衣食住より、となりで笑う人が大事
「衣食住」にあまり関心がないと聞くと、「ずいぶん味気ない人だな」と思われそうだけれど、正直なところ、僕は昔から物欲や食へのこだわりが薄い。
子供の頃から何かに夢中になることは滅多になく、中高大で続けた少林寺拳法だけが珍しく打ち込めた例外だった。
社会人になって周りの評価という支えが消え、服や食事、住環境への熱も、ますます下がっていった気がする。
ひとり社長として暮らす今は、誰からも褒められないし、そもそも人目を気にする必要もない。
そのかわり、年商やフォロワー数みたいなビジネス的な数字を意識するようになり、衣食住はますます二の次になった。
服装はほぼユニクロの白Tシャツやグレーのパーカー。
視覚過敏になってからはお店に入るのも辛くなったので、妻が代わりに買ってきてくれる。
もはや自分で選ぶという行為すらしない。
オシャレに興味がないからそれで困らないし、同じ服を何枚も持って、汚れたら捨てて買い足すだけのサイクルは楽だ。
ただ、妻が選んでくれた服は特別に大事にしている。
それは単なる布ではなく、「僕のために妻が選んでくれたもの」だからだ。
食に対しても、似たような距離感がある。
昔は甘いものが好きだったが、血糖値スパイクや自律神経への影響を考えると、あえて楽しむ気にもなれない。
美味しければもちろん嬉しいけれど、よほど不味くない限り、栄養が摂れればいいという程度の関心しかない。
でも、妻が作ってくれた料理は、それだけで有難いと思える。
たまに妻が疲れて「今日はこれで勘弁して」と出来合いの総菜を並べる日もあるけれど、二人で食べるという行為そのものが、僕には価値になっている。
結局、一緒にテーブルを囲んでいるだけで十分なのだ。
妻はブランド品が好きで、誕生日や記念日にはプレゼントを用意する。
僕自身はブランド名より、その裏側にあるビジネスやマーケティング戦略のほうが面白く感じるタイプだ。
「なるほど、こうやって価値を演出してるのか」と感心しながら買うわけだけれど、妻が泣きそうなくらい喜んでくれると、稼ぐ面倒さも「まあ、いいか」と思える。
自分が身につける気はないけれど、そうやって誰かを喜ばせる時間は、無関心な僕にとっても不思議な色合いを帯びる瞬間だ。
昔ほど体力や気力があれば、もっと色々楽しめたのかもしれないけれど、今はそこまで欲張る気はない。
衣食住にこだわりはないけれど、妻が選んでくれた服や、一緒に食べる夕食は「いいものだな」と感じる。
かつては少林寺拳法や周囲の評価がエネルギーだったけれど、今は身近な人が笑ってくれることで、ほんの少しだけ暮らしが明るくなる。
欲がないといえばないけれど、人との関係が、無関心な日々にちょっとした暖かさを持ち込んでくれる。
このゆるやかな余白が、今の僕にはちょうどいい。
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