キリスト再臨② 一瞬にして「朽ちない者」に変えられる者たち
聖書には、キリスト再臨時に「一瞬にして朽ちない者に変えられる」といった描写があります。
📌この記事では──
一瞬にして「朽ちない者」に変えられる者について考察します。
はじめに
まずは、次の二つの箇所をご覧ください。
これらはキリスト再臨の場面で代表的なものです。
【コリントの信徒への手紙一 15章51-52節】
わたしはあなたがたに神秘を告げます。
わたしたちは皆、眠りにつくわけではありません。
わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられます。
最後のラッパが鳴るとともに、たちまち、一瞬のうちにです。
ラッパが鳴ると、死者は復活して朽ちない者とされ、わたしたちは変えられます。
【テサロニケの信徒への手紙一 4章16-17節】
すなわち、合図の号令がかかり、大天使の声が聞こえて、神のラッパが鳴り響くと、主御自身が天から降って来られます。
すると、キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活し、それから、わたしたち生き残っている者が、空中で主と出会うために、彼らと一緒に雲に包まれて引き上げられます。
このようにして、わたしたちはいつまでも主と共にいることになります。
コリント第一の「最後のラッパ」は、テサロニケ第一の「神のラッパ」と同じものです。
このラッパは、キリスト再臨の合図です。
このラッパが鳴ると「たちまち一瞬のうちに今と異なる状態に変えられる」とあります。
さらに細かく見ていきます。
👉コリント第一 15章51-52節
「わたしたちは皆、眠りにつくわけではない」
「わたしたちは皆、今とは異なる状態に変えられる」
「死者は復活して朽ちない者とされる」
「わたしたちは一瞬で変えられる」
👉テサロニケ第一 4章16-17節
「キリストに結ばれて死んだ人たちが、まず最初に復活する」
「わたしたち生き残っている者が彼らと一緒に」
これらはパウロの記述ですが、「わたしたち」とは、端的に言えばキリスト者(キリストに結ばれた人=キリストにある者)を指しています。
まとめると、
💡キリスト再臨時には、それまでにキリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり朽ちない者に変えられ、生き残っているキリスト者も一瞬にして変えられる。
このように、この場面には、次の二種類の者が描かれています。
👉朽ちない者に変えられる二種類の者
① 再臨時までにキリストにあって死んだ人々
② 再臨時に生き残っているキリスト者
これらはいずれもキリスト再臨時に、一瞬にして変えられる者です。
この二種類の者について、詳しく見ていきます。
1|キリストにあって死んだ人々
キリスト再臨までの6000年間に亡くなった人々のうち、キリストにある者だけがよみがえります。
よみがえる者は非常に多く、大群衆になると預言されています(エゼキエル37章1-12節)。
神の民が生き返りイスラエルの地に入る
【エゼキエル書 37章1-12節】
主の手がわたしに臨み、主はわたしを主の霊に満たして出て行かせ、谷の中にわたしを置かれた。
そこには骨が満ちていた。
(中略)
わたしは命じられたように預言したが、わたしが預言した時、声があった。見よ、動く音があり、骨と骨が集まって相つらなった。わたしが見ていると、その上に筋ができ、肉が生じ、皮がこれをおおったが、息はその中になかった。
時に彼はわたしに言われた、
「人の子よ、息に預言せよ、息に預言して言え。主なる神はこう言われる、息よ、四方から吹いて来て、この殺された者たちの上に吹き、彼らを生かせ」。
そこでわたしが命じられたように預言すると、息はこれにはいった。すると彼らは生き、その足で立ち、はなはだ大いなる群衆となった。
(中略)
そこで彼はわたしに言われた、
「人の子よ、これらの骨はイスラエルの全家である。(中略)主なる神はこう言われる、わが民よ、見よ、わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたを墓からとりあげて、イスラエルの地にはいらせる。
枯れた骨とされるイスラエルの全家とは、信仰による民(神の民)のすべてのことで、キリストにあって死んだ人々のすべてを表しています。
彼らは生き返り、イスラエルの地(相続地)、つまり千年王国時代の神の王国に入ります。
彼らは、骨と骨とが集まり、筋ができ、肉が生じ、皮が覆い、息が入り、その足で立つとあります。
彼らは生き返り、はなはだ大群衆となります。
👉イスラエルの全家=信仰による民(神の民)=キリストにあって死んだ人々
📍枯れた骨が生き返り大群衆となったイスラエルの全家については、下の記事をご覧ください。
骨が生き返る預言が中東イスラエルの建国でないことが分かります。
よみがえった人は天の御使のようなもの
イエスは死人の復活について次のように語っています。
【マルコによる福音書 12章25節】
彼らが死人の中からよみがえるときには、めとったり、とついだりすることはない。
彼らは天にいる御使のようなものである。
この箇所は、復活を信じないサドカイ派ユダヤ人の質問に対して、イエスが答えたものです。
死人がよみがえると、天の御使のようになるとあります。「めとったり、嫁いだりしない」とあるので、肉的ではなく、霊的な復活となるのでしょう。
ここの「彼ら」とは、文脈上、一義的にはモーセ律法の下にある者(ユダヤ人)を指していますが、イエスの回答は、一般論として「人が死人の中からよみがえる時」のことを述べていると捉えられます。
なぜなら、「キリストにあって死んだ人」と言及されておらず、質問者のサドカイ派も質問の事例に登場した人物も、キリストにある者かどうか不明だからです(マルコ12章18-27節)。
つまり、ここでイエスが語ったのは、キリスト再臨時のことではなく、新天新地においてよみがえるすべての人々(7000年間のすべての死者)をも含めて述べており、すべての死人がよみがえる時、彼らは「御使のような者」になってよみがえると言っているのです。
👉新天新地でよみがえる人々は御使のような者になる

2|キリスト再臨時にある「第一の復活」とは
続いて次の箇所をご覧ください。
黙示録20章の前段(1-6節)は、キリスト再臨後にある千年王国時代の描写で、キリストと共に統治する聖なる者について書かれています。
「第一の復活」にあずかる者は、聖なる者
【ヨハネの黙示録 20章4-6節】
また見ていると、かず多くの座があり、その上に人々がすわっていた。そして、彼らにさばきの権が与えられていた。
また、イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊がそこにおり、また、獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々がいた。
彼らは生きかえって、キリストと共に千年の間、支配した。(それ以外の死人は、千年の期間が終るまで生きかえらなかった。)これが第一の復活である。
この第一の復活にあずかる者は、さいわいな者であり、また聖なる者である。この人たちに対しては、第二の死はなんの力もない。
彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストと共に千年の間、支配する。
この箇所には第一の復活にあずかる二種類の者について、記述されています。
ひとつは、
「イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々の霊」とあり、これは殺され殉教した者のことです(黙示録6章9-11節)。
この霊とは別に、
「獣をもその像をも拝まず、その刻印を額や手に受けることをしなかった人々」とあり、これは神に対して最後まで純潔を守った者のことです(黙示録14章1-5節)。
そして、
「彼らは生き返る」とあり、これが第一の復活とあります。
この二種類の者は、殉教の弟子(パウロほか大勢の者)といわば天寿の弟子(ヨハネほか大勢の者)を象徴しています。
つまり、
彼らは朽ちない者に変えられる二種類の者を象徴しており、次のとおり表せます。
① 殉教の弟子=再臨時までにキリストにあって死んだ人々
② 天寿の弟子=再臨時に生き残っているキリスト者
注:天寿の弟子とは、いわゆる天寿をまっとうした(まっとうする)弟子のことです。
👉彼らはいずれも、肉において死に、霊において生き返る者であり、復活し、朽ちない者になる者、第一の復活にあずかる幸いな者であり、祭司となって千年王国時代をキリストと共に諸国民を治めるのです。
大患難末期に殉教する者は幸い
【ヨハネの黙示録 14章13節】
またわたしは、天からの声がこう言うのを聞いた、「書きしるせ、『今から後、主にあって死ぬ死人はさいわいである』」。
御霊も言う、「しかり、彼らはその労苦を解かれて休み、そのわざは彼らについていく」。
ここにある「今から後」とは、キリスト再臨直前の大患難末期のことです。
キリスト再臨までの殉教を積極的に推奨するものではありませんが、これを文字どおり読めば、仮に殉教したとしてもその報いは大きく、第一の復活にあずかる幸いな者となることが確約されると解釈できます。
しかし、前述のとおり天寿の弟子も第一の復活にあずかることから「主にあって死ぬ」とは、「肉によって生きるのをやめる」ことを表しているのかもしれません。だとすれば、第一の復活にあずかる者となるには、キリスト再臨直前のギリギリでも間に合う可能性はあると言っているのかもしれません(ぶどう園の賃金のたとえ)。
このギリギリ間に合った者は、まさに幸いな者と言えるでしょう。
小まとめ
📌再臨時までにキリストにあって死んだ人々
💡キリスト再臨までの6000年間に亡くなった者のうち、キリストにある者(イスラエルの全家=神の民)だけがよみがえる
💡骨に肉が付き息が入る(肉の身体での復活)
💡朽ちない者に変えられる(御使のような者になる)
📌第一の復活にあずかる者
💡上記の「再臨時までにキリストにあって死んだ人々」を含む
💡イエスのあかしをし神の言を伝えたために首を切られた人々(殉教の弟子)
💡獣の刻印を額や手に受けることをしなかった人々(天寿の弟子)
💡祭司となって千年王国時代をキリストと共に諸国民を治める
💡第二の死(火の池)の影響をまったく受けない
💡キリスト再臨直前のギリギリに間に合う者がいる
👉以上のとおり「再臨時までにキリストにあって死んだ人々」と「第一の復活にあずかる者」との関係性が整理されました。
一見、「第一の復活にあずかる者」の条件の方が一段高いような気もしますが、骨が生き返り大群衆となった描写の箇所に「この殺された者たち」とあることから、これらは同一と言えるでしょう(エゼキエル37章9節)。
殉教と聞けば、大きな迫害の末、殺されるイメージが先行しますが、アダムの罪以来、世に死が入り、神の民やキリスト者とされながらも多くの人々が死にましたが、そもそも、彼らが死を味わうこと自体が殉教と表現されるべきなのかもしれません。
3|生き残っているキリスト者
では、いまも生き残っているキリスト者について、見ていきましょう。
彼らは、キリスト再臨時によみがえった人々と共に、朽ちない者に変えられ、ハルマゲドンの戦いを勝利する者ですが、次のように記述されています。
【ヨハネによる福音書 11章23-26節】
イエスはマルタに言われた、
「あなたの兄弟はよみがえるであろう」。
マルタは言った、
「終りの日のよみがえりの時よみがえることは、存じています」。
イエスは彼女に言われた、
「わたしはよみがえりであり、命である。わたしを信じる者は、たとい死んでも生きる。また、生きていて、わたしを信じる者は、いつまでも死なない。あなたはこれを信じるか」。
これは、マルタの死んだ兄弟ラザロについて、イエスが「よみがえる」と述べた場面です。
マルタは「終わりの日のよみがえりの時」、つまり、キリスト再臨時に死者の復活があることは知っていると述べました。
これに対してイエスは、信じる者(キリストにある者)は「死んでも生きる」「生きている者はいつまでも死なない」と返しました。
これは、マルタが言った「キリスト再臨時のこと」について、イエスは「キリストにあって死んだ人々」と「生き残っているキリスト者」に言及し、「生きている者はいつまでも死なない」と言ったのです。
肉の身体は変えられハルマゲドンの戦いの後、千年王国に入る
ハルマゲドンの戦いに勝利したキリスト者は、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぎ、キリストに似る者となります。
【ペテロの第一の手紙 1章4節】(キリスト再臨時)
あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。
【ヨハネの第一の手紙 3章2節】(キリスト再臨時)
愛する者たちよ。
わたしたちは今や神の子である。
しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明らかではない。
彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似るものとなることを知っている。
そのまことの御姿を見るからである。
ヨハネが「どうなるのかまだ明らかではない」と述べているように、具体的なことは、明確には分かりません。しかし、いくつかのヒントから分かることがあります。
📌生き残っているキリスト者
💡肉の身体を持つが朽ちない者に変えられる
💡霊の身体に復活したキリストに似る者となる
💡「天の朽ちない資産」を受け継ぐ
💡地上で千年王国時代を生きる
💡いつまでも死なない
💡「第一の復活」にあずかる天寿の弟子である
📍キリスト再臨からハルマゲドンの戦いまでの流れは、下の記事をご覧ください。
4|ハルマゲドンでの戦いに勝利したキリスト者
キリスト再臨時に生き残っているキリスト者は、キリストにあって死んだ人々と共に、一瞬にして朽ちない者に変えられ、ハルマゲドンでの戦いに勝利します。
朽ちない者となったキリスト者たちは、病気や障害は癒されてなくなり、健全で霊的に充実した者として霊の身体に復活したキリストに似る者となるでしょう。
彼らは、「いつまでも死なない」とあったとおり、基本的には千年王国時代において死ぬ想定はありません。キリストを信じ続ける限り、千年間を生きて新天新地に入るでしょう。
サタンが支配するこの世を生き抜き、かつてなく今後もないような大患難とハルマゲドンの戦いを勝利したキリスト者は、人の歴史の7000年間で非常に稀な存在となるでしょう。
彼らの経験は、キリストが統治する神の王国で千年間語り継がれ、最後のエゼキエル戦争まで、彼らはきっと重要な役割を与えられ充実した暮らしを日々送ることでしょう。
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