帝がゾッコン|第二章 才色兼備、趣味難あり〈ニ〉
登場人物(弍話)
執務室
【美希】
官学博士でありながらも工部の事務作業をこっそり手伝っている。実は腐女子。
【光印】
工部侍郎。直属の上司である工部尚書の荊峰を恋い慕う同性愛者だが、そのことを知る者は美希だけ。
翠天山(山中)
【洪敬脩】
本作の主人公。ついに登場したが、登場早々なぜか追われている。状況は不明だが、本人はいたって冷静。
【千朗熙】
敬脩と共にこちらも当然のように追われている。皮肉やら文句は言いつつも、しっかり同行しているあたり仲は深そう。
【黒衣の少女】
山を彷徨っていた謎の少女。追われているふたりを偶然目撃する。
【墨凡】
黒衣の少女が連れている黒い犬。なにやら芸達者な犬。
【索尔】
黒衣の少女の頼れる愛馬で栗毛の馬。足場の悪い山道でもお手のものらしい。
前回のあらすじ
太上王が突如「洪敬脩」という謎の名を発し、廷臣たちは騒然となる。この日の廷議で新王は決まらず一旦幕を引くことに。
翌日、宗正卿・周明から洪敬脩の素性を記した密書が配布された。
その頃、工部侍郎・光印は水害や大葬の対応に追われ、そこへ現れたのは官学博士の美希。
仕事場を片付けながら軽妙なやり取りを交わすふたり。その過去や関係性にも触れられ、物語は政変と人間模様の双方に広がりを見せていく。
第二章〈ニ〉
(それ、どう“望ましい”のか聞いてもいい?)
そう口に出しかけたが、美希は言葉を飲み込んだ。
(尋ねたところで面倒な話になりそうだ。今じゃなくても、いいだろう)
封書を引き出しに収めた光印は、くるりと振り返り、乙女のような笑顔で胸を張る。
「ただ、知っての通り私は工部尚書殿下、荊峰様一筋だ!!」
その意気揚々とした横顔に、美希は思わず半眼になった。
(今さらそんなことを改めて宣言されても困る……まったくあれの、荊峰殿下のどこがそんなに)
無骨で引き締まった肉体美が目を引くのは事実。
けれどあれは大抵、袍の襟を乱して肩までずり落とし、半裸で工房をうろついているせいであって、もはやありがたみも何もあったものではない。
(無自覚に煽っておいて、非がないとは言わせませんよ、殿下)
美希はそう思いつつ、いつの間にか淹れられていた茶を、ひと口すする。
まるで聞いたこっちが馬鹿だったと言わんばかりに、気怠げに呟いた。
「……ほんと、一途ね。素敵よ」
そろそろ帰ろうとしていたところだったのに、光印の勢いは止まらない。
「そうだ!」と両手をパチンと鳴らし、思い出したように身を乗り出す。
「いつになったら私と荊峰様の艶本〔いわゆる同人誌のようなもの〕を書いてくれるんだ美希!」
光印がこうなると、部屋の空気すらたちまち薔薇色に染まりかねない。
そんな彼に美希は「書くわけないでしょ」と即答した。
だが、まるで聞こえなかったかのようにニヤリと笑い、懐かしげに続ける光印。
「ああ、そうだ思い出したよ。いつだったか、学舎の廊下に艶本を落としていたことが、あったねぇ……」
それは紛れもない事実である。十全無比の美希が、決して落としてはならぬものを落とした書生時代の黒歴史。
そして偶然にも"それ"を拾ったのは、他ならぬ光印であった。
この事故こそが、こんにちまで続くふたりの妙ちくりんな関係の始まりである。
「……っ!!」バツの悪さが一気に顔に出る。
すでに湯呑に口をつけていた美希は、あろうことかそのまま机に茶を――ガンッッ!!

強めに置いた、というよりは衝動的に叩きつけた。
「ええ、そうね!あの時は拾ってくださって、どうもありがとう」
ヤケになったように身を起こすと、声を張り上げる。
「いい? 万が一にも、十万が一にも!
あなた方のあられもない情事が描かれた冊子が、荊峰殿下の目や耳やアソコにでも届こうものなら――
即・死・罪・確・定!だから、それだけは書・か・な・い・の!」
ぴくりと反応した光印が、さりげなく自身の下の方を見やる。
「目と耳と……もうひとつは私に向けて言ったのか?」
その仕草に、思わず「……ふっ」と吹き出しかけた美希は、咽せそうになるのを必死にこらえ、次こそは、と気を取り直して茶をぐいっと飲み干した。
「……私には、付いておりませんので。悪しからず」
そう言い放ち、湯呑みを置いてすっと立ち上がると、美希は乱れた裾を片手で整え、棚に置かれた帳を一冊ひょいと持ち上げた。
光印が「帰るのかい?」とわずかに体をひねり名残惜しそうに声をかける。
「うん。尚薬局に顔出し」
美希は肩越しにひらりと手を振って返した。
「例の薬官の彼か。こっちとの関係を疑ってるんだろ?」
「そりゃそうよ」と、あっけらかんと答えた彼女の背には、『目に見えるものが真実とは限らない』とでも書いてありそうだった。
どうにも美希に気のある薬官が一人。
しかも、よりにもよってかなり本気なのだ。
もっとも当の美希本人は、「本気になられたら面倒くさい」と心底うんざりしている。
おまけにその薬官、光印の姿を見るたび、実にわかりやすく機嫌を損ねる。
つまりは『妬いてる男のわかりやすい反応』というやつだ。
こうした火に油な展開には、とっくに慣れっこだが──
何も知らぬ者から見れば、疑われて無理もない。
というより、そう誤解されるには十分すぎる間柄である。
光印は、くっくっくと喉の奥を鳴らし、まるで愉快な戯れを見ているかのように微笑んでいた。
「じゃあね、光印。くだらないにもほどがある会話だったけど、感謝感謝。片付けはもうごめんよ」
「――ああ、今度は上等な茶を淹れよう。それから、面倒な男に困ったときは遠慮なく。芝居でも嫉妬でも、私が一役買ってやる」
♦︎
翠天山。
それは「天に届く翠の峰」と謳われ、中原と北方の境にそびえる霊峰である。
その名のとおり、山肌も梢も深く沈んだ緑に包まれ、今なお古の伝承が息づく避暑と霊験の地。
晴れ渡れば遥か峰々まで見晴らせようが、今日はあいにくの空模様。
小雨が降りしきるなか、陽光はすっかり遮られ、昼なお昏く、本来の穏やかさとは裏腹なその山中を二騎の馬がバシャッ、バシャッとぬかるんだ地面を蹴立てながら全速で駆けていた。
「待てッ!そこのふたり!逃げられると思うなッ──」
やった覚えのあることも、ないこともある。
どちらせによこのふたりは今、追われていた。
遠くで雷が鳴ると同時に、木々の奥から「ビュン」と風を裂き一本の矢が放たれた。
先頭で黒馬に跨り駆ける青年は、その矢を視線ひとつで捉えると、まるで遊戯でもするかのように鞘を抜かず構えた剣の腹で軽く打ち払う。
その一矢がすぐ背後で馬を駆ける青年の肩先を掠めると、結い上げた銀灰の髪が一瞬大きく揺れ、青年は思わず声を上げる。
「おいッ!あぶねーだろ!矢をこっちに弾くなバカ!!」
その言葉を受けて黒馬の背でちらりと振り返った青年は、まるで小石でも見つけたかのような顔で「……あ?」と無頓着に返した。
「あ?じゃねえ!!さっきからお前の方からばっか飛んできてんの!俺の頭に直行なんですけど!?やめてもらえますか!!?」
「てめえの頭が、矢を呼んでるんだろ」
「あるかそんな引力!わざとだろッ!」
そう騒ぐ間にも、「ビュンッ!」と今度は銀灰の髪の青年めがけて背後から矢が飛来する。
青年は余裕たっぷりに笑いながら矢を剣で弾くと、こう言い放つ。
「一本返しといてやる!受け取れッ!」
矢は狙い澄ましたように見事な軌道で、前方を行く黒馬の青年めがけて飛んでいった。
それを鞘の腹で正確無比に叩き落とした青年は、やけに落ち着いた口調で言う。
「遊ぶ余裕があるなら、囮でもやれ」
「いや、先にやったのはそっちだろ!ていうか囮したらいくらくれんの!命の危険手当ちゃんとつけてくれるよなあ!?」
「……黙れ、矢が来る」
百戦錬磨の兵と、その隣で給金の心配をするお調子者。
さながら命懸けの逃走劇というよりは、長閑な道中の寸劇でも見せられているかのようだ。
──それも、つかの間。
二人のやり取りを背に、木々の奥から怒声が響いた。
「止まれッ!!千朗熙!!」
黒馬に跨る青年はほくそ笑みながら振り返り、声を放つ。
「ほら、呼ばれてるぞ朗熙」
片手で手綱を捌きながら、もう一方の手で器用に馬の尻を「パンッ」と軽く叩く。
黒馬はひときわ高く嘶き、前脚で地を蹴り上げると、泥を跳ね飛ばしながら一段と加速した。
「呼ばれて止まるかっつーの!ていうか俺なのか!?」
銀灰の髪の青年――朗熙と呼ばれたその青年も負けじと馬腹に脚を入れ、「はっ!」と声をかけて追いすがる。
馬上から前を塞ぐ雑木を剣で斬り捨てれば、それに応えるように馬が短く鳴き、蹄がぬかるみに沈みながらも、より一層力強く地を蹴り疾駆した。
だが、後方から響き渡る怒声は、いっこうに衰える気配を見せない。
「待てッ!!逃げても無駄だッ!!」
さながら「獲物を逃すものか」と言わんばかりのしつこさで、諦める気配など微塵もない――などと感心している場合でもなかった。
朗熙が振り返りざま、追手に向けて声を荒げる。
「人違いじゃねーの!?俺なにもした覚えないけどー!!」
その瞬間、森の奥から重なるように別の怒声が響いた。
「止まれッ!!洪敬脩ッ!!」
そう聞くやいなや朗熙は黒馬を駆る青年へじりじりと馬を寄せ、これ見よがしに顔をのぞき込み言う。
「いやいやいや!お前もじゃねーかよ!!敬脩!」
──とはいえ、二人まとめて追われているのだから、安堵できる道理もないのだが。
朗熙の指摘とともに再び雷鳴が轟き、雨を突き破るように、一本の矢が敬脩の横をかすめると「バシュッ」と鈍い音をたてて幹に鋭く突き刺さった。
(止まれと言うなら……まずそっちが撃つのをやめろ。警告のつもりか知らんが舐められたものだな)
敬脩の内心はとっくに呆れ返っていた。
駆ける馬の足元では、転がる枯れ枝が、雨音に紛れてパキ、パキンと踏み割られていく。
もうどれほど、あてもなく山中を進んだのだろうか。
もはや二人にも、正確な位置はわからなかった。
何を措いても、敬脩には気にかかることがあった。
(北方の戦火に近い境界地帯。ごろつき、あるいは節軍か、最初はその程度の遭遇かと思ったが……)
こんな緊迫した状況ですら、彼の思考は曇らない。
追手は、「洪敬脩」「千朗熙」と、そうはっきり名指ししてきた。
名前を知っている以上、ただの野盗や巡回兵の誤認とは考えにくい、敬脩がそう結論づけるのに、長い推論も慎重な判断も必要ない。
その隣では、朗熙が「しつけーんだよ!」と何度目かの悪態をつきながら、器用に矢をくぐっていた。
命の危険より口の文句が優先される彼だが、敬脩が背を預けているし、仮にも、“千”の名を持つ者。
うるさかろうが何だろうが、凡庸な男ではない。
追手の矢も、敬脩が弾いてよこした矢も、すべて平然と交わしてみせた。
それは、傑出した実力のなし得る技だ──そう言えば、誰もが合点するだろう。
敬脩はそんな朗熙を横目に見やりつつ、心中で自問を続ける。
(……だが妙だ。名を呼んできた時点で、はなから俺たちを狙っての待ち伏せってことになるが、なおさら理由が見えてこない。個人的な恨みか?)
並走する朗熙へ、敬脩が声をかけた。
「おい、追手は見えたか?」
「ああー、見えたっちゃ見えたけどなあ……」
朗熙が息を切らせつつ、ぶっきらぼうに答える。
「雨で全然わからん!頭から雨衣を被ってたぞ、あの……ほら、アレだよアレ!」
「......斗篷か」
「それそれ!どこの連中か見当もつかねえ!人数も不明、なのにこっちの名前だけはバッチリご存知ってな!どうする、迎え撃つか?」
朗熙がやや声を張って問いかけたが、敬脩はちらとも振り返らずあっさりと返した。
「いや、必要ない。このまま振り切る」
「あいよ、了解っと。んじゃあもうひと逃げ、がんばりまーす!」
やり合う気など毛頭ない。
各地を転々と放浪してきたふたりにとって、こうした状況は決して珍しくない。
それに、逃げているように見えて敬脩の頭は先ほどからずっと働いていた。
矢の角度、射手の間合い、雨にまぎれて届く怒声の数。
それらを総合してみても、自分たちの方が圧倒的に格上。ならば立ち止まる理由はない。
それになによりもこの馬だ。
一見すればただの旅馬にも見えるが、黒毛の艶やかさと引き締まった脚が、時折その正体を垣間見せる。
ある時、中原で名のある節度使から“縁あって”譲られた、血統・脚・気性、すべてが折り紙付きの名馬である。
よほどの馬好きでもなければ、そんなことに気づきはしない。そして、気づかれなければそれでいい。
この脚さえあれば、迎え撃つ理由も、立ち止まる必要もない。
逃げ切れると判断さえつけば、誤解か、追跡か、ひんしゅくか──どれであれ、知れたことではない。
怒号と矢を背に、そして、いつまでも降り止まぬ雨の中。
山道を、ふたつの影が駆けていった。
──そして、この時。
ふたりの走り去る姿を、山の斜面上からじっと見つめる少女がひとり......。
生い茂る木々の合間に身を潜めるように立ち尽くし、纏った黒衣は雨に濡れてしっとりと肌に貼りついている。
彼女の傍らには一頭の栗毛の馬。
ついでに足元には、黒い犬がぶるぶると身体を震わせ、水飛沫をあたりに撒き散らしていた。
黒衣に身を包んだ少女の視線の先には、木々の切れ間から見え隠れする七騎の影。
さきほど駆けていった二騎と、それを追いかける五騎の姿に、ぱちくりと瞬きを繰り返し、(……なんだあれ?)とでも言いたげに、首をひとつ不思議そうに傾げていた。

厄介ごとに首を突っ込むべきではない──
そんなことは百も承知している。
だが、そう考えるよりも先に、身体が動いていた。
「行こう、墨凡!」
名を呼ばれた黒犬は、「ワンッ!」とひとつ吠え、すたすたと少女に歩み寄り、「ひょい」と抱き上げられると、そのまま鎧に足をかけて鞍へと一緒に乗り込んだ。
墨凡は当然のように少女の両足の間にすっぽりと収まると、いつもの定位置だと言わんばかりに口を大きく開けて、のんびりとあくびをひとつ。
少女は馬の背から身を乗り出し、愛馬の首元を軽くトントンと叩いて明るく語りかける。
「さあ、ぶっ飛ばすよ、索尔!道悪は得意だよね!」
どうやら、連れている栗毛の馬には名があるようで、索尔というらしい。
まるで人に話しかけるような口調でそう言うと、手綱を緩めたまま、脚で軽く合図を送る。
そのやけに板についた馬の操縦は、訓練された兵士も顔負けの手綱捌きであった。
馬上の少女はぐっと腰を落とすと、声を張り上げる。
「全速前進ッ!!馬一騎!犬一匹!総員たったの三名!
目標は……えっと……さっきの青年ふたり!!!
いっけぇえぇぇーーーっ!!」
その号令に呼応するように、墨凡が「ワオーン」と山に響く遠吠えを上げ、索尔が空へと蹄を振り上げ、「ヒヒィィン」と誇らしげに嘶いた。
そして一陣の風のごとく身を翻し、山路を駆け下りていく。
──第二章・〈ニ〉 了──
