55歳、俺、母になる!?⑰【#創作大賞2025#エンタメ原作部門】
「今日からよろしくね、優真~!」
無事に休みが取れて、
莉緒が泊まり込みで来てくれた。
数日間のワンオペ育児で、
擦り減っていた健一の心は、ようやく解放された気がした。
「おっさん、これどうやるの?」
莉緒は看護師だが、乳児は専門外。
教えるのは健一の役目だった。
「うわ、優真、暴れないで~」
「違う違う、そこは頭を支えるんだよ。
まだ首据わってないから」
莉緒と一緒に優真の世話をするうちに、
健一はふと思った。
(ひとりじゃないだけで、こんなに違うんだな)
気づけば、心の奥に小さな余裕が生まれていた。
泣き声に追われるだけだった日々が、
少しずつ穏やかになっていく。
「……こんな顔して飲むんだな」
「かわいいね。美弥に似てる」
見逃していた小さな仕草まで、
今はちゃんと目に映る。
どれも、たまらなく愛おしかった。
「じゃあ、また休みの時、顔出すね!」
一週間はあっという間だった。
***
莉緒は、休みのたびに顔を出してくれていた。
買い物や短時間の育児を代わってくれて、
健一にはありがたかった。
この日も、夜泣きでほとんど眠れなかった健一は、
「仮眠してきなよ」と莉緒に言われ、布団に入った。
気がつけば三時間も眠っていて、夕方になっていた。
目を覚ますと、部屋は静かだった。
莉緒と優真の姿はない。
耳を澄ますと、
風呂場から水音と笑い声が聞こえた。
眠い目をこすりつつ、
健一はふらりと風呂場へ向かった。
だが、
そこで目にした光景に、足が止まった。
(どういうことだ…これは)
見たことのないやり方で優真が洗われていた。
健一は、心臓がざわついた。
胸の奥から、怒りがせり上がる。
「おい、ちょっと待て!それ!」
莉緒が振り返った。
「あ、起きた? ゆっくりしてていいよ~」
「いや、だから何やってんだよ!怪我でもしたらどうするんだ!」
「これね~実は職場の──」
莉緒が何か言いかけたが、
健一は余裕がなかった。
耐えきれず、優真を抱き上げた。
「勝手なことすんなよ!」
「大丈夫だってば!」
「もういい! お前には頼まん! 怖くて預けられねぇよ!」
「えー? 何でそんなに怒るの?私だって、ちゃんと──」
「もういい!帰ってくれ!!」
気づけば、叫んでいた。
優真がびくりと体を震わせ、泣き出した。
莉緒は、しばらく黙っていた。
そして、小さく息を吐き、タオルで手を拭いた。
「……わかった。帰るね」
それだけ言い残して、静かに出ていった。
健一は、腕の中で泣き続ける優真を必死であやしながら、心の中でつぶやいた。
「ごめんな、優真……」
***
莉緒と連絡を取らないまま、二週間が過ぎた。
優真の一ヶ月検診も終わり、成長は順調だった。
美弥の体も回復してきている。
けれど、健一の心はすり減るばかりだった。
健一は、泣き続ける優真に思わず声を荒げた。
「もう……頼むから静かにしてくれ!」
優真はびくりと震え、さらに泣き出す。
(はぁ……またやっちまった……)
疲れと後悔で胸が詰まりそうだった。
毎日、部屋で赤ん坊とふたりきり。
会話もなく、気がつけば、世界から自分だけが
取り残されたような感覚に襲われる。
そんな中、いつも莉緒に頼んでいた生活用品が切れた。
仕方なく、優真を連れて買い物に出かけることにした。
「悪いな、優真。寒いのに……」
ずっと家にいたからか、
外の空気は少し気持ちを軽くした。
「たまには、こういうのも悪くないな」
カゴを片手に商品を選ぶ時間は、
思いがけず気分転換になった。
しかし、
帰りは帰宅ラッシュに重なってしまった。
満員のバス。
座れるはずもなく、
健一は優真を抱いたまま立っていた。
「多いな……優真、大丈夫か?」
案の定、優真は泣きはじめた。
健一は必死にあやす。
「よしよし、大丈夫だぞ……あと少しだからな」
けれど、優真の泣き声は、どんどん大きくなっていった。
バスの空気がピリついていくのが、肌でわかる。
(優真、泣き止んでくれよ……)
そのとき、
隣に立っていた中年男性が舌打ちをした。
「チッ……うるせぇな。黙らせろよ」
健一は「……すみません」と小さく答えた。
(こっちは好きで泣かせてるわけじゃないのに……)
あの時のことが、ふと浮かんだ。
(俺もバスの中で、泣いてる子に舌打ちしたっけな……)
(……こんなにも、辛かったんだな……あの時の母親も……)
しかし、泣き止まない優真にしびれを切らした男が、無理やり健一の後ろをすり抜けようとし、肩がぶつかった。
「うわっ……!」
眠れぬ夜を何日も過ごした身体は、
もう支えきれなかった。
「うるせぇんだよ、子供もお前も」
男が吐き捨てる。
(はぁ……? 何だよ、アイツ。ぶつかってきたのはそっちだろ)
疲れと孤独で、言い返す気力もなかった。
(泣き止まないのは……俺のせいなんだろうか)
ぐるぐると考えが巡る。
バスの中は、重苦しい沈黙で満たされていた。
(もう、降りよう……)
まだ家までは遠かったが、健一はバスを降りた。
せっかく外に出たのに、
帰り道は心まで暗くなっていった。
優真の泣き声が夜道に響いて、
一歩ごとに、心が沈んでいく。
そのとき、後ろから声がした。
「……あの! すみません! そこの……お母さん!」
振り返ると、
女性がひとり、息を切らせて追いかけてきていた。
「これ、さっきのバスで落としてましたよ!」
差し出されたのは、小さな鈴のついた赤ちゃん用のおもちゃだった。
「あ……ありがとうございます。この子のお気に入りで……」
健一は、しぼり出すような声で礼を言った。
女性は笑顔で答えた。
「それなら届けたかいがありますね!」
その後、少し真顔になり、言葉を続けた。
「さっきのこと……気にしないでください。
何も悪くなかったですよ。」
「いえ。本当に、すみません……」
涙がこぼれた。
こんなふうに声をかけられるとは思わなかった。
「大丈夫ですか?」
「平気です。ちょっと、疲れてるだけなんで……」
女性は微笑んで、健一の手をそっと取った。
そして、健一の手のひらに、
小さな花丸のシールを貼った。
「お母さんにも、がんばった証が必要ですよね。
いつも、お疲れさまです。」
そう言って、女性はにこやかに頭を下げると、
静かに立ち去っていった。
バスの中で、
自分だけが悪者だったような気がしていた。
でも、あの女性がいてくれたことで、健一は救われた。
誰かが味方でいてくれるだけで、心は軽くなる。
そっと差し出された優しさが、
世界を少しだけ明るくした──。
──第⑱話へつづく
