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名前のついた善意、痛みに出会ってしまった僕らがそれでも手放さずにいるもの

今回は少しだけ、慎重な話をしたいと思っています。
「誰かを助けたい」という気持ちについてです。

それは、どこかで傷を見つけてしまったとき。
泣き声を、沈黙の中に感じ取ってしまったとき。
あるいは、「自分が通ってきたあの痛みを、他の誰かには味あわせたくない」と思ったとき。
そんなときに、僕らはふと、「助けたい」と思うのだと思います。

しかし、この「助けたい」という気持ちに名前をつける人たちがいます。
心理学の用語で「メサイア・コンプレックス(救世主妄想)」と呼ばれるものです。

これは、「他者を救うことで、自分の価値を見出そうとする心の在り方」だと説明されます。
善意のように見えて、実は自己愛の延長線かもしれない
そんな見方もされます。

たしかに、そういう一面はあるでしょう。
誰かを助けることで自分の存在意義を確かめる。
傷を埋めるために、他人の傷を利用する。
自分の価値が壊れてしまいそうだから、誰かのためになろうとする。

それは、あり得る話です。
そして、きっとそれは“悪い”ことではないのです。

人間はそんなに単純なものではありません。
動機がひとつだけで成り立っているわけではないのです。
「助けたい」という衝動の裏には、
・自分の過去の傷
・誰かにしてほしかったこと
・もしくは、純粋なやさしさ
さまざまな思いが、入り混じっていることでしょう。

それを「コンプレックス」という名で片づけてしまえば、たしかにラクです。
ラベルを貼って、「はい、これは病理です」と処理してしまえば、安心できる気がする。
でも、それでは見えなくなってしまうものがあります。

その人の、苦しみの重さも。
その人の、思いやりの熱も。
その人が、なぜそこまで"助けたい"と願ってしまうのかという、物語そのものも。

心理学の知識は、道具です。
それを人に投げつけるために持つのではなく、人と関わるときに"余分な歪み"に気づくために使うのだと、僕は思っています。

人を救おうとするその行動に、何らかの「利己性」が含まれていたとしても、"誰かの命"や"心"がそのことで軽くなったのであれば、それは「偽物」ではありません。
動機が混ざっていても、結果が光になっているなら、
その光を否定するべきではないと、僕は思います。

ただし。
その善意が、自分自身を消耗させてはいないか。
その優しさが、自分の本当の叫びを押しつぶしてはいないか。
それは、やはり立ち止まって考えなければいけないところです。


ここまでで
「人を助けたい」という気持ちがどれほど複雑な背景を持ちうるか、
そして、それがたとえ“混ざりものの動機”であっても否定されるべきものではないことをお話ししました。

ここからは、その続きを少しだけ掘り下げて、
「まず自分を助けること」の大切さについてお話ししていきます。

■「自分を助ける」ことは、時に最も難しい

「まず自分を救え」と言われると、多くの方がこう感じるのではないでしょうか。

「自分を助けるなんて、どうやって?」
「そもそも、自分をどう扱えばいいのかわからない」
「助けるべき“他人”は見えるけれど、“自分”はどこにいるのか、わからない」

……僕も、そうでした。

誰かの痛みにはすぐ気づけるのに、自分の傷には何年も気づけなかった。
「あなたはつらいね」と他者には言えるのに、自分に向けては、それを言う勇気がなかった。

ですが自分を助けることを後回しにして、他人ばかりを守ろうとしてしまうと、いつか確実に、心の土台が崩れてしまいます。

誰かの苦しみに寄り添うには、自分の呼吸が整っていることが必要です。
自分の傷に気づき、自分自身を理解し、「今の自分にできること」と「できないこと」の境界線を見極めること。

これが、"誰かの力になる"以前に必要な準備なのです。

■「助けられないこと」もまた、勇気ある選択

人を助けたいと思ったときに、「でも、今の自分には難しい」と気づくことは、とても勇気の要ることです。

何もしないことは、冷たさや無関心と見なされるかもしれません。
でも、本当にそうでしょうか。

人を助けるという行為は、とても力の要ることです。
だからこそ、"手を差し伸べない"という選択もまた、誠実な判断であることがあります。

他人の痛みを放っておくのではなく、「今の自分ではうまく抱えきれない」と自覚し、その事実を誠実に受け入れること。

そして、その代わりに「自分にできる範囲」を整えること。
たとえば、

  • 話を聞くだけに留める

  • 専門の人につなげる

  • 「ここにいるよ」とそっと示す

これらもまた、立派な支援の形です。

■「やさしさ」は、自分の中からにじみ出る

たとえ自分が混乱のさなかにいたとしても、その心のどこかに、"誰かを想う感情"が宿っていること。
それは、決して消さなくてはいけないものではありません。

でも、それを義務にしてしまうと苦しくなります。
「助けなきゃ」「優しくしなきゃ」と思い詰めてしまえば、自分自身に対しても、他人に対しても厳しくなってしまう。

やさしさは、本来「〜しなきゃ」ではなく、「〜したくなったから」こそ、健やかに届くものです。

だからこそ、「今、自分はどれだけ余白があるだろうか?」
「助けたいという気持ちは、本当に“今”の自分の声だろうか?」
そう問い直すことが、とても大切になってくるのです。

■名前のない、無償の動き

世の中には、「他人を助けるには余裕がなければいけない」と言われることがあります。
それは、たしかにそうです。
余裕のない人が、無理に他人を支えようとすれば、共倒れになってしまうこともある。

でも、人間というのは、ときに理屈では動けない生き物です。

自分がつらくて涙を流しているときに、目の前の誰かも静かに泣いていたら、自然と手が伸びてしまう。
理屈では「余裕がないからやめておけ」と思うのに、心がそうは言ってくれない。

この"動き"には、名前がないのかもしれません。
でもそれは、とても人間らしい、美しい行動です。

たとえ自分の中にコンプレックスがあったとしても、利己と利他が混ざっていたとしても、その手が「誰かの存在を肯定すること」につながっているなら、そこに罪はありません。

■誰もが誰かの「通りすがり」になれる世界で

誰かを助けるということは、相手の人生に入り込むことではありません。
時には、ほんの一瞬のすれ違いの中で起こるものです。

・コンビニのレジで、ふと見せた笑顔
・「大丈夫?」の一言
・道ばたで落ち込んでいた人に手を貸したこと

これらすべてが、もしかしたら"救い"になり得る。
人は、「本当に支えられた」と感じた出来事を、他人から見たらほんの些細なことだったと語ることがあります。

だから、完璧でなくてもいいのです。
専門家でなくても、立派でなくても、余裕がなくても
その人なりの精一杯が、誰かの明日を変えることがある。

■「助ける」という言葉に責任を背負わせすぎないで

最後に、僕がとても大切にしていることがあります。
それは、「助ける」という言葉に、過剰な責任を背負わせすぎないでほしいということです。

助けるとは、命を救うことだけではありません。
相手の人生を変えることだけでもない。
「あなたの存在がここにあったこと」を肯定する行為。
「見ているよ」と示すこと。
「一人じゃないよ」と届けること。

それだって、立派な“助け”です。

そして何より、自分自身が倒れてしまうほどの負担を背負わないこと
それもまた、未来の誰かを助けるために、必要な選択です。

■あなたの手は、もう誰かを救っている

この文章を読んでくださったあなたは、
もしかしたら、何かに迷っているのかもしれません。
自分のやっていることが、偽善ではないかと悩んでいるかもしれない。
それでも、「誰かの役に立ちたい」と思ってしまう
そんな優しさを、どこかに持っている方なのだと思います。

もし、あなたの中にあるその“やさしさ”にラベルを貼らなければならないのだとしたら、
僕はこう書きましょう。

それは、「あなたがまだ壊れていない証」だと。

どうか、自分を大切にしながら、その心のままに、時には歩みを止めながらも、これからも誰かと出会っていってください。

それだけで、十分です。


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