55歳、俺、母になる!?⑬【#創作大賞2025#エンタメ原作部門】
弁当屋のバイトは、
少し前に産休に入らせてもらった。
臨月に入ったとある日。
立ち上がろうとした瞬間――
下半身に、にじむような違和感が広がった。
「……ん? え……なにこれ……?」
一瞬、何が起きたのか分からなかった。
けれど次の瞬間、全身に緊張が走る。
まさか、
これが……
“破水”ってやつじゃないのか!?
心臓がバクバクと高鳴る。
頭の中に、真鍋の説明がフラッシュバックした。
「やべぇ……とにかく病院……っ!」
震える手でスマホを取り病院に電話した。
「す、すみません……! 破水かもしれなくて……!」
『わかりました。確認したいので、すぐに来られますか?』
「は、はいっ……!!」
切ったあと、すぐに莉緒に連絡。
「……破水?!すぐ行くから待ってて!!」
ものの数分で車を飛ばして迎えに来てくれた莉緒。
「大丈夫!?立てる?しんどくない?」
「……うん、大丈夫。たぶん…」
けれど内心は、不安でいっぱいだった。
――ついに、その時が来たかもしれない。
そんな思いを胸に病院に着くと、
真鍋が出迎えてくれた。
「破水かもって?ちょっと診せてね」
頷くしかできないまま、診察室に入る。
(このあと……どうなるんだ……)
慎重に確認を終えた真鍋が、静かに口を開いた。
「……美弥さん。
……これは… 尿漏れね 」
「…………え?」
(えっ……今、なんて言った……?)
「妊娠後期はね、お腹が大きくなって膀胱も圧迫されるから、よくあることなの。恥ずかしくなんかないわよ。むしろ、ここまで順調に来てる証拠!」
真鍋の言葉に救われたものの、
健一の顔は熱くなるばかりだった。
(う、うそだろ……)
「……すみません……お騒がせしました…」
恥ずかしさで消えてしまいたいとは、
まさにこのことだった…
そんな健一を見て、真鍋が言った。
「そんなに落ち込まないでね」
優しい声に顔を上げると、
真鍋はまっすぐ美弥を見て語りかけた。
「美弥さん、何度でも間違っていいのよ。
破水かもしれない、って不安になったら、ちゃんと知らせてね。大事なのは、赤ちゃんのこと。
恥ずかしさより、命のほうが大切だから」
優しさと力強さが混ざったその言葉に、
健一の胸がじんと熱くなった。
「……はい」
「……で、でも破水じゃないってことは……」
「うん、まだ生まれないわね。
もう少しだけ、お腹の中にいたいみたいよ」
(な、なんだよ……びびらせんなよ……)
ようやく少し落ち着いた気持ちで、診察室を出る。
廊下で待っていた莉緒が、すぐに近づいてきた。
「どうだった?!」
健一は、気まずそうに小さく笑った。
「……破水じゃなかった。ただの尿漏れだって…」
「そっか。でも、かなり焦ったね」
莉緒が優しく笑ってくれて、それだけで肩の力が抜けた。
(心配してくれる人がいるって、こんなに安心するんだな……)
2人はゆっくり病院の外へと歩き出し、車で帰宅した。
***
予定日まで、ついにあと2日──。
お腹の子は相変わらず元気で、
動きすぎて眠れない。
寝かけた頃に足がつって飛び起きることもしょっちゅうで、夜中に何度も目が覚めてしまう。
お腹が下がったように感じても、
陣痛は起こらず、張りもすぐに引いてしまう。
ただ時間だけが過ぎていった…
【当日】
ついに来た、予定日当日。
……が、何も、起き、ない、
「いや、ほんとか……え?嘘だろ?」
健一は朝から何度も時計を見ては、
「まだか……」と小さくつぶやいた。
お腹は静か。胎動はいつも通り。
なぜか心拍数だけが上がっていく。
「……あぁもう、来るなら来てくれ〜〜!!」
***
次の日、病院を受診すると、医師は穏やかに言った。
「赤ちゃんの状態も母体も問題はなさそうですね。もう少し様子を見ましょう」
ほっとしたような、
不安が延長されたような気持ちのまま、家に帰った。
だが、その“もう少し”は、
想像よりはるかに長かった…
結局、1週間が過ぎても陣痛は来ず、
再び病院へ。
お腹の子は元気なものの、
これ以上待つのはリスクもあるとのことで、医師が静かに言った。
「明日、入院して促進剤を使ってお産を進めましょう」
言葉の重みが、じわじわと身体に染み込んできた。
(……本当に、始まるんだな)
もう後戻りはできないことを突きつけられた気がして、喉がカラカラになった。
診察のあと、真鍋が優しく背中を支えるように声をかけてくれた。
「美弥さん、大丈夫よ。頑張りましょうね」
その言葉に、健一は小さく、けれどしっかりと頷いた。
怖くないと言えば嘘になる。
けれど、この命を迎えるということだけは、
何があっても向き合わなければならない。
胸に芽生えた小さな覚悟とともに、
病院をあとにした。
***
夜が更けていく部屋の中で、
健一は天井を見つめたまま、眠れずにいた。
(明日か……)
明日から入院して、促進剤を使って出産。
頭ではわかっていても、心が追いつかない。
緊張で呼吸が浅くなり、寝返りを繰り返している
うちに、いつの間にか眠っていた。
気がつけば夜中の三時過ぎ。
ずしんと重たい痛みが下腹部を襲った。
「……いった…っ…」
目を見開き、反射的にお腹に手を当てる。
先週までとは明らかに違う。
痛みはじわじわと広がり、
数十秒ほどでふっと引いていった。
とりあえず時間を測ってみることにした。
──10分後。
「……また来た……っ」
どうやら一定の間隔で痛みが来ている。
しかも、前よりも深く重たい…
「これは……連絡、だな……」
健一は慌てて病院に電話をかけた。
明日の入院予定も伝えてあったからか、
助産師が落ち着いた声で言った。
「今すぐいらしてください。そのまま入院しましょう」
すぐさま莉緒にも連絡を入れると、
予想通りの勢いで返事が返ってきた。
《今から向かう!玄関前で待ってて!》
それから十数分後。
車のライトが玄関前を照らす中、莉緒が車のドアを開けて言った。
「迎えに来たよ、乗れる?」
「い……痛い…。次の痛みが引いたら……っ、乗る……」
歯を食いしばり、
陣痛の合間を縫ってなんとか足を運ぶ。
莉緒は慎重に車を発進させた。
病院に到着すると、真鍋が待っていた。
「もうすぐ赤ちゃんに会えるわ。頑張りましょ!」
そう言って手を握ってくれた真鍋の掌は、
安心感を与えてくれる温もりに満ちていた。
診察の結果、子宮口は3センチ。
まだまだ先は長そうだ。
──ここから、出産という戦いが始まる。
──第⑭話へつづく
