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帝がゾッコン|第二章 鳳は空を舞えど、地を顧みず〈四〉

前回のあらすじ

追手から逃れる洪敬脩ほんじんしゅう千朗熙せんろうしぃを目撃した黒衣の少女は、彼らを助けるために駆け出した。
何者かの気配に気づいた二人の前に現れたのは、馬の背に犬とともに跨った謎の少女。
滑稽な登場に困惑しつつ、「追手の仲間か?」と疑念を抱く二人に対して、少女は、どうやら本気で彼らを助けようとしているようだった。
不信感を抱きながらも、敬脩じんしゅう朗熙ろうしぃは少女の案内で山を進んでゆき、やがて川沿いの岩陰に身を潜めた。
追手が目前に迫ったその時、敬脩じんしゅうが少女の背後に回り込み、喉元に鞘を突きつけた!


〈四〉
主人の異変に気づいた墨凡もーふぁんが、「ガルルルワンッ!」と牙を剥き、今にも飛びかからんばかりに吠えた。
どうやら、墨凡もーふぁんはただの躾けられた犬ではないようだ。信念を持ち、己の判断で動く。まさしく忠犬そのもの。
その忠義は見上げたものだが、この場で鳴かれては全てが水の泡と化してしまう。
朗熙ろうしぃはすかさず剣を抜き、犬の鼻先に切っ先を突きつけた。

「静かにしてろ、ワン公。騒がなけりゃ斬らずに済むし、ご褒美に干し肉もやる。悪くねぇ取引だろ?」

墨凡もーふぁんは低い唸り声を漏らし続けていたが、眼光鋭い朗熙ろうしぃに押し負けたのか、不満げに後退りすると渋々その場に伏せてしまった。

ほどなくして、ざっ、ざっ、と地面を抉るような馬蹄の音が耳に迫り、いよいよ追手が橋へ近づいてくる。
五騎か?いや六か?朗熙ろうしぃは岩陰に身を潜めたまま橋の方へと目を凝らしていた。
やがて橋に差しかかった一団は、いずれも黒い外套がいとうに身を包み、顔も服装も分からぬまま少女の言葉通りまっすぐ橋を渡って駆け去っていく。
しかしその一瞬、ひとりの斗篷が風に煽られ、めくれ上がると、その隙間からちらりと覗いたのは、腰に吊るされた黒漆の札。
銀の縁取りが施されたそれがただの飾りでないことなど、朗熙ろうしぃには一目でわかった。

(あいつらがここに来るとか、冗談にもほどがあるだろ!)

見覚えのあるそれに思わず息をのむ。
それもそのはず、あの佩符はいふは紛れもなく嘉衡かこう兵部のものであるからだ!
そして世に似た札が五万とあれど、実兄がその職にある朗熙ろうしぃが、それを見紛うなんて絶対にありえない。
それにしても、その兵部がわざわざ隣国の地にまで姿を現したとなれば、もはや民のいざこざなどという次元の話ではなくなってくる。
よもや王命あるいは、それに匹敵する何かが動いていると考えるのが自然というものだろう。
さらに言えば、案の如く奴らの狙いが敬脩じんしゅうだとしたら、それはもう笑えた話ではない。

「なあ敬脩じんしゅう、残念なお知らせだ。こいつは穏やかじゃねぇぞ!」

皮肉めいた声音でそう言いながら、隣の敬脩じんしゅうに視線を向けると、喉元に鞘をかけられ口元をしっかりと塞がれたままの少女が血の気を失ったような顔で、全身を小刻みに震わせていた。
よく見ると目は虚ろに開かれ、呼吸も定まらず、酷く苦しんでいるようだった。

「って、穏やかじゃねぇのはこっちもかよ!その子大丈夫か?さすがにその怯えよう、なんか変だぜ?」

しかし、背後から少女を押さえつけている敬脩じんしゅうにその様子は見えておらず、「なにが?」と言って腕を緩めた途端、解放された少女はふらっと傾き、崩れ落ちるように川の縁へ勢いよく倒れ込んだ。
すると、腹を押さえながらその場で転げ回り、えずきだしたのだ!

「オエッッ!ゲホッ、ゲホォッ……!」

まるで内臓ごと引きずり出されるかのように細い体を折り曲げ、呻くような呼吸とともに暫くの間のたうち回ると、やがて限界を迎えたのか胃液に混じった吐瀉物が喉奥から勢いよく逆流し飛び出した。
泥まじりの川縁にそれが飛び散り、水面にまで跳ねて小さな波紋を広げていた。
それでも嘔気はきけが治らないのか、少女は肩を丸め込んだまま喉の奥を絞るように荒い呼吸を繰り返す。

「オエッ……ゲホッ……」 

ただの嘔吐にしてはあまりに異常なその様子に、朗熙ろうしぃは思わず顔をしかめ、少女が現れてからの短い時間を思い返してみた。

(『我に続けーっ!』とか叫んで、さっきまで元気だったろ?
口に何か入れてた様子もなかったし、どっかで転んだわけでもない。
虫か?草か?いやいや、虫や草でこんなになるかよ!
まさか、何かに取り憑かれた? って、それはねぇか……)

「おまえ毒でも盛ったのか!?」

そう敬脩じんしゅうに問いかけると、「いや?」と首を横に振るのだった。

「じゃあ、なんだっていうんだ? 死にそうだぞ、こいつ!」

その問いかけにひとつ息をつくだけで、騒ぐでもなく慌てるでもなく敬脩じんしゅうが淡々と答える。

「恐らくは人にれられたことに対する極端な拒絶反応ってところだろうな。 違うか?生娘」

「は?はぁ?」

朗熙ろうしぃが呆れ声を漏らしながら続ける。

「いや、待て!俺、なんもしてねぇからな!?
はっ!えっ? てことは、さっきお前が押さえつけたせいってことじゃねぇの!?」

「だったら、なに?」

「だったら、じゃなくてよ。
なんでそんなに冷静でいられんだって! 人間ってものをもうちょいこう……こうだな。 思いやりとかあるだろ!」

けれど敬脩じんしゅうは、あたふたする朗熙ろうしぃをよそに、淡々と答える。

「そもそも関わってきたのは、こいつの方だ。
状況を選ばず首を突っ込んだ結果がどうなろうと、俺の知ったことじゃない。
この程度で壊れるなら、最初から出てくるべきではなかったな、生娘」

少女は敬脩じんしゅうの言葉に一切反応せず、肩を震わせたまま顔を伏せ続けている。
朗熙ろうしぃはというと、切り捨てるような物言いに「はぁ」と大きくため息をついたが、ひとまず倒れ込んでいる少女の背を摩ってやろうと手を伸ばした。
が――

「触んなッ!!!」

地を這うような叫び声を上げ少女は、勢い任せに朗熙ろうしぃの手をはじき飛ばしたのだ!
敬脩じんしゅうの言葉に怒ったのか、触れられること自体への拒絶なのか、理由はわからない。
突如として振り払われた朗熙ろいしぃは思わず一歩退き、たじろぐしかなった。

「触るなって、俺が何したってんだよ!慰めようとしただけだっつーの」

その様子を腕を組んで見ていた敬脩じんしゅうが、どこか愉快そうに、「ほらな」と言って笑う。
しゃがみ込んでいる少女の顔つきは、さっきとはまるで別人のように変わり、瞳孔は針のように狭まり、歯をガタガタと打ち鳴らしながら、獣のように二人を睨みつけていた。

「うちの敬脩じんしゅうが悪かったよ、もう触ったりしないからさ、そう怒んなって、ほら立てるか?」

「弱ってる女を見るとすぐ情でも湧くのか朗熙ろうしぃ? 情けは時間の無駄だ」

「あっのっさ! で、どうせ次は『俺は無駄が嫌いなんで』って続くんだろ? はいはい、毎度おなじみ。
んで、いつも女の面倒見るのは結局この俺なわけよ」

朗熙ろうしぃはやれやれといった調子で後ろを見ると、敬脩じんしゅうはさっさと手綱を引き、馬を戻している最中だった。

「おい、ちょっと待て。本気で置いてく気か!?」

朗熙ろうしぃが慌てて声を上げたが、敬脩じんしゅうは聞こえていながらも応える気はさらさらないといった様子で、橋の向こうを見つめながら呟いた。

「もう行ったな。そいつにもう用はない、先を急ぐぞ」

その声音は清々しいほどに冷めきっていて、仮にも目の前に人が倒れているとは到底思えなかった。
なぜそこまであっさりと突き放せるのか?朗熙ろうしぃは肩をすくめ、口を開いた。

「ま、ま、待てって敬脩じんしゅう
泣かせた女を振り返らずに去るのは、お前の得意技なのはもう百も承知だよ!?
『一晩過ごしただけで本気になっちゃいました〜』って女があとから泣いて縋って、俺が宥めてよお!
そういや『敬脩さまのために死にます』って楼から飛びかけた女もいた! でもさ、今回は違ぇだろ!」

息を荒立て一気にまくし立てると少女を指差してさらに続ける。

「ほら、この子はお前に惚れたわけでもねぇし、あくまで俺らを助けてくれたんだ!
そのおかげで追手からも逃げ切れただろ? そんな子を山ん中に置き去りって......」

「で?」

黒馬の隣に立っている敬脩じんしゅうは手綱を握ったまま、片眉をわずかに動かすだけだった。

「で?って、だからさあ……」

「命の借りを返したいなら勝手にやれ。俺は先に行く」

無表情にそう言い放つと、そのまま馬を引いて歩き出してしまった。
どうにもこの男は筋が通っているだけに、なおさら厄介だ。そして情も未練も、興味すら一切感じられない。
だからこそ朗熙ろうしぃは毎度のごとくこうして打つ手なしになるのだ。

再び少女に目を向けると、地面に膝をつき、わずかに上体を起こしていた。
具合は先ほどより幾分かマシに見えるが、それでも一点に視線を固めたままで、何を思っているのかはさっぱり読めない。
朗熙ろうしぃは指先で眉間を揉みながら「あーあ……」と言い、少女のそばにしゃがみ込む。

「助けてもらっといて、この仕打ちは心苦しいんだけどよ。正直、俺にもどうにもできねぇ、悪ぃな。
そうだ、ほら、俺の貴重な夜食だ! 腹が減ったら食えよ」

朗熙ろうしぃは腰の袋から干し肉の包みを取り出し、そっと少女の足元に投げ置いた。

「じゃあな、嬢ちゃん。気をつけて帰れよ」

そう言い残してから渋々と手綱を手を取り、足取り重く敬脩じんしゅうのあとを追った。
馬を引きながら時折振り返ってみたが、少女は膝をついたままじっとしており、遠ざかっていく二人を見送ることもしなかった。
すると、前を歩いていた敬脩じんしゅうが唐突に立ち止まり、わずかに首を巡らせて少女の方を向くなり、いきなり大声で言い放つ。

「おい、生娘。翠嶺客館すいれいかくかんはどっちだ」

「うわっ、急にでかい声なにッ!?」

驚いた朗熙ろうしぃが声を上げた。
そのまま目をきょろきょろさせて敬脩じんしゅうと少女を交互に見やる。
返事がないまましばらくの沈黙と、妙な空気が流れる。やがて、少女がゆっくりと片腕を上げ、一本指で森の奥を無言で差し示すのが見えた。
きょとんと目を丸くしたままの朗熙ろうしぃが、困ったようにぼやく。

「……は?なんで聞いた? いや、え? 今の指一本で何がわかった? 東西南北どこだよ……なんだお前ら」

敬脩じんしゅうは「ふん」と鼻を鳴らし、何事もなかったかのようにすたすたと歩き出した。
その背中に向かい、朗熙ろうしぃが、「あーっ!!」と突如声を上げ、掌に右の拳をポンッと打ちつける。

「はっはーん。わかったぞ! 俺らはこっち行くから、来たきゃ来いってやつだな。
出た出たー、ほらほら敬脩じんしゅうさん、そういうのが一番タチ悪ぃのよー!
突き放したフリして、実はちょっと気にしてますってやつだろお」

「……」

「ったくよぉ、そういうことするから、いっつも女に好かれんのはお前なんだよなあ。
火つけて歩いて、後始末するのは毎回俺なんだぞ? 勘弁してくれよほんと。
おーい嬢ちゃん!今のたぶん敬脩じんしゅうなりの…」

「いくぞ」

「はいはい、気にしてねぇ風で実はちょっと優しい男ってやつな。お前のそのやり方、俺が一番知ってんだぜ親友」

そんなことを言いながら、朗熙ろうしぃは得意げに手をひらひらと振っていた。
まるで勝手に喋る口と一緒に、手まで調子づいて動いているようで、歩きながらもしきりに敬脩じんしゅうの背中に向かってからかい続ける。

「俺は関係ない! とか言いながら、ちゃんと名前だけは覚えてるのよ。 あぁそういやあの子の名前聞かなかったな。 おい敬脩じんしゅう、いまならまだ間に合うぞっ」

朗熙ろうしぃ

「はいごめんなさい、もう言いませんっ」

手を中途半端に宙に浮かせたまま、止め絵のように固まり、ピタリと口を閉じると、それきり朗熙ろうしぃは黙りこくった。
そんな軽妙な掛け合いを交わすうち、いつの間にか川辺の道を外れ、森の中の小径こみちへと入り込んでいた。
気づけば少女の姿はもうどこにも見えなくなり、頭上の雨も、いつの間にかすっかり止んでいた。
濡れた葉の隙間から西陽がのぞき、やがて空は茜に溶けてゆく。
夕空のもと、川辺にひとり取り残された少女は、なおもしばらく泣き続け、ときおり足元の石を拾っては、むしゃくしゃしたように川へ投げつけていた。
だがその涙は、見捨てられた悔しさでも、誰かに触れられた羞恥でもない。
もっとずっと昔に深く刻まれた傷の疼きとでも言うべきか。ほんの少しでも瞼を閉じようものなら、迷惑なことに、あの惨たらしい母の姿が脳裏に現れるのだ。

少女は膝をついたまま俯き、いまだ喉の奥でえずきながら、震える手で衣の裾をぎゅっと握りしめると、指先にこもった力が強すぎて爪が布を深く抉った。
だんだんと呼吸が荒くなり、目の前の現実が、過去の記憶と重なったその一瞬、抑え込んでいた何かが裂けるようにあふれ出した!顔を伏せたまま、声を限りに泣き叫ぶ。

「……っ、う……ぅあ……っ、うあああ……っ!!」

頭の中で、なにかが崩れたのか?
いや、もとより壊れていた場所に、再び誰かが足を踏み入れただけのことだろう。

「う、うぅ……っ」

喉が焼けつくように熱い。なのに、身体の芯は氷のように冷えきっていた。
過去から抜け出せない自分自身に、心の底から腹が立つ。


そのうち、意識の奥から、止めどなく古い記憶が流れ込んできた。

(やめろ……あっちへ行け……! お前はもう、死んだだろ!!)

過去が蘇り、視界が揺らぎ、現実と幻覚の境界が曖昧になっていくかのように、思い出したくもないそれらが容赦なく心の戸をこじ開けて入ってくる。

それは、まるで──あの時の再現だった。

この時、少女の心の奥底にありありと浮かんだのは、母、樊紅晶ふぁんほんじんの顔であった。
そして、狂気に満ちたあの瞳と、自分自身が重なっていくような感覚に襲われる。
喉を締めつける手の感触、燻る炭の熱、簪が肌を裂いた鋭い痛み……
忘れたはずの惨痛さんつうが次々に襲いかかり、今にも身体が乗っ取られそうになる。
そんなとき、敬脩じんしゅうに触れられたことが、その引き金になったなんて、絶対に認めたくないと強く思った。

(ちがう、彼のせいじゃない! 誰のせいにもしたくないんだ!)

そうやって必死に理性を繋ぎとめようとするほど、肺の奥に空気が届かず、しまいには視界がぐにゃりと歪み、バクバクと心臓の音だけが頭に響きわたる。

(そうか、気が狂うって、こういうことだったのか。
あのとき母が見ていた景色も、きっと……こんなだったのか。 だったら私も──ああ、そうだ、同じ場所に堕ちてるじゃないか......いやだ、誰か、助けてッ!)

「ワンッ!ワンッ!!」

その鳴き声を合図にハッとして顔を上げると、胸を締めつけていた何かが、ひと息にほどけていくのがわかった。
さぁーっと潮が引くように、身体を蝕んでいた狂気が遠ざかっていく。
その隙を逃さず、少女は思いきり空気を吸い込んだ!

すると、歪んでいた視界が徐々に元通りになり、目に映ったのは──
傍らに置かれた干し肉の包みをツンツンと鼻先でつつきながら、「それ、ちょうだい」とでも言いたげに、もう一度、「ワンッ」と吠えた墨凡もーふぁんの姿だった。
少女は震える腕をなんとか伸ばし、包みから取り出した干し肉をそっと墨凡もーふぁんへ差し出してやった。

「ほら、食べていいよ。あたしは……いらないから」

尻尾を振りながら夢中になって頬張る墨凡もーふぁんの頭に手を置き、涙まじりの笑みで声をかける。

「呼んでくれてありがとね...あはは......助かった、助かった、もう大丈夫だよ」

そう言ってから膝をついた足に力を込め、ぐらつく身体をなんとか支えながら立ち上がると、「カチャリ」と何かを踏んづけたような音がした。

「ん?......なにこれ?」

視線を落とすと、濡れた川石の隙間に小さな金属の飾りが引っかかており、雨上がりの日差しを受けて、かすかに煌めいている。
しゃがみ込んで拾いげてみると、それは精緻な細工が施された、金製の胸飾りだった。

「重っ......ん、羽? 月? なんだ? へんなの」

見覚えがあるような、ないような。
そういえば、敬脩じんしゅうがつけていたような気もする。
落としたのはどうやらあの男らしいが、とはいえ、これがどれほど大切な物かなど、少女が知ったことではない。
そう思いつつも、ひとまず拾っておいてやるかと、金飾をそっと袖へと滑らせた。

そしてふと我に返り、自分の体を確かめるように、ぐるりと腕を回してみたり、足元を覗き込んでみたりすると、泥まみれの足には、いつの間にか細かな引っ掻き傷がいくつもできているではないか。
なにより不快だったのは、さっき吐いたせいで口の中が妙にねばつき、嫌な味が広がっていることだった。
たまらず川べりへしゃがみ込み、水をひと口ふくんでは吐き出し、ついでに顔も洗って、濡れた手で髪をかきあげると、ようやく落ち着いた呼吸が戻ってくるのであった。

♦︎

あっちへこっちへと山道を彷徨った敬脩じんしゅう朗熙ろうしぃだったが、陽がほとんど沈みきった頃、どうにか目的地の翠嶺客館すいれいかくかんの門前へと辿り着いた。

門をくぐった先の広場で出迎えたのは、二十歳そこそこの敬脩じんしゅうを「ほんの若様」と呼ぶ館主と、玄関の方にずらりと並んだ家僕や女中たちだった。
辺りには花灯かとうが焚かれ、他の客人が見れば、王侯の行幸と誤解されるほどの歓待ぶりである。

その後、二人が通されたのは、翠嶺客館すいれいかくかんで最も格式の高い部屋らしい翠鳳樓すいほうろうだった。

二階建ての別棟であるその楼は、翡翠しょうびんの飾り欄干がめぐらされ、天蓋付きの寝台には鳳凰の刺繍があしらわれている。
普段は「貴客きかく」や「重賓ちょうひん」といった要人専用の離れとあって、隅々まで贅を尽くした雅やかなしつらえが施されていた。
広々とした客間に書架、涼台、奥にはなんと湯殿まで完備されており、いっそのこと住んでしまいたくなる空間である。

浮かれ調子の朗熙ろうしぃが、涼台の欄干にもたれて馬鹿みたいに叫んでいた。

「俺もう一生ここで暮らしてぇー! なあ、女はどこだー、女ーっ! それに酒ー! つまみも頼むぞ! せっかくの贅沢部屋なんだから、酒池肉林しゅちにくりんじゃねぇと勿体ねえだろ!!」

案内していた館主が、にやりと意味ありげに笑う。

「お好みの気立てはございますか? ご希望でしたら、いくらでも手配できますが?」

敬脩じんしゅうは部屋をぐるりと見渡しながら、ぼそりと返した。

「いらない。こいつが騒いで女呼んでも、どうせ最後は全部こっちに寄ってくるし、面倒だからな。酒だけは、あとで持ってきてもらえると助かる」

「おいコラ! 聞こえてんだぞ! 馬鹿みてぇにだだっ広くて豪華絢爛な部屋なのに、野郎二人でしっぽり呑めってか!? どこぞの坊主部屋だよ!」

朗熙ろうしぃがすかさず食ってかかったが、敬脩じんしゅうはそっちを一瞥もせず、館主に向かってひと言。

「あれは無視でいい、続けてくれ」

そして、わざとらしく付け加える。

「あ、ちなみに、あれ。 あの猿を繋いどく檻か、逃げ出さない小部屋はあるか?」

館主はおかしそうに口元をほころばせ、
「ご安心ください、猿殿のお部屋もご用意してございます」と答えた。

そのまま一通りの案内をすませると、深々と一礼してから、「では後ほど、夕餉をお持ちいたします。ご用の際はいつでもお声かけくださいませ」と、丁寧に言い残し下がっていった。

客館内には他にも、「翠麟閣すいりんかく」「翠虎亭すいこてい」など、神獣の名を冠した特別室がいくつか存在すると言うが、なかでもこの翠鳳樓すいほうろうは、とりわけ格上の客人にしか用いられぬ、まさに館の“顔”ともいえる部屋らしい。

とはいえ、たった二人で滞在するには、いささか広すぎる気もするのだが......

そもそも、敬脩じんしゅうたちがこの翠天山すいてんざんを訪れたのは、北方最大の勢力を率いる河東節度使かとうせつどし石敬瑭せきけいとうと会うために他ならない。
そんな中原ちゅうげん屈指の大物からどういうわけか一方的に“友達”呼ばわりされ、やけに気に入られているのが、まだ二十歳そこそこの若造、洪敬脩ほんじんしゅうなのだ。

もとい、話を持ちかけてきたのは石敬瑭せきけいとうのほうからで、「汐城しーちょんの知己と話がしたい!」と、場所に指定したのがここ、翠嶺客館すいれいかくかんだった。

つまり、宿泊の手配も、部屋の指定も、すべて石敬瑭せきけいとうによるもの。
翠天山すいてんざんは彼の勢力圏といっても過言ではない土地であり、館主が「ほんの若様」と敬脩じんしゅうを呼び、屋敷の者を総出で迎えた様子からしても、石敬瑭せきけいとうがここの常連であることはまず間違いない。
……のだが、さすがにこれはやりすぎなわけで。

おそらく、いや、どう見ても、「大好きな友達!」をとことんもてなしたくて仕方がなかった、石敬瑭せきけいとうの“ありがた迷惑”な友情のせいだろうと、敬脩じんしゅうは心のなかでため息をついた。

──ところで、肝心の本人はというと、まだ到着すらしていないし、館主いわく「いつ来るかは分かりません」とのこと。
このズボラ采配っぷりこそが、石敬瑭せきけいとうという男なのである。
なにせ一見すれば、彼の肩書きは天下の大軍閥。
暇などあるはずもなく、友人との密会がずれ込むのも無理はない、そう思うのが普通だろう。
だが敬脩じんしゅうからすれば、肩書きも何も、あの男は最初からこういう性分でしかないと、その本性をよく知っている。
そしてどうせまた、「ごめん! ほんっとごめん! ちょっと出征してた!」と、締まりのない顔で能天気に現れる......そんなことは明明白白めいめいはくはくだった。
ともあれ敬脩じんしゅうたちは、ここ翠天山すいてんざんの山奥で、しばしの滞在を余儀なくされることとなった。

──第二章・〈四〉 了──

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