帝がゾッコン|第二章 鳳は空を舞えど、地を顧みず〈三〉
前回のあらすじ
嘉衡の都では、光印と美希が、ややズレた昔語りに花を咲かせていた。
――その頃。
遥か離れた隣国に聳える翠天山では、雨に煙る山中で洪敬脩と千朗熙が正体不明の追手に追われていた。
そしてその顛末を、偶然目撃していた黒衣の少女、その隣には黒い犬、墨凡と、栗毛の愛馬、索尔。
彼女はしばしその騒ぎを眺め、何を思ったのか彼らの後を追いはじめた......
参話
誰に見せるでもない、将軍ごっこの大号令。
けれど、人っ子ひとりいない山の中では、それくらいがちょうどいいのかもしれない。
それに、おふざけで駆け出したように見えて、少女の目には山道の先が手に取るように描かれているのだ。
この一帯の地形に関していえば、地元で何十年も山に入ってきた猟師でも知らぬような、水の湧く岩陰の位置や、踏み外せば渓流に転げ落ちるような危険な崖路、
もっと言えば、山菜摘みや薬草取りが目の色を変えて群がるであろう秘密の群生地まで彼女は熟知している。
そもそも翠天山へ来て以来、その奇行ぶりと、女子とは到底思えぬ風体のせいで、友人と呼べる者などひとりとしておらず。
同世代の娘たちからは変人と噂され、挙げ句の果てには、一部の者たちのあいだで「異常者」とさえ囁かれていた。
話し相手といえば、せいぜい馬と犬、そして風ぐらいのもの。
気がつけば、ひとり山を歩くのが日課となり、今や翠天山の隅々まで地図のように頭に刻まれてしまったというわけだ。
もちろん、そんな知識をひけらかす相手もいないし、これまで役に立った試しもない。
だが今宵、ついにその時が来たのである!
「前方、友軍確認ッ!!突撃態勢、整えッ!!」
墨凡が「ワウッ」と吠え、索尔が爆風のように前脚を蹴り上げると、黒衣の少女は勢いよく鞍に身を伏せる。
山の起伏を知り尽くしたその足取りは、まるで水を得た魚、いや......山を得た変人。
その動きは疾風迅雷のごとく目にも止まらぬ速さで迫っていった。
(あ……えっと……登場のとき、なんて言おう!?ここはやっぱり、カッコよくっ!!!
「我に続けーっ!」……よし、完璧だ!かっこいい!!
でもちゃんと聞こえるように叫ばなきゃ…
あ、ちょっと待って!?もう追いついちゃう!?心の準備が!!!)
今、考えるべきことはどう考えてもそれではない。
が、当の本人の脳内では違った。
助けに入る者として、いや、将軍として!どう名乗るか、どう叫ぶか、そこに全知全能を注ぐのだ!
決して褒美が欲しいわけでも、礼のひとつを期待しているわけでもない。
むしろ、助けた相手がぽかんと口を開けて驚いてくれれば、それはそれで面白い。たかが、その程度の好奇心と、ついでの暇つぶし。
そうして、いよいよ木々の切れ間から、青年らの背がうっすらと姿を現しはじめる。
風も、雨も、今宵ばかりは、この変てこな将軍殿の味方をしてくれているようだった。
♦︎
追手とは十分に距離を離せたと思っていた矢先、異変を最初に察したのは、敬脩のほうだった。
「……誰かいる。警戒しろ」
雨音の奥に、微かな気配がある。
木々の向こう、雨に霞む視界の先に、自分たちと並ぶように走る馬の影がぼんやりと浮かんでいた。
朗熙が眉をひそめ、隣の敬脩をちらと見る。
「追手か?かなり離したはずだろ?」
「……さあどうだろうな」
風鳴りと雨音にかき消されて、馬の足音も聞き分けにくい。
だがそれでも何者かが近づいてきているのは間違いない。
馬の背の上、言葉もなく、ふたりはそろって鞘に手をかけた。
その動きに乱れはなく、息づかいすらぴたりと重なっていた。
何が来ようと、まずは走る。けれど、万が一なら戦うしかない。
近づいてくる蹄の音が、次第に輪郭を帯び始める。
張り詰めた空気の中、朗熙は剣を握りしめ、小さく馬の腹を蹴って、するりと敬脩の前へと出た。
つい先ほどまで戯けていた男が、いまや意気軒昂たる気配をまとい、さながら「どこからでも来い」と威圧するような面構えになったのには、理由がある。
「鞘を払う時が来たなら、洪の息子より先に、お前が敵を斬れ」
それは、いざという時のために父から言い渡された訓戒で、千家に課せられた“お務め”といったところだ。
千家という家は、代々嘉衡に仕えてきた由緒ある武門の家柄で、そのくらいのことは、千朗熙もさすがに承知している。
では、その「お務め」とやらはいったい何なのか。
いわく、かつて禁軍の総帥を務め、嘉衡随一の名将と謳われた将がいた。
その人物こそ、洪敬脩の祖父、賀律従崇。
そして、千朗熙の父もまた、賀律従崇に仕えた忠臣のひとりだったという。
——とはいえ、二十年以上も前の込み入った昔話なんて、聞いているほうは眠くなるだけで、あれやこれやと重苦しい話を仰々しく聞かされた末、結局のところ父は息子に何を言いたかったのかといえば......。
「お前と仲良しの幼馴染は王族の傍系だから、千の名に恥じぬようしっかり守っておけ」
……まあ、要するにそういう話だった。
そうはいっても、二人は都から遠く離れた港町「汐城」で生まれ育った平民も同然の身。
どんな因縁めいた過去や大人の事情があろうと、幼少の頃から、今もこうして隣にいる風来坊が、「やんごとなき血」を引いているだなんて、朗熙は半信半疑どころか、八割方は信じちゃいない。
……それでもまあ、「千家のけじめ」だの、「尊き血筋ゆえ」だのと、聞き飽きるほど繰り返されたおかげで、
「敬脩と俺は、王様とその腹心ごっこをやっときゃいいんだろ!」
……とまあ、気づけばそれなりに意識してる朗熙なのだ。
(いやいや、まさか謎の追手さん達は、それ絡みってことか!?
さすがに、ないよな!冗談じゃない!
オヤジも言ってた、王家の血筋には違いないが、世間的には無名の男。身分も伏せてるし、探される筋も、狙われる理由もない。
万が一攫われたって、誰も身代金を払わないとまで言い切ってたじゃないか!
だいたい俺はこいつの護衛をやってるつもりなんてないしな!
一緒に馬乗って、旅して、たまにメシ作って……まあ、付き添いというか、趣味みたいなもんで─)
などと思考が堂々巡りしていたそのときである。
雨煙を裂き、突風のごとく大声を上げて何かが駆け込んできた!
「すっ……す、助太刀ぃい!!いたすッ!!」
バシャアアッ!!と水飛沫を盛大に蹴り上げ、藪をものともせず何かが飛び出してきた。
その馬上にいたのは、全身がずぶ濡れの少女。
身にまとった黒衣は、雨と泥にまみれ、もはや雑巾に見間違われても仕方のない有様。
おかげでどこか野暮ったく、着崩れた姿のせいかやけに幼くも見える。
その見窄らしい女の姿にも十分驚かされたが、それよりも衝撃だったのは、小脇からぬっと顔を出した黒い犬だ。
はぁはぁと舌を出し、敬脩と朗熙をじっと見つめている。
非常時だというのに、目の前の光景はどこかズレていて、まるで筋書きを間違えた茶番のよう。
滑稽と言えばそれまでだが正直、呆れる他なかった。
その一瞬、雨音も風鳴りもぴたりと止んだのかと思うほど静まり返る。
常に冷静無比で滅多に取り乱すことのない敬脩でさえ、「は?」と眉根を寄せ、口を半ば開いたままでいる。
朗熙に至っては、目の前の現実を受け入れきれず、(馬芸人でも飛び出してきたのか?)と己の視界そのものを疑った。
「……敵?なのか?」
拍子抜けなどという生易しい言葉では、到底片づけられそうにない。
これはもう夢か幻か、あるいは天が悪戯で仕掛けてきた冗談と言われれば、むしろそっちの方が納得がいくだろう。
そうしてふたりが唖然としている間に、黒衣の少女は何の説明もなく当然のように馬を並べて並走していた。
しかもその顔には、妙なやる気が漲っているようにも見える。朗熙は至極真面目に、心底戸惑っていた。
(なんなんだこいつ?そもそも俺たちが追われてるって知って現れたのか?助太刀って言ったが何をどう助けるつもりだ?その細っこい体で……というか)
「なんで犬が乗ってんじゃー!!!??」
思考の果て、ついに口から滑り出たのはまさかの一言だった。
朗熙の仰天声に、犬は「え、何か?」とでも言いたげに、首をかしげてみせた。
聞くべきことは、他に山ほどあっただろう、もっと深刻で、もっと重大で、もっと……それっぽいことが。
なのに、なぜそれが最初に出てきたのか朗熙にも、まったくわからない。
ただひとつ言えるのは、少女が連れている濡れねずみのようなその犬が、実に呑気な顔で、鞍の上からこちらをじぃっと見つめ返していたことである。
(間抜けな顔してやがる……が、馬に乗ってる犬なんて初めて見た.......)などと異様な光景に気を取られていると。
「我に続けぇええ!!」
またしても、黒衣の少女は元気いっぱいに叫んだ。

敬脩と朗熙は、自分たちに向けた言葉だろうと察しはついたが、どうにも空気が妙だった。
夏なのに風はひやりと冷たく、雨さえも気まずそうに勢いを失ったのは気のせいだろうか。
困惑とは、通常ひとつの問いに対して答えが見えぬときに起こるものだ。
だが今の彼らには、問いも答えも、そもそも存在していたのかすら怪しい。――問う者なきに、答えもまたなし。
そんな無限の空白の中へ、放り込まれた気分だった。
「いやなんですか!?どっから出てきやがったんだお前はぁああああ!!!」
朗熙の怒号とともに、剣先はびしぃっと少女を指した。
「クゥン!!」「ぎゃああ!!」
斬られるとでも思ったのか、犬と少女は揃って大絶叫する。全身を震わせ、小さくなってしがみつくその様子は、雷に怯える小鹿のようだった。
そんな騒ぎのただ中、低く沈んだ声が放たれる。
「で、女。おまえ――」
敬脩の声に怒気はなく、むしろ、どこか愉しげですらある。
声をかけられた黒衣の少女は、一瞬きょとんとし、
「へいっ!」などという意味不明な返事が、反射的に口からこぼれ出た。
敬脩は、そんな彼女の様子など気にも止めず、鞘へ納める手を軽く払うようにしながら続ける。
「追手とは別だな?どうせ、この山には詳しいんだろ?」
その問いかけに、少女はようやく声の主へと視線をやる。そして、目に映ったその姿に肺が一拍遅れて動いたような気がした。
神を見た……そんな言葉すら、頭をよぎりもしたが、それはさすがに大袈裟だろう。けれど、ふと浮かんだのは。
(......天の鳳凰様が人の皮を被って現れたら、きっとこんなふうだ!!)
そんな荒唐無稽なことを、案外、本気で思ったのだ。
上等そうな黒の漢服には金糸で繊細に刺された文様。
金色の留め具や耳元で揺れる飾りは、どれも見事に洗練されていて、気品と風格をこれ見よがしにまとっている。
おそらく世間は、この男を「美男子」の一言で片付けるだろう。
だが、少女がふと見入ってしまったのは、美しさよりも、どこか親しみに欠ける異質さのほうだった。

「おいおい!?敬脩!?こいつを信用すんのか!?追手の仲間だったりしねえか!?怪しさしか感じませんけどおおおお!!」
叫びながら剣をぶんぶん振り回し、わーわー騒ぎ立てる朗熙とは対照的に、敬脩はといえば、面白い見世物でも眺めるような涼しい顔で笑っていた。
「そのときは、そのときだな」
「あのな!勘弁してくれ!万が一にも、女を斬るのは趣味じゃねえ!!!」
朗熙が食い気味に声を張り上げたそのすぐあとだった。
「別に斬らなくてもいい。売ればいくらかにはなる。馬付きなら、なおさらな」
情の欠片も感じさせないその物言いに、朗熙は、ぎゅっと手綱を握りしめ、ハッとしたように上体だけを振り返り叫ぶ。
「あああああ!そうだ!お前はそういう奴だった!口から出るのは“売る”とか“値がつく”とかそればっか!金!利益!市場価格!それ仕入れ原価いくら?って、もうお前の脳内には感心するよほんと!!!なんなら犬もまとめて売れねえかなってな!」
長年の付き合いというのは、時に未来をも見通すのだ。
ましてや、敬脩の考えそうなことなど、朗熙にとって想像に容易い。
「おお、よく分かってんじゃねえか。それだけ弁が立つうえに、手間もかからず使い勝手もいい。お得な腰巾着だな」
「はああああ!?腰巾着!?たまには『いてくれて助かる』の一言くらいあってもバチ当たらないでしょうが!!」
まるで値札でも貼られたかのように、あっさりと揶揄されたことに朗熙は堪えきれず声を荒げた。
それに、さっきから勢い余って馬体を寄せるたび、馬たちは身を捩らせているというのに、敬脩の表情は微動だにしない。
「助かってるさ。労少なくして益多し、ってやつだ」
一見まともに見えるその顔の裏で、損得以外の勘定は最初から存在しない。
値がつけば手を伸ばし、つかなければ手を引く。ただそれだけのこと。
それが、洪敬脩という男である。
「いいかお嬢ちゃん!!こいつは冷徹の権化!血より金、涙より数字!俺らを救ったところで、そのあとどうなっても恨むなよ!?」
前置きくらいはしてやろうと、朗熙が気を配ったその矢先――敬脩が口にしたのは、分別も節度もない一言だった。
「おい女。お前、"生娘"か?」
少女はあまりの唐突さに顔を引きつらせ、「げッ!?」と小さく悲鳴を上げながら肩を震わせる。
「おいぃぃぃ!!この状況でなんで値踏みはじめてんだよ!!!」
「状態は値段に直結する。基本だろ」
幻想とは、こうもあっけなく崩れ去るものである。
ついさっきまで。そう、ほんの一瞬前まで、彼はきっと、天から舞い降りた鳳凰か、神の遣いか、あるいはそのもので、俗世とは無縁の存在が、たまたま人の姿を借りて現れただけなのだと、少女は信じていた。
だが、敬脩の口から放たれたのは、あまりにも俗な一言。
なにより神とは本来、値踏みなどしないはずである。
(……売られるなんて、そんなの絶対に御免だ!
けれど振り返ってみれば、これまでの人生なんて、だいたいそんなものだった気もする……水天山に来たのだって——)
「ちゃ……ちゃ……ちゃんと案内する!!するから!!ついてきて……こ、こ、こっちッ!!!」
いまさら身を退くより、いっそのこと腹を括ってやろうじゃないか。概ねついていない人生なのは間違いない。
けれど不思議なことに、ついていないわりには、どうにかこうにか、生きてこられたのだ。
……そして会話の内容がどうであれ、この青年二人が根っからの悪党だとも思えず、結果的に悟ったのは、自ら飛び乗った船はまさかの密漁船、そのうえ天の鳳凰様は、思っていたよりもずっと無慈悲だったということである。
そうして一行はしばらくのあいだ、少女のあとを追い、木々の間を縫うように馬を走らせた。
やがて、どこからか微かに水のせせらぎが聞こえてくる。
「じゃあ、ここで降りて!」
少女はそう言うやいなや、鞍を蹴ってひらりと馬から飛び降りると片手で手綱を握り、草に覆われた傾斜へと迷いなく足を踏み入れていく。
「はあ!?どこ連れてく気だ!?こいつほんとに大丈夫かよ!?」
朗熙が後ろから食ってかかるように声を上げたが、瀬音に紛れたせいか、少女の耳には届かなかったらしく、草をかき分けては先へ先へと進んでいく。
その一方で敬脩はというと、馬から降りるや「ふんっ」とひとつ鼻を鳴らし、毅然とした足取りで少女の後を追っていった。
どうやらこの男の警戒心というものは、どこかの谷底にでも落としてきたらしい。
一面の森は深く、あたりには土と雨の匂いが立ち込め、枝葉をすり抜けた無数の雫が容赦なく肩や頬を打ってくる。
やがて視界が開けたと思えば、そこには深山幽谷に息をひそめる、清澄とした蒼の流れが広がっていた。
さらに目をやると、霧にけぶる木立の奥には、苔に塗れた橋がひっそりと架かっており、いまも人が渡っているというのがにわかに信じがたいほど古びている。
少女は慣れた様子で、川の浅瀬をじゃぶじゃぶと渡りながら、「〜〜♪ んっふふ……」と、調子外れの鼻歌を上機嫌に口ずさんでいた。
その足元では、黒い犬が時折ずぶ濡れの体をぶるりと震わせ、そのたびに水飛沫を四方八方へ撒き散らしている。
これには朗熙も辛抱たまらず、「ちっ!」と舌打ちしたかと思えば、鼻をひくつかせ、腕を空中でぐるぐると振り回し、(頼むからなんとかしてくれ!!)と、全身を使って敬脩に訴えた。
だがその思いも虚しく、朗熙の必死の訴えに対して、敬脩は肩をひとつ上下させるだけだった。
そして、この上なく理にかなった提案であるかのように、さらりと言ってのける。
「お前も歌ったらいいんじゃないか?下手すりゃ追手も獣も、耳塞いで逃げていくかもな」
「はっ!?てめぇ……!?」
「お前の歌声には、敵も味方も一目散にずらかる。……凄いな」
この男らしさというべきか、その冗談めかした一言は、こんな場面でも妙に堂々としていた。
そして朗熙が言葉を返すより先に、さっさと背を向けて通り過ぎていく。
「俺は妖術使いじゃねぇわ!!それにな、本人がいちばん気にしてんだって……おい!聞けって!」
ぶつけた言葉が届いているのかは定かでない。
朗熙は濡れた前髪をぺしっと払いながら、ぶつぶつと文句をこぼしつつもその背を追うのだった。
すると、先を行く少女がふいに立ち止まり、濡れた指先で岩場の陰を指しながらくるりと振り返る。
「あそこに隠れて!追手はたぶん、あの橋をまっすぐ進んじゃうから、こっちには.....気づかない……はず!」
少女の指差した先には、川の流れの途中にごろりと横たわる大岩があった。水に削られ、雨に濡れ、表面のあちこちには苔が這い上がっている。
促されるまま岩の陰へと身を潜めたその直後、橋の方から「ばしゃっ、ばしゃっ」と水を蹴る足音が複数重なって聞こえてきた。
岩の端から顔を少し覗かせる朗熙がそっと指を折って数を取っているのは、どうやら追手の動きと人数を確かめているらしい。
その傍らで、ずぶ濡れの犬を撫でながら「静かにしてるんだよ墨凡」と、少女が実に呑気な口調で語りかけていたそのとき。
「来るぞ」
朗熙の声を合図にでもしたかのように、敬脩は一瞬にして少女の背後へと回り込む。「カチャン」と微かな金属音が響いたかと思えば、首輪でも嵌めるかのように鞘が喉元へ回しかけられていた!
首筋に走る冷たい感触に、少女はごくりと生唾を飲み込むと、続けざまにもう片方の手で容赦なく口元を塞がれた!
「ンッ……!ンンンッ!!」
何が起こったのかもわからぬまま、いきなり身動きを封じられた少女は目を剥いて固まってしまう。
顔半分を覆っている指の隙間から浅い呼吸を繰り返し、両手を必死にバタつかせてみるが、小柄な身体が多少暴れたところで敬脩の腕はびくともしない。
とはいえ、ジタバタされるのは鬱陶しかったのだろう。
敬脩は、喉元に添えた鞘の縁を、ぐいと深く押し当てた。
「疑ってるわけじゃない、かといってお前を全面的に信じてるわけでもない。いいからじっとしていろ」
──第二章・〈三〉 了──
