55歳、俺、母になる!?⑯【#創作大賞2025#エンタメ原作部門】
退院の朝。
健一は重たい体を引きずるように起き上がり、
ゆっくりと私物をバッグに詰めていった。
下腹の痛み、張った胸、ふらつく足元……
どれも“本調子”には程遠い。
(こんな状態で……ほんとに帰るのか、俺…)
眠る優真を見て、ほんの少しだけ気持ちが和らぐ。
ドアがノックされ、真鍋が顔を出す。
「2人とも退院おめでとう!
無理せず、何かあったらすぐ連絡してね。」
明るい声に送り出され、
健一は「お世話になりました」と頭を下げた。
スマホを見ると、
莉緒からのメッセージが届いていた。
《本当は迎えに行きたかったけど、
休み取れなかった……ごめん!気をつけて帰って!》
「……気をつけるもなにも…タクシーで帰るだけだぞ」
優真を抱き、肩にバッグをかけ、
オムツやミルクの紙袋も手にした。
それだけで病院出る前からすでにヘトヘトだった。
少しの段差も怖くて、歩幅は自然と小さくなる。
優真が途中で泣きそうになり、つい息を呑んだ。
だが──
自動ドアが開き、外の空気に触れた瞬間。
健一は、思わず立ち止まって深く息を吸い込んだ。
数日ぶりなのに、
景色はまるで別世界のようだった。
「……ああ、久しぶりだな。外。」
澄んだ空気が肺に入る。
気づけばつぶやいていた。
「12時間……あの地獄みたいな出産を乗り越えたんだ。あれよりキツイことなんて、もうないだろな…たぶん…」
つかの間、軽やかな気持ちになった。
タクシーのドアを開け、
慎重に優真を抱えたまま、後部座席に身を沈める。
ゆっくりとドアが閉まり、車が走り出した。
***
久しぶりに帰った部屋は、
どこかよどんだ空気が漂っていた。
掃除されておらず、
荷物を広げるスペースすらない。
「……俺、何も準備してなかったな」
泣き叫ぶ優真をとりあえず布団に寝かせ、
台所に向かう。
慣れない環境に戸惑いながらも、
なんとかミルクを用意した。
飲み終えて落ち着いた優真を安全な場所に寝かせ、部屋を整え始める。
「……なかなかだな、こりゃ……」
産後の体には、掃除機すら重い。
腰に痛みが広がった。
ようやく片づけ終え、
何か口に入れようと冷蔵庫を開ける。
中には、腐った食材ばかり。
「おいおい……食べるもんもないのかよ」
新生児を連れて買い物に行けるはずもなく、
仕方なく棚からカップラーメンを取り出した。
昼間は優真が静かだったから、
少しだけ「なんとかなるかも」と思ってしまった。
──でも、それは幻想だった。
夜になった途端、空気が一変した。
泣き声が、がらんとした部屋に響く。
(……はいはい…)
その声を聞くたび、健一は痛む身体をかばいながら、布団から起き上がる。
気づけば窓の外で鳥の声がかすかに聞こえた。
「……朝、か」
風呂にも入らず、
歯を磨いたかどうかも覚えていないまま、
誰にも預けず過ごした最初の一日が終わった。
「病院なら、預けられたのにな……」
この部屋にいるのは、俺と優真だけだ。
その現実が、静かに胸にのしかかる。
***
その日の昼過ぎ。
ふらふらの足取りで台所に向かい、
今日もカップラーメンを取り出す。
お湯を注ぎながら、ぼんやりとつぶやいた。
「……病院って、すごかったんだな」
ただ部屋にいるだけで食事も運ばれてきた。
今は、食材があっても調理する気力なんてない。
包丁を握るよりも、一秒でも長く寝ていたい。
湯気の立つカップのふたを開けながら、ふと思い出す。
(……由美も、こうだったんだろうか…)
退院したばかりの身体で、
普通に台所に立っていた由美。
朝から赤ん坊を抱えながら、
俺の分の飯まで用意していた。
それなのに。
「手抜きだなんて、よく言えたよな……」
自分の言葉が、頭の中で再生される。
薄味だとか、冷めてるとか…
起きるのすらやっとの身体に、
よくそんなことを言えたもんだ…
熱いスープをすすりながら、
胃よりも先に胸の奥が痛んだ。
***
夕方、スマホの通知が鳴った。
《家行くけど、何かいる?》
莉緒からだった。
(……救いの手、莉緒様!)
健一は思わずスマホを握りしめた。
正直、何を頼んでいいかもわからないくらい、
疲弊していたが、どうにか返信する。
《ゆうべんとうの、おかずを頼めるか?》
すぐに「了解!」と返事がきた。
それからまもなく、玄関のチャイムが鳴る。
「優真~♪莉緒おばちゃん来たよ~」
明るい声とともに莉緒が部屋に入ってきた。
「ちょっと……なにこれ」
部屋を見渡した莉緒の表情が、
みるみる固まっていく。
「一緒に買いに行った物、全然使われてないじゃん! 使うために買ったんでしょ?」
「……すまん。手が回ってなくて……」
「あの時、産後に備えてそろえたんでしょ?
おっさん、しっかりしてよー」
莉緒の言葉は、間違っていなかった。
「てか、ご飯もまさか、ずっとカップ麺とか食べてんの? 美弥の身体が泣くよ?」
これも正論だった。
だが、健一は思わず顔をゆがめた。
「……俺だって、限界だったんだよ」
声が少し震える。
「自分のことは後回しでも、優真のことは、病院と同じようにやった。それだけで精一杯だったんだ!」
思わず、声を荒げてしまった。
莉緒の顔が一瞬、はっとしたようにこわばった。
だが、すぐに目を伏せ、小さな声で言った。
「……ごめん。身体きつい中、大変だったよね」
その言葉に、健一は少しだけ肩の力が抜けた。
「無理させてるのはわかってる。だから、明後日から1週間、泊まり込みで世話しようと思って……」
莉緒はそっと言葉を続ける。
「今日は、その話をするために来たの!
本当は昨日、迎えに行きたかったけど……
この休みの為に、どうしても仕事抜けられなくて」
莉緒の目は、まっすぐだった。
孤独じゃないと、思えた瞬間だった。
「……ありがとう。本当に助かる」
胸の奥が、少しだけあたたかくなった。
──第⑰話へつづく
