉で説明できた気になってしまうことに、少し違和感がある。
それを提示された方はどう思うだろう。
共感?同情?嫌悪?敵対?
そもそも、わざわざ『気質』を前に出さなくても、
言葉や振る舞いを見れば、その人の繊細さは伝わることが多い気がする。
「偽HSP」という言葉まで出てきている時点で、関心がいかに高まっているかがうかがえる。
同時に、本来の提唱の意図から逸脱した使われ方が横行し、
本物か偽物かを区別しなければならないほど、
社会に歪みが生まれ始めているのではないだろうか。
HSPを提唱した心理学者のElaine N. Aron 氏も、
HSPを「言い訳(excuse)」ではなく「説明(explanation)」として捉えてほしいと繰り返し述べていて、
それが、免罪符や攻撃の道具にされるのは本意ではないだろうと思う。
概念と配慮
私が気になっているのは、HSPという概念そのものではない。
HSPを本物と偽物に分けたいわけでもない。
ただ、概念が社会の中でどう広がり、どう使われていくのかを考えてみた。
もし「low-sensitive group」(低感受性グループ)や「LSP(Low Sensitive Person)」という概念が日本で広まり、HSPと同じような文脈で消費されれば、
「気づきにくいのは気質だから配慮して」
「察せないのは気質だから”察して”は求めないで」
と言う人も出てくるかもしれない。
実際、海外の一部の研究ではすでに連続体のSPS(感覚処理感受性)の、
高い群、低い群、その中間に名前をつけ、対比させるものが存在する。
日本でも一部のブログやnoteで既に見かけることがある。
海外での広まりが日本にも波及し、HSPが辿ったのと「同じ道」を歩む可能性も否定できない、と私は思う。
「察して」と「はっきり言って」
「察して」や「何で気づかないの?」は、
配慮の欠如した暴力的な言葉となるかもしれない。
「ストレートに伝えること」が、
「気質の多様性に配慮した誠実なマナー」になるかもしれない。
そして、ポジティブな和名呼称が生まれるかもしれない。
配慮のインフレ
気質なんてたくさんありすぎて、各々が配慮を主張しだしたら、
相反する配慮が同時に存在したり、
誰かの配慮が、別の誰かへの負担になるという構造も生まれる。
どちらの配慮を優先するかが問題になったり、
配慮しないことが配慮になったりするかもしれない。
そうなると基準はどこ? ”誰が”決める?
答えはない。
だから、その”気質への配慮”について考える必要がある。
ただし、「気質への配慮」とは別物の、
臨床的な疾患や特性、人道的な権利や尊厳への配慮が優先されることは前提として忘れてはならない。
概念がどう使われるか
新しい概念の誕生が様々な変化を起こし、
混乱や過剰な分断が起きるかもしれないと思うと怖い。
新しい概念が誕生することが怖いのではない。
使う側の認識の変化が怖いのだ。
概念は、自分や他人の気質を説明しやすくしてくれる一方で、
免責化や特権化のリスクも伴う。
便利なものだけれど、扱い方を考えないと、
個人の在り方や周囲との関係性に新たな圧力を生む可能性もある。
そもそも、概念が分断の原因になるかもしれないという懸念が生じる地盤がおかしいのではないか。
どの気質が優れる/劣る、強い/弱い、良い/悪い。
そんなことは誰にも決められないし、そんな論争はくだらない。
この人は仲間だ/仲間じゃない、一緒だ/一緒じゃない、味方だ/敵だ。
そんな線引き、本当に必要なのかな。
気質は『ラベル』として掲げるものでもないし、誇るためのものでも卑下するためのものでもないと思う。
自己理解の活かし方
気質の概念を知ることで自己理解を深め、
自分と他者や環境との距離感を適切にするための「うまく生きるための知恵」に結びつけるか、
それとも、他者とは違う“特別”という歪な籠に閉じこもり、「他者を操作するための免罪符」にしてしまうか。
この2つは全く意味が異なる。
「私はこうだから変わらない」ではなくて、
「私はこういう傾向がある。だからこう工夫する」と考えた方が建設的。
「気質(大きなカテゴリー)への配慮」を相手や社会に求めるのではなく、
自分で困る状況や回避方法を把握し、
「私という個人の困りごと」を目の前の人に相談する方が現実的。
例えば、
「人混みが苦手だから、待ち合わせは少し静かな隣の駅にしてほしい」
「強い光が苦手だから、席を変えてほしい」
「大きい音が苦手だから、静かなお店に行きたい」
「じっくり考えたいから、返信は少し遅くなります」
というように。
自己理解と他者理解
大切なのは、気質や性質は明確な線引きができるものではなく、グラデーションを持つもので、
複数のものが混じり合うということを認識することではないだろうか。
誰もがきっと、何かしらの『生きにくさ』や『困りごと』は抱えているはず。
自分だけが”特別”ではないし、概念に際限はない。
気質の概念が”自己理解のための”ツールであることが、共通認識になってほしい。
気質の概念は、
ラベルとして外に向かって掲示し、
誰かをコントロールしたり、自らをショーケースに入れるものではなく、
内向きにして、自分の生きるヒントにするものだと覚えておきたい。
怖いのは、それが感受性以外の気質にも波及していくこと。
私は、
「怒りっぽい気質だから、配慮して」
「暴力的な気質だから、気をつけてね」
と、ためらいなく言える世の中にはなってほしくない。
⬇️ラベル付けは社会的な「排除」の論理にまで繋がってしまうことがある
⬇️気質を免罪符にしたくない私のl'art de vivre
⬇️瞬涙は基質だけで説明できない複合プロセスだと思う
⬇️ラベルより”個”を見たい
