55歳、俺、母になる!?③【#創作大賞2025#エンタメ原作部門】
静かな診察室に、機械のかすかな音が響いていた。
冷たいジェルが腹部に塗られていく感触に、
健一はまばたきを繰り返した。
(俺が……本当に妊娠してるってことか?)
汗ばんだ手を握りしめながら、
健一はモニターを見つめた。
「はい、じゃあ見ていきますね」
医師の穏やかな声と同時に、心音が響いた。
確かにそこに命があると分かる音だった。
ドクン、ドクン、ドクン……
健一の全身が凍りついた。
「……これ、まさか……心臓の音……?」
「そうです、赤ちゃんの心音ですよ。ちゃんと元気に育ってますね」
「…………っ」
胸が強く締めつけられる。
この命を守ろうとする体に、
心だけが追いつかない。
(…まじかよ……)
由美のときは、もっと静かで穏やかな妊娠だったように思っていた。
でもそれは、ただ自分が
「気にしなかった」だけなのかもしれない。
彼女も、こうやって吐いて、眠れなくて、つらい日々を送っていたのかもしれない……
(あのとき……こんな音、聞いたか?
いや、聞こうと病院にすら行ってない……)
まるで、過去の自分に背中を掴まれるような感覚。
何も知らなかった、
知ろうともしなかった“父親だった自分”が、胸の奥でうずく。
「赤ちゃんは順調です。つわりは時期が来れば落ち着きますからね」
医師の説明は、耳に入ってこなかった──
***
診察が終わり、服を直して待合室へ戻ると、
真鍋 が隣にやってきた。
「検査、おつかれさまでした」
「……あ、はい」
「そういえばね……最初にあなたが来たときのこと、よく覚えてるのよ」
真鍋はゆっくりと笑った。
「初回の健診、赤ちゃんの心音を聞いたあなた……泣いてたわよね。『ありがとう』って言いながら」
「……え?」
「でも、2回目の健診では……すごく暗い顔で来て、無言で涙を流していて……何かあったのかなって 」
「……そう、、、、ですか……」
言葉を濁した健一に、真鍋はそれ以上なにも
聞かず、ただ静かに肩をぽんと叩いて立ち去った。
(……美弥。おまえ、なにがあったんだ?)
診察券をバッグにしまいながら、健一は、ぼんやりと考えていた。
この命を喜んでいた美弥が、
なぜ──涙を流していたのか。
同じ体を共有しているのに、
あまりに美弥という存在が遠く感じる…
***
病院を出たあとも、健一の耳には、
あの小さな心音がいつまでも残っていた。
ドクン、ドクン、ドクン──。
まるでどこか遠くで、誰かが命の太鼓を叩いているような、不思議な響きだった。
(……あれが、生きてるってことなのか……)
まだ受け入れきれない現実に、
戸惑いだけが胸に残っていた。
ただ、
その鼓動を聞いた瞬間──
身体の奥底で、
なにかが微かに反応したのを感じた。
真鍋の言葉が、ふと蘇る。
『 最初の健診では、泣いて“ありがとう”って何度も言ってたのよ 』
(……そんなに、嬉しかったのか、美弥)
なぜ、そんなふうに泣けたんだろう。
その感情は、健一自身がかつて感じたものと
同じだったのか、
それともまったく別のものだったのか。
──由美が妊娠を告げたときのことを、思い出す。
あのとき、
健一は驚いたあと、
意外なほど浮かれていたのを覚えている。
(でも……子どもが生まれても、結局、オレは“男の役目は稼ぐこと”だと思って…何もしてないな……)
オムツを替えることも、夜中の泣き声に起きることも、「母親(由美)の仕事」と決め込んでいた。
手伝う、なんて言葉を出すことすらなかった…。
自分が稼いできているんだから、
家のことは任せて当然。
そんなふうに、どこかで思っていた。
(……それでも、妊娠を知ったのはやっぱり嬉しかった。家族ができたことが、ただ、喜びだったんだよな…)
では──なぜ、美弥は二度目の健診で
あんなにも暗い顔をして、ひとことも喋らず、
涙を流していたのか…
(この命の誕生を、喜んだはずだろ…?)
同じ体にいながら、
まるで別の人間のように遠く感じる美弥の感情。
そこには、
俺には知り得ない何かがあるのかもしれない…
***
冷蔵庫の音、静かな部屋、そしてどこか無機質な空気。
(帰ってきた、って感じがしないな……)
風呂場には女性用の
ボディソープとシャンプーのみ。
クローゼットの中も、
女性物の服だけが静かに吊るされていた。
靴も女性ものだけ。
歯ブラシも、一本。
見渡しても、男の気配はどこにもなかった。
(この部屋に、男がいた痕跡が……ない……??)
それが、初めて「疑問」に変わる瞬間だった。
(じゃあ、父親は……?)
この命は 誰か と一緒に作ったはずなのに、
“その誰か”の存在が、健一には浮かばない……
(父親……は、どこの……だれなんだ……?)
たったそれだけの疑問が、やけに重く響いた。
部屋の真ん中にある 机に目をやると、
前回のものだと思われるエコー写真が置いてあった。
それと、一冊のノートがある。
(これは……)
健一はそっと手を伸ばす。
答えは、そこにある気がした───
──第④話へつづく。
