55歳、俺、母になる!?⑱【#創作大賞2025#エンタメ原作部門】
家の前に着くと、そこには莉緒がいた。
「……おっさん、おかえり」
「……おう。とりあえず入れよ」
互いに視線をそらしながら、
ぎこちなく靴を脱いだ。
「……莉緒」
「……おっさん!」
タイミングがかぶった。
互いに気まずい空気が流れる。
莉緒が「私から」と小声で切り出した。
「……おう」
莉緒は一度目を伏せて、口を開いた。
「この間のお風呂のことなんだけど……ごめん。
相談せずに、勝手にやっちゃって。
職場の先輩に“早くて楽だよ”って教えてもらったから、まずは私が試したんだ。おっさんの負担、少しでも減らしたくて……」
(……俺のためだったのか)
その事実が、胸にじわりと沁みた。
「でも……先輩にも言われた。“それはお母さんに相談しなきゃダメだよ”って。……おっさんの気持ち、ちゃんと考えてなかった」
あの時、莉緒が何か言いかけていたのに、
頭ごなしに怒鳴った自分が情けなかった。
健一は、絞り出すように言った。
「俺の方こそ、話も聞かずに悪かった」
莉緒の目が、少し潤んだように見えた。
健一は続けた。
「それに……今までずっと、甘えっぱなしだったのに、ちゃんと礼も言ってなかったな。」
一度、息を整える。
「……ありがとう。
優真と二人で買い物行って、身に染みたよ。
俺、どれだけ莉緒に助けられてたか……」
莉緒は、ほんの少しだけ微笑んだ。
「素直なおっさん、めずらしいね!」
二人の間に、ようやく柔らかな空気が戻った。
でも――楽になったはずなのに、
健一の胸の内は、まだざわついていた。
「俺、正直なとこ……もう限界きてる」
「どういう意味?」
「最近、優真にイラっとすることが増えてきたんだ。泣き止まないときとか、寝てくれないときとか……わかってるのに、つい怒鳴っちまう」
健一の言葉に、莉緒の表情が曇った。
「こんなこと、母親が言うのはダメなんだろうけど……俺、もう、どうしたらいいか……」
情けないけど、これが本音だった。
「……助けてくれ。俺ひとりじゃ、無理だ」
莉緒は黙って聞き、そっと頭を下げた。
「……ごめん、おっさん。私が、距離置いたせい。
無理させたんだよ」
莉緒の声が震えていた。
「これからは、もっと頼ってね」
そう言いながら、莉緒はスマホを取り出した。
「“ゆうべんとう”も頼もうよ。無理しなくていいって」
「……そんなの頼んでいいのか?」
「いいの!それで少しでも楽になるなら、絶対そのほうがいい」
莉緒は続けた。
「あと、大輝にも話してみる。
私か大輝が行ける日は、顔出すから」
健一は、ぐっと唇を引き結んだ。
「……いいのか」
「“母親じゃないから”って、そんなに気負わなくていいよ」
微笑みつつも、目は真剣だった。
「私も、また手伝わせて。みんなでやろうよ、育児」
その言葉に、健一の張りつめていた心がほどけた。
「……ありがとう」
***
「買い物してきたよ」
「オムツ取って」
自然と声をかけ合いながら、
三人で優真の世話をしていた。
誰かがミルクを作り、誰かが抱っこをし、
誰かが買い出しに行く。
それだけで、こんなにも心に余裕が生まれるのかと、健一は驚いていた。
そのとき、優真の口元がゆるんだ。
「……笑った!なあ、今、笑ったよな?」
健一は思わず声をあげた。
三人で顔を見合わせて、笑った。
(俺、今まで気づいてなかったな……)
余裕がなかったから、優真の笑顔も見逃していた。
ひとりで抱え込んでいたから、
誰にも助けを求めることすらできなかった。
「助けて」と言うことは、負けじゃない。
誰かに頼ることで、
誰かを助けたいと思える心も育つ。
健一は、少しずつそう思えるようになっていた。
***
その夜、健一は不思議な夢を見た。
「おーい!聞こえるかー?」
どこからともなく、軽い声が聞こえてくる。
健一が顔を上げると、
目の前に見覚えのあるハワイアンシャツの男が立っていた。
「……あ!お前は……!!」
思わず声をあげる。
サングラスをかけた“神”は、ビーチサンダルをぺたぺた鳴らしながら近づいてきた。
「いやー、久しぶりだね~。どう?学べたかい?」
「正直なとこ、舐めてたよ。
母親ってのは、勝手に“母親らしく”なるもんだって、どっかで思ってた」
神は、腕を組んで聞いている。
「でも違った……泣き止まない赤ん坊を前に、何度も投げ出したくなった。眠れない日が続いて、心が折れそうだった。」
健一はふっと目を伏せた。
「……由美にも、謝らなきゃな」
「ん?」
「“母親だから当然だろ”って決めつけてた。
助けて、って言わせなかったの、俺だよ……」
少し唇をかみ、続けた。
「あの頃、限界だったよな。なのに“手抜きだ”
“母親失格だ”って……ほんと、最低だったな、俺」
神は何も言わず、ただ聞いている。
健一は続けた。
「“母性”ってのは、最初から備わってるもんじゃない。
……自分で選んで、踏み出して、少しずつ育てていくもんだった。
それが、やっとわかったよ」
「おおお!」
神はパチパチと軽く拍手をした。
「いやー、いいねえ。その調子。
ま、まだ満点とは言わないけど、合格点だね」
健一は、肩をすくめた。
「上から目線だな、おい……」
「神だからね」
神はあっけらかんと笑い、表情をやわらげた。
「……学べたなら、そろそろ“美弥”の身体は返すよ。彼女も、もうだいぶ心が元気になってるからね」
(そうか……優真とは、もうお別れか)
視線を落とし、唇をかみしめた。
「……わかったよ」
神は笑みをゆるめ、表情を引き締めた。
「誰かに甘えるだけじゃなく、
今度は“手を差し伸べる側”になりなよ。
それができたら、もっと面白くなるよ、人生は」
「……あぁ、そうだな」
神は、ふいに指をパチンと鳴らした。
世界がふっと反転したように視界が揺れ、
健一は目を閉じた。
──第⑲話へつづく
