【神の印】イスラエルと白い衣の大群衆との関係──期間限定
終末期に押される神の印
神の印をご存じでしょうか。
もしかしたら「獣の刻印」というのを聞いたことがあるかもしれません。
聖書には、獣の刻印に対して「神の印」があります。
📌この記事では、
終末期が描かれるヨハネの黙示録の7章を中心に、①神の印を押される者は誰か、②押された者はどうなるのか、そして、③押されない者について見ていきます。
一、神の印が押される者
まずは、神の印が記述された箇所を確認しましょう。
【ヨハネの黙示録 7章1-4節】
7章1節 この後、わたしは四人の御使が地の四すみに立っているのを見た。彼らは地の四方の風をひき止めて、地にも海にもすべての木にも、吹きつけないようにしていた。
7章2節 また、もうひとりの御使が、生ける神の印を持って、日の出る方から上って来るのを見た。彼は地と海とをそこなう権威を授かっている四人の御使にむかって、大声で叫んで言った、
7章3節 「わたしたちの神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない」。
7章4節 わたしは印をおされた者の数を聞いたが、イスラエルの子らのすべての部族のうち、印をおされた者は十四万四千人であった。
神の印は、神の使いが額に押す
獣の刻印は、右手または額(行いや思い)に自ら受ける(受けてしまう)ものですが(黙示録13章16-17節)、神の印は、御使いによって選ばれた者に押されます。
神の印が押されるタイミングは期間限定
7章3節に「印をおしてしまうまでは、地と海と木とをそこなってはならない」とあります。
この箇所の読解は、印を押し終わるまで地と海と木とが延々と損なわれないのではなく、「地と海と木とをそこなう」時とは、神の大いなる日のことであり、その時は定められていますので(マルコ13章32節)、印が押されるのは、その定められた時までの期間限定であることが分かります。
これに関連する描写が、黙示録の10章~11章に記述されています。この箇所には、終末期の最終場面(キリスト再臨)の1260日前から始まる出来事が記述されています。
補足:
聖書、特に黙示録や預言書は、文字通りに読んでも正しく理解できません。たとえや隠語で語られた箇所は、聖書の他の箇所と照らし合わせ、聖書で聖書を読み解く必要があります。
👉「地と海と木とをそこなう」とは、地=宗教、海=政治、木=宗教由来の文化等、そこなう=破滅。つまり、この世への裁きのことです。
👉1260日=42か月=三年半、または1260年
先ほどの7章1-4節と10章11節~11章1-3節とは、終末期の最終場面(キリスト再臨)の1260日前の描写で関連しています。
【ヨハネの黙示録 10章11節~11章1-3節】
10章11節 その時、
「あなたは、もう一度、多くの民族、国民、国語、王たちについて、預言せねばならない」と言う声がした。
11章1-3節 それから、わたしはつえのような測りざおを与えられて、こう命じられた、
「さあ立って、神の聖所と祭壇と、そこで礼拝している人々とを、測りなさい。聖所の外の庭はそのままにしておきなさい。それを測ってはならない。そこは異邦人に与えられた所だから。彼らは、四十二か月の間この聖なる都を踏みにじるであろう。
そしてわたしは、わたしのふたりの証人に、荒布を着て、千二百六十日のあいだ預言することを許そう」。
これら一連の箇所を読み解くには、次のワードの意味を理解する必要があります。
① イスラエルの子ら十四万四千人(7章1-4節)
② 神の聖所と祭壇と礼拝者を測る(11章1-3節)
③ 二人の証人が1260日の間預言する(10章11節~11章3節)
順に見ていきましょう。
① イスラエルの子ら十四万四千人とは
黙示録7章4節に「イスラエルの子らのすべての部族のうち、印をおされた者は十四万四千人」とありました。
神の印を押される母体となるイスラエルの子らとは、誰のことなのでしょう。中東イスラエルの国民のことでしょうか。それとも世界中に散っているユダヤ人のことでしょうか。
イスラエルについて、聖書には次のように書かれています。
【創世記 32章28節】
その人は言った、
「あなたはもはや名をヤコブと言わず、イスラエルと言いなさい。あなたが神と人とに、力を争って勝ったからです」。
これは、選ばれた民イスラエル十二部族の父であるヤコブにイスラエルという名が与えられた場面です。
「あなたはもはや名をイスラエルと言いなさい」と言った理由が、「あなたが神と人とに、力を争って勝ったから」とあります。
この翻訳では分かりにくいのですが、「神と」の部分は原語的には「with God」のニュアンスがあり、正確には「あなたは神と共に奮闘し、人と戦って勝ったから」となります。

つまり、「神と共に奮闘し、人と戦って勝つ者」は、その名を「イスラエル」と言うのです。
「ヤコブの子」が血筋による民であるのに対し、「イスラエルの子」は信仰による民を指します。よって、イスラエルとは、信仰による神の民=真のキリスト者のことなのです。
そして、ここで数えられた数字、144,000人は実際の数ではありません。獣の数字666と同様、象徴的な数字でしょう。
✅神と共に奮闘し、人と戦って勝つ者=イスラエル
👉真のキリスト者こそがイスラエルです
✅象徴144,000人=12部族×12使徒×1000
※12部族は、血筋の民。
※12使徒は、信仰の民。
※1000は、神の日を表す。
② 神の聖所と祭壇と礼拝者を測るとは
「神の聖所と祭壇と礼拝者」とは
黙示録11章1-3節に「神の聖所と祭壇と、そこで礼拝している人々とを、測りなさい」とありました。
神の聖所とは神殿です。祭壇とは犠牲を捧げる(献身する)ところです。礼拝者とは信者です。
これらも象徴的に書かれており、以下の聖書箇所からその意味が分かります。
【コリント人への第一の手紙 3章16-17節】
あなたがたは神の宮であって、神の御霊が自分のうちに宿っていることを知らないのか。もし人が、神の宮を破壊するなら、神はその人を滅ぼすであろう。
なぜなら、神の宮は聖なるものであり、そして、あなたがたはその宮なのだからである。
【コリント人への第一の手紙 6章19-20節】
あなたがたは知らないのか。
自分のからだは、神から受けて自分の内に宿っている聖霊の宮であって、あなたがたは、もはや自分自身のものではないのである。あなたがたは、代価を払って買いとられたのだ。
それだから、自分のからだをもって、神の栄光をあらわしなさい。
【ペテロの第一の手紙 2章4-5節】
主は、人には捨てられたが、神にとっては選ばれた尊い生ける石である。
この主のみもとにきて、あなたがたも、それぞれ生ける石となって、霊の家に築き上げられ、聖なる祭司となって、イエス・キリストにより、神によろこばれる霊のいけにえを、ささげなさい。
【ヨハネによる福音書 2章19-22節】
イエスは彼らに答えて言われた、
「この神殿をこわしたら、わたしは三日のうちに、それを起すであろう」。
そこで、ユダヤ人たちは言った、「この神殿を建てるのには、四十六年もかかっています。それだのに、あなたは三日のうちに、それを建てるのですか」。
イエスは自分のからだである神殿のことを言われたのである。それで、イエスが死人の中からよみがえったとき、弟子たちはイエスがこう言われたことを思い出して、聖書とイエスのこの言葉とを信じた。
このように「あなた方が神殿だ」と明確に述べられており、イエスも自分の身体を神殿にたとえました。この内容は、四つの福音書にも記述されており、ペテロとパウロも手紙の中でその考えを踏襲しています。
そして、同じ箇所で「もはや自分自身のものではなく買い取られた。霊のいけにえを捧げよ」とあり、キリスト者の献身を表しています。
よって、神の聖所と祭壇と礼拝者とは、献身したキリスト者自身のことです。
✅神殿とは献身したキリスト者自身のこと
「測る」とは
「測る」には、以下のような意味があります。
1.神の選びと所属
神は、実際にイスラエルの民を数えさせたことがありました。神に属する民の戦士を数えました。
【民数記 1章2-3節】
「あなたがたは、イスラエルの人々の全会衆を、その氏族により、その父祖の家によって調査し、そのすべての男子の名の数を、ひとりびとり数えて、その総数を得なさい。イスラエルのうちで、すべて戦争に出ることのできる二十歳以上の者を、あなたとアロンとは、その部隊にしたがって数えなければならない。
これは、イスラエルの民が神の選びの民であることを確認し、神の秩序の中での役割を与えるためのものでした。
戦士と言うと仰々しいですが、ここでも「神と共に奮闘し、人と戦って勝つ者=イスラエル」ということが確認できます。
2.神が保護する範囲
測ることは、神の守りの範囲を表します。
【ゼカリヤ書 2章1-5節】
またわたしが目をあげて見ていると、見よ、ひとりの人が、測りなわを手に持っているので、「あなたはどこへ行くのですか」と尋ねると、その人はわたしに言った、「エルサレムを測って、その広さと、長さを見ようとするのです」。
すると見よ、わたしと語る天の使が出て行くと、またひとりの天の使が出てきて、これに出会って、言った、「走って行って、あの若い人に言いなさい、『エルサレムはその中に、人と家畜が多くなるので、城壁のない村里のように、人の住む所となるでしょう。主は仰せられます、わたしはその周囲で火の城壁となり、その中で栄光となる』と」。
エルサレムとは、神殿のある都のことです。
この箇所では、エルサレム(神の聖都)に対する神の守りと計画が示されました。
また、エゼキエル40章~42章では、エゼキエルが新しい神殿の詳細な測量を命じられています。これは、神の聖なる場所を定め、そこに入る者を選別し、神の計画を遂行するために必要な広さを測ったものと考えられます。
3.神の裁きと基準
測ることや数えることは、神の裁きの前段階として行われます。
次の箇所は、不遜な行いを重ねていたバビロン王であるベルシャザルが神に量られた場面です。
【ダニエル書 5章24-30節】
それゆえ、彼の前からこの手が出てきて、この文字が書きしるされたのです。そのしるされた文字はこうです。
メネ、メネ、テケル、ウパルシン。
その事の解き明かしはこうです、メネは神があなたの治世を数えて、これをその終りに至らせたことをいうのです。
テケルは、あなたがはかりで量られて、その量の足りないことがあらわれたことをいうのです。
ペレスは、あなたの国が分かたれて、メデアとペルシャの人々に与えられることをいうのです」。
ここで示された「テケル」とは「計量されて不足があると判定された」という意味であるとあり、その夜のうちにベルシャザルは殺され、神が人を測ることで裁きを下すことが示されています(ダニエル5章30節)。
補足:
神殿とは個々のキリスト者のことであって、教会や教団、また建物のことではありません。
ふさわしいたとえではないかもしれませんが、個々のキリスト者は、大神殿であるキリストのいち部分(部品・パーツ)であって、そのパーツの真正さ、純正さ、個数を測っていると言えるでしょう。(コリント第一12章14-27節)
✅測るとは、キリスト者の真正、純正、数を調べること
💡神の聖所と祭壇と礼拝者を測るとは…
神が定めた裁きの時に、守るべきイスラエルの民を特定するため、神の基準に適っているキリスト者を選ぶこと、またそのようなキリスト者を一人ひとり数えることと言えます。
③ 二人の証人が1260日の間預言するとは
黙示録10章11節に「あなたは、もう一度、多くの民族、国民、国語、王たちについて、預言せねばならない」、そして11章1-3節に「わたしは、わたしのふたりの証人に、荒布を着て、千二百六十日のあいだ預言することを許そう」とありました。
「もう一度」と言うのは、これまでも聖書を通じて世界中で福音は伝えられてきましたが、終末期の最後にもう一度、預言することを許されたということです。
終末期の最終場面に向けての1260日間、二人の証人による最後の預言が命じられているのです。
額に印をつける
終末期の1260日間の預言を通じて、その預言を受け入れる人には神の印が押されるのでしょう。
次のエゼキエル書の箇所が参考になります。
【エゼキエル書 9章3-7節】
ここにイスラエルの神の栄光がその座しているケルビムから立ちあがって、宮の敷居にまで至った。
そして主は、亜麻布を着て、その腰に物を書く墨つぼをつけている者を呼び、彼に言われた、「町の中、エルサレムの中をめぐり、その中で行われているすべての憎むべきことに対して嘆き悲しむ人々の額にしるしをつけよ」。
またわたしの聞いている所で他の者に言われた、「彼のあとに従い町をめぐって、撃て。あなたの目は惜しみ見るな。またあわれむな。老若男女をことごとく殺せ。しかし身にしるしのある者には触れるな。まずわたしの聖所から始めよ」。
そこで、彼らは宮の前にいた老人から始めた。
この時、主は彼らに言われた、「宮を汚し、死人で庭を満たせ。行け」。
そこで彼らは出て行って、町の中で撃った。
この場面と同じように、終末期において「すべての憎むべきことに対して嘆き悲しむ人々の額」に神の印が付されるのかもしれません。
そして「撃て。まずわたしの聖所から始めよ」とあるように、終末期において、神の印のない自称イスラエル(自称キリスト者)が最初に撃たれるのかもしれません。
ここの記述も象徴的な預言であって、実際的な目に見える処刑ではなく、霊的な意味、つまりその人の内心を撃たれる(命の書から名が消される)とも解せます。
したがって、人間には霊的な裁きが見えなので、知らない間に神の印がない者への裁きが行われているとも言えます。
語弊があるかもしれませんが、単なる肉的な死であれば復活の見込みがありますが、肉的に生きてはいても命の書から名が消された(霊的に死んでいる)なら、その者の行先は火の池になってしまいます(黙示録20章15節)。
また「しかし身にしるしのある者には触れるな」とあるように、神の印がある者は、たとえ肉的な死を味わうことになったとしても、霊的には守られるということでしょう。
✅再預言は終末期の最終場面に向けてラスト1260日間の期間限定
聖書には、二人の証人の預言の様子が描かれています。先ほど示した10章11節~11章1-3節の続きの箇所です。この箇所も象徴的(黙示的)に描かれており、そのままの意味ではありません。
【ヨハネの黙示録 11章4-6節】
彼らは、全地の主のみまえに立っている二本のオリブの木、また、二つの燭台である。
もし彼らに害を加えようとする者があれば、彼らの口から火が出て、その敵を滅ぼすであろう。
もし彼らに害を加えようとする者があれば、その者はこのように殺されねばならない。
預言をしている期間、彼らは、天を閉じて雨を降らせないようにする力を持っている。さらにまた、水を血に変え、何度でも思うままに、あらゆる災害で地を打つ力を持っている。
二人の証人の預言を聞く者は幸いな者とされ、その預言を守る者には、御使いによって神の印が押されるのでしょう(黙示録22章6-7節)。
これは、終末期の1260日間に行われます。
【ヨハネの黙示録 22章6-7節】
彼はまた、わたしに言った、「これらの言葉は信ずべきであり、まことである。預言者たちのたましいの神なる主は、すぐにも起るべきことをその僕たちに示そうとして、御使をつかわされたのである。見よ、わたしは、すぐに来る。この書の預言の言葉を守る者は、さいわいである」。
📍「二人の証人」「最後の三年半」については、次の記事をご覧ください。
👉【黙示録11章】終末期の二人の証人
👉【ダニエル9章】終末期に契約を結ぶ君主
ここまでを一旦まとめます
✅神と共に奮闘し、人と戦って勝つ者=イスラエル
👉真のキリスト者こそがイスラエルです
✅象徴144,000人=12部族×12使徒×1000
✅神殿とは献身したキリスト者自身のこと
✅測るとは、キリスト者の真正、純正、数を調べること
✅再預言は終末期の最終場面に向けてラスト1260日間の期間限定
要約すると…
終末期の最終場面(キリスト再臨)に向けての最後の1260日間、二人の証人とされる者たちが再び預言する。
預言によって回心する者や真正で純正なキリスト者は、象徴的な数字である144,000人に数えられ、真のキリスト者(イスラエル)として、神の印が押される。
彼らは大患難を神と共に奮闘して戦い、勝利する。
【ヨハネの黙示録 14章1-5節】
なお、わたしが見ていると、見よ、小羊がシオンの山に立っていた。また、十四万四千の人々が小羊と共におり、その額に小羊の名とその父の名とが書かれていた。
(中略)
彼らは、女にふれたことのない者である。彼らは、純潔な者である。
そして、小羊の行く所へは、どこへでもついて行く。彼らは、神と小羊とにささげられる初穂として、人間の中からあがなわれた者である。彼らの口には偽りがなく、彼らは傷のない者であった。
今がその時
黙示録7章1-4節に「神の僕らの額に、わたしたちが印をおしてしまう」とありましたが、それは真に今、行われているのかもしれません。
そうであれば、真のキリスト者の真正さと純正さとが測られ、神の印が押された人々が数えられている真っ最中といえます。
終わりの時と言うと、それこそたとえ話だとか、架空の話だとか、そういう気概で生きるのであって実際には来ないとか、信じ難く眉唾に思われるのは仕方ありませんが、聖書やキリストを信じていなくても、今の世の中のおかしさを、肌で感じ目で見て怪しんでいる人は世界中に沢山います。
もしかしたら、本当に聖書のとおりに今が終末期なのかもしれません。
補足:
黙示録の記述を文字通りに読み、「イスラエル」を現イスラエル国、「12部族」をイスラエル人(ユダヤ人)、「144,000人」を実際の数字だとする解釈がありますが、全くの誤読ですのでご注意ください。
二、神の印を押された者はその後どうなるか
黙示録7章1-4節で神の印を押されたイスラエルは、続く9-17節で次のように描写されています。
【ヨハネの黙示録 7章9-17節】
7章9-12節 その後、わたしが見ていると、見よ、あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆が、白い衣を身にまとい、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立ち、大声で叫んで言った、
「救は、御座にいますわれらの神と小羊からきたる」。
(中略)
7章13-17節 長老たちのひとりが、わたしにむかって言った、「この白い衣を身にまとっている人々は、だれか。また、どこからきたのか」。わたしは彼に答えた、「わたしの主よ、それはあなたがご存じです」。
すると、彼はわたしに言った、
「彼らは大きな患難をとおってきた人たちであって、その衣を小羊の血で洗い、それを白くしたのである。それだから彼らは、神の御座の前におり、昼も夜もその聖所で神に仕えているのである。御座にいますかたは、彼らの上に幕屋を張って共に住まわれるであろう。彼らは、もはや飢えることがなく、かわくこともない。太陽も炎暑も、彼らを侵すことはない。御座の正面にいます小羊は彼らの牧者となって、いのちの水の泉に導いて下さるであろう。また神は、彼らの目から涙をことごとくぬぐいとって下さるであろう」。
白い衣の大群衆とは、大きな患難を通ってきた人たちです。
彼らは、黙示録7章1-4節で神の印を押され、その後、大患難の苦難を耐え、神と共に奮闘し勝利を得た、十四万四千人のイスラエルです。
✅十四万四千人のイスラエル=白い衣の大群衆
👉真のキリスト者こそがイスラエルです
彼らは「あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、数えきれないほどの大ぜいの群衆」となって、白い衣をまとい、しゅろの枝を持ち、御座と小羊の前に立って賛美するというのです。
そして、彼らは、もはや飢えることも、渇くこともなく、ことごとく涙をぬぐわれます。
あなたやあなたのご家族が、この白い衣の大群衆の中にいることを想像してみてください。
なんという報いでしょうか。
三、神の印を押されない者
黙示録7章5-8節に、神の印を押されたイスラエル十二部族が列記されています。
各部族12,000人で全部で144,000人になります。
【ヨハネの黙示録 7章5-8節】
ユダの部族のうち、一万二千人が印をおされ、
ルベンの部族のうち、一万二千人、
ガドの部族のうち、一万二千人、
アセルの部族のうち、一万二千人、
ナフタリ部族のうち、一万二千人、
マナセの部族のうち、一万二千人、
シメオンの部族のうち、一万二千人、
レビの部族のうち、一万二千人、
イサカルの部族のうち、一万二千人、
ゼブルンの部族のうち、一万二千人、
ヨセフの部族のうち、一万二千人、
ベニヤミンの部族のうち、一万二千人が印をおされた。
イスラエル十二部族とは、ヤコブの12人の息子が始祖となった部族です。
そのうちのレビはヤコブの12人の息子の1人ですが、レビ族は祭司の一族として特別な役割を与えられたため相続地を持たず、十二部族には数えません。
その代わり、正妻ラケルの長男であるヨセフの二人の息子(ヤコブの孫となるマナセとエフライム)が入り、十二部族となります。

注:レビ族は相続地を持たず、ヨセフはマナセ族とエフライム(ヨセフ)族に分かれる。
7章5-8節に列記された十二部族には、相続地を持たないはずのレビ族が入り、なぜかダン族の名前がありません。レビ族が相続地を持たないことは、イスラエル人(ユダヤ人)にとっては常識ですが、これはどういうことでしょう。
除かれたダン族とは
創世記にあるヤコブの遺言
【創世記 49章16-18節】
ダンはおのれの民をさばくであろう、イスラエルのほかの部族のように。ダンは道のかたわらのへび、道のほとりのまむし。馬のかかとをかんで、乗る者をうしろに落すであろう。
主よ、わたしはあなたの救を待ち望む。
士師記にあるダン族の偶像崇拝
【士師記 18章27-31節】
さて彼らはミカが造った物と、ミカと共にいた祭司とを奪ってライシにおもむき、穏やかで、安らかな民のところへ行って、つるぎをもって彼らを撃ち、火をつけてその町を焼いたが、シドンを遠く離れており、ほかの民との交わりがなかったので、それを救うものがなかった。その町はベテレホブに属する谷にあった。
彼らは町を建てなおしてそこに住み、イスラエルに生れた先祖ダンの名にしたがって、その町の名をダンと名づけた。その町の名はもとはライシであった。
そしてダンの人々は刻んだ像を自分たちのために安置し、モーセの孫すなわちゲルショムの子ヨナタンとその子孫がダンびとの部族の祭司となって、国が捕囚となる日にまで及んだ。
神の家がシロにあったあいだ、常に彼らはミカが造ったその刻んだ像を飾って置いた。
ダンは、父ヤコブに「道のかたわらのへび、道のほとりのまむし」と言われ、後にダン族は、北イスラエル王国が滅亡するまでの数百年間、刻んだ像を常に飾って、偶像崇拝に堕ちました。
意図されたメッセージ
ヤコブの子であり相続地の権利があるはずのダン族が除かれ、相続地を持たないはずのレビ族(祭司の一族)の名があるのは、エゼキエル48章の記述と異なります。
確かに、歴代誌においてダン族の系図が一切記述されていないという事情がありますが、これはゼブルン族も同様で、ダン族だけを除外したということは、明確な意図がなければ説明がつきません。
その意図とは、やはり、ダン族は偶像崇拝の象徴であったことから、その罪の重さを伝えようとしたのでしょう。
そこまでして、伝えようとしたメッセージは、「偶像崇拝を続ける者は、たとえヤコブの子(イスラエルの子)であっても神の印は押されない」ということだと言えます。
✅十戒:第二戒
【出エジプト記 20章4-6節】
あなたは自分のために、刻んだ像を造ってはならない。
上は天にあるもの、下は地にあるもの、また地の下の水のなかにあるものの、どんな形をも造ってはならない。
それにひれ伏してはならない。
それに仕えてはならない。
あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神であるから、わたしを憎むものは、父の罪を子に報いて、三、四代に及ぼし、わたしを愛し、わたしの戒めを守るものには、恵みを施して、千代に至るであろう。
四、おわりに
神の印とは、真のキリスト者(白い衣の大群衆)のしるしです。
たとえキリスト者であっても、神は聖所から撃つとあったように、まずはキリスト者に裁きが下ります。
自分自身の神殿の再点検が必要です。
いま信じているものは、果たして正しいのか。偽の宗教を偶像として拝んでいないか。
ダン族の名前がなかったことを、重く受け止めたいですね。
獣の刻印を受けずとも、無印の人々が沢山いることでしょう。残された時間は、本当に1260日もないのかもしれません。それに気付いて欲しくてこの記事を書いています。
無印の人々のラストチャンスは、キリスト再臨時に、主を見た時です。
善良であるがダン族のように偶像崇拝に堕ちている人々が、最後の最後に主を見て、回心できますように。
📍偶像崇拝については、下の記事をご覧ください。

思うこと
最後までお読みいただき誠にありがとうございます。
このような記事にお付き合いいただけるなんて、かなりの聖書通とお見受けします。「神の印」「イスラエル」「14万4千人」「大群衆」と聞いて、黙示録第7章が思い浮かんだとしたら、黙示録マニアかもしれません。
だとしたら、きっと終末論にも関心がおありだと思います。
数十年前、聖書を通じて、神の計画が六日(6000年)だと知った時、その6000年目がいつなのか非常に興味が湧きました。過去において、さまざまな人が年代を追って調べていたのを見ましたが、その多くは当時でも、6000年目とされる年は既に過ぎていました。
ノストラダムスの1999年は何も起こらず、ミレニアムと騒がれた2000年も2001年も何もなく過ぎました。
6000年目が既に過ぎているのなら、神の計画は「およそ6000年」ということになり、その時がいつなのかまったく分からないことに愕然としました。10年後かもしれないし、20年後かもしれない、もしくは100年後なのかと。
しかし、今、「ちょうど6000年目」が西暦2028年であることが聖書によって示されています。もしそれが本当なら、その時から遡る1260日は、始まる頃かもう始まっているかというタイミングです(2025年4月執筆)。
何という時代に生きているのだろうと感慨深く思います。
もし、本当に本当なら、今できることを精一杯やり貫きたいと思っているところです。
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