55歳、俺、母になる!?②【#創作大賞2025#エンタメ原作部門】
少しつれた頬に青白い肌。
大きな瞳と、くっきりとした二重。
控えめな印象ながら、
独特の愛らしさを秘めた顔立ちだった。
健一は、その顔を凝視したまま動けなかった。
「……女、だ……
俺……女に…なってる…!?」
手を伸ばせば、
鏡の中のその顔も同じように手を伸ばす。
頬に触れれば、
柔らかく温かな肌の感触が指先に返ってくる。
冷たい鏡のガラスとは違う、確かな“生身”の感触だ。
視界の端に見えるのは、滑らかな鎖骨と、
胸元を覆う白いTシャツ。
自身の身体を見下ろすと、スラリとした手足。
しなやかで、見慣れぬシルエットの女の身体。
「……なんだよ、これ……夢じゃ……」
言いかけて口をつぐむ。
冷えた洗面所の床が、
裸足の足裏にじわりと沁みる。
夢にしては、あまりにも生々しすぎる…
健一は震える足で洗面所を出て、部屋を見回した。
淡いベージュのカーテンが窓辺に揺れている。
ベッドサイドの小棚には、
ガラス瓶に挿されたドライフラワーと、
おしゃれなキャンドルがいくつか並んでいる。
誰かの“暮らし”が、そのまま残った空間だった。
机の上には手帳と、開いたままの母子手帳・エコー写真が置かれている。
震える手でそれを手に取り、表紙を見る。
《保護者の名前:一ノ瀬 美弥(いちのせ みや)》
そう書かれていた。
「……美……弥。俺は今、この女の中に……?」
どこか現実味のない名前が、自分と結びついたことにひやりとした違和感が走る。
その瞬間──
「……っ……!」
またもや鼻を刺すような匂いが、
開いた窓から流れ込んできた。
ニンニクを炒めたような、こってりとした香り。
それだけで、さっき吐き出したばかりの胃が、
また不快にうごめき出す。
「う、うぅ……っ!」
思わずトイレへ駆け込み、
便器にしがみつくが、吐くものは何もない。
ただえづくばかりだ。
「なんだよこれ……オレ、病気か?死ぬ前兆か……?」
息も絶え絶えで部屋に戻ると、さっきの母子手帳の間から、プラスチックのカードが滑り落ちた。
《〇〇レディースクリニック》の診察券──
「……病院……そうだ、行くしかない……!」
健一 (美弥) は、手すりにつかまりながらふらつく足取りで部屋を出た。
スマホも財布も――
全部、知らない鞄の中。
震える手で保険証と診察券をつかんで、
なんとか歩き続けた。
近くの駅からタクシーに飛び乗った。
胃の奥がムカムカして、視界がにじんでいく…
「〇〇レディースクリニックまでお願いします……」
「体調悪いですか?大丈夫ですか?」
「……えぇ、ちょっと」
車内で吐かないように、必死で唇を噛んだ。
(ちょ、タクシー乗った方が歩いてる時より吐き気増してるんだけど!?)
ぎこちない返答をしながら、
健一は自分の声にまた違和感を覚える。
どこか高く、柔らかい。
喉の奥から出る響きが、
まるで他人のもののようだった。
***
しばらくして、目的の産婦人科に到着した。
空間全体に、落ち着きと清潔感が漂っている。
けれど健一には、
それがどうにも居心地悪く感じた。
(なんなんだよ……どこまで現実なんだ、これ……)
ソファに座り、呼ばれるまでの時間がやけに長く感じた。
名前を呼ばれ、診察室に入った。
そこには、ふくよかで優しげな雰囲気を纏った女性がいた。
「こんにちは。私は助産師の真鍋です。
今日はどうされましたか?」
「すごく……気持ち悪くて……
何か大きな病気かと思って……」
健一がそう言うと、
真鍋は優しい微笑みを浮かべて口を開いた。
「おそらく“つわり”ね。
妊娠初期にはよくあることで――」
「いや、そんなわけない!」
思わず声を荒げていた。
健一自身も驚くほどの勢いだった。
「だって、もう……吐くものなんて残ってないのに、ずっと吐きそうなんだよ。
水もろくに飲めなくて、
ずーっと船酔いしてるみたいだ……
こんなの、病気じゃなかったらおかしいだろ……!
頼む、ちゃんと検査してくれよ……!」
健一の肩が震えていた。
目の奥には、妊娠している自分を受け入れられない焦りと、身体の変化への恐怖が滲んでいた。
真鍋は椅子に座る健一の隣に膝をつき、
やわらかく言った。
「怖かったのね。大丈夫、ちゃんと検査しましょう。でも、まずお伝えしたいのは……
それ、“つわり”の典型的な症状なんです」
「……え?」
「吐き気、倦怠感、何も食べられない感じ……どれも妊娠初期にはよくあるのよ。ひとによっては、入院が必要なほど重くなることもある。
体が、命を育てる準備をしてるから。つらくて当然よ。頑張ってるわね。」
その口調は、驚くほど穏やかだった。
責めず、否定せず、
ただ事実だけを包むように伝えてくれる。
「……でも、これが妊婦の普通…なんですか?」
「普通、とは言えないわね。どんな妊娠も特別なのよ。でも、あなたはおかしくない。
それだけは、ちゃんと覚えておいてくださいね」
健一は、息を詰めたまま黙って頷いた。
(由美のときは……こんなに苦しそうじゃなかった。でも、俺が気づかなかっただけかもしれない……)
かすかな罪悪感が、喉の奥にひっかかる。
知らない世界の扉を、一歩だけ踏み込んだような気がした。
──第③話へつづく
