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白衣の天使は、僕の知らない元素を持っていた

春の職員室

四月最初の月曜日、水瀬凛は職員室のドアを静かに押し開けた。

白衣の前ボタンをきちんと留め、黒のスラックスに踵の低いパンプス。
ゆるやかに波打つ黒髪が肩のあたりで揺れている。
三十人以上の教員が顔を上げ、また顔を伏せた。
「綺麗な先生が来た」という空気だけが、職員室の天井近くをふわりと漂い、しばらくそこに留まっていた。

凛は自分に割り当てられた机を探しながら、窓の外の桜並木に目を細めた。
東京から電車で四十分ほどの、この県立高校の敷地を縁取る桜は、まだ三分咲きだった。
うっすらと白み始めた枝が、朝の光の中で曖昧に揺れている。

「水瀬先生ですよね」

声をかけてきたのは、同じく新任らしい青年だった。
身長は百七十八センチほど、細くも太くもない体型で、スーツのネクタイがわずかに曲がっている。
髪はぼんやりと整えられた感じで、整えようとしたけれどうまくいかなかった、という誠実さが滲んでいた。

「桐嶋颯です。数学です。よろしくお願いします」

凛はほんのすこし表情をほぐした。

「水瀬凛です。化学です。こちらこそ」

二人の机は、奇跡のように隣同士だった。

職員室の端に並んだ二つの机は、「新任」という見えない札でも貼られているかのように、古株の先生方の机から二、三歩ぶんだけ離れた場所に置かれていた。
凛はそれを少し滑稽だと思ったが、颯は気にした様子もなく、すでに机の上に数学の教科書を積み上げている。

「あそこの端っこ、新人エリアって感じですよね」と颯は声を抑えて言い、笑った。

凛もつられて笑った。

その日の昼休み、二人は自然と連れ立って食堂へ向かった。
別々に行く理由が、まだ見つからなかった。


金曜日の帰り道

新任の二人は、驚くほど早く打ち解けた。

話す内容が尽きなかった。授業の進め方のこと、生徒の反応のこと、採点のやり方のこと。
職員会議での発言タイミングのこと、コピー機の隠れた操作法のこと、第二準備室の棚の奥に眠っている謎の実験器具のこと。
ベテランの先生方が「新人あるある」で笑うような話題を、二人は真剣に、そして少し笑いながら交換し続けた。

木曜日の放課後、颯が「明日の金曜、駅まで歩いていきませんか」と言い出した。

「クルマ置いて?」
「置いて。居酒屋でも行こうかなと思って」

凛はほんの少し考えた。
金曜の夜、一人でアパートに帰って、コンビニのお惣菜を温めて食べることに比べれば、圧倒的に悪い選択肢ではなかった。

「行きます」

学校から最寄り駅まで、のんびり歩いて十五分ほどだった。
四月の夕暮れは長く、空はまだ明るいオレンジ色をしていた。
凛は白衣を脱いで、フレアスカートのワンピースに着替えていた。
颯はそれを見て一瞬だけ目を瞬かせたが、何も言わなかった。
ただ「行きましょうか」とだけ言って、自然に歩き出した。

駅前の小さな居酒屋で、二人はビールと串カツと、なぜか唐揚げを頼んだ。

「水瀬先生って、何乗ってるんですか」
「N-ONE。ホンダの。親が就職祝いに買ってくれた」

「可愛いですよね、あのクルマ」と颯は言った。「僕、エルグランド買いました」

凛は少し驚いた顔をした。

「新任でエルグランド?」
「激安の中古です。五十万」
「……大丈夫なんですか、それ」
「走ります、今のところ」

颯はあっさり言い、ビールを飲んだ。
凛も笑いながらビールを飲んだ。

それから毎週金曜日、二人はクルマを学校に置いて駅まで歩くようになった。
居酒屋が変わり、メニューが変わり、でも笑い声の質は変わらなかった。
土曜日には映画を見に行ったり、それが面倒なときは颯の巨大な中古エルグランドに乗り込んで、どこかへドライブに出かけた。
エルグランドはたしかに走った。ぎしぎしと音はするが、とにかく走った。

「このクルマ、なんで買ったんですか」と凛は助手席で尋ねた。

「アルファードは嫌いで、ハイエースは高くて、消去法でこれになりました」
「消去法……」
「いつか車中泊の旅行がしたいんです」

凛は窓の外に視線を逃がした。
夕方の幹線道路を、エルグランドは堂々と走っていた。
たしかにこの大きさなら、車内で足を伸ばして眠れそうだった。

そういう関係が、あっという間に積み重なった。

二人とも彼氏も彼女もいなかったし、同い年で同じ新任で、同じように右も左もわからない春の中にいた。
気がついたら、金曜の夕方に相手の机の前に立っているのが、凛にとっての当たり前になっていた。

ただ一つだけ、凛には習慣があった。

颯と歩くとき、颯とごはんを食べるとき、凛はどこかに小さな一線を引いていた。
それは決して相手に気づかせるようなものではなく、凛自身もはっきりとした輪郭を持てていなかった。
ただ、何かが近づきすぎる前に、さりげなく話題を変えたり、少しだけ笑顔を大きくしたりした。

そうやって少し引いた場所から颯を見ていると、颯はいつも普通にしていた。
凛の一線に気づいているのか、いないのか、それもわからなかった。


五月の空白

ゴールデンウィークの前日、颯が「五日間くらい実家に帰ります」と言った。

「そうなんですか」と凛は言い、その言葉がわずかに空洞になるのを感じた。

「水瀬先生は?」
「友達と旅行の予定があって」
「じゃあお互いに充実したゴールデンウィークですね」

颯は軽く言ったが、凛はその「じゃあ」が引っかかった。
会えない五日間を惜しむような言葉を、颯は選ばなかった。
いや、選べなかったのかもしれない、とも思った。
自分も似たようなものだった。

連休中、凛は友人との旅行の合間に、なぜか颯のことを思い出した。
大きなエルグランドで消去法の話をしたこと。
居酒屋でネクタイの曲がりを直さないまま焼き鳥を食べていたこと。
映画を見た帰りに「この映画、数学的に考えると伏線がおかしい」とまじめに解説し始めたこと。

思い出し笑いをして、友人に不思議そうな顔をされた。

「なんか好きな人できた?」と友人が言った。

凛は「そんなんじゃない」と言った。

友人はにやにやしたまま、何も言わなかった。
凛は海を見た。
穏やかな五月の海だった。

連休明けの月曜日。
凛が職員室に入ると、颯はすでに机に向かっていた。

「おかえりなさい」と颯が言った。

「ただいまです」

それだけの会話だった。でも何かが、すこし変わっていた。
お互いにそれを知っていて、お互いにそれを黙っていた。
凛は白衣のポケットに手を入れて、窓の外の五月の空を一秒だけ見た。
桜はとっくに散っていて、若葉が鮮やかに茂っていた。

五日間というのは、短いようで、意外に長かった。


激安エルグランドと助手席

五月の三週目の金曜日、颯が「今週末、温泉に行きませんか」と言った。

唐突だったが、凛は「行きます」とだけ答えた。

一拍おいてから颯は付け加えた。「泊まりで」

もう一拍おいてから凛は答えた。「わかりました」

短い沈黙が二つ、静かに積み重なった。

土曜の朝、学校の駐車場に集合した。
颯の中古エルグランドは、朝日の中でも古さを隠せていなかったが、エンジンは威勢よくかかった。
後部座席には颯のスポーツバッグと、凛の小ぶりなキャリーケースが積まれた。

高速道路に乗ると、エルグランドは快調に走り出した。

「このクルマ、高速は安定しますね」と凛は言った。

「重いからですかね」
「ボディが重いのか錆が重いのかわからないですけど」
「ひどい」

笑い声が、広い車内に散らばった。

山あいに近づくにつれ、空気の質が変わり始めた。
ラジオから流れる音楽が、やがて雑音に混じって消えた。
颯はそれをそのままにしておいた。
凛も何も言わなかった。
沈黙は重くなかった。

国道の脇に、小さな農産物直売所が見えた。
颯がウインカーを出して、何も言わずに駐車した。
二人で車を降りて、苺や新玉ねぎや謎の山菜を買い込んだ。
凛は三百円のいちごを食べながら、こういうことが自然にできる人が隣にいると、道中がずいぶん長く感じなくなるな、と思った。

「このクルマ、そのうち売ろうかなって思ってるんですよね」

エルグランドに戻り、また走り出してからしばらくして、颯が言った。

凛は苺を食べる手を止めた。

「どうして?」

「だって……女の子と車中泊ってなると、トイレもないしシャワーもないじゃないですか。今日みたいにホテルに泊まるほうがいいかなって思って」

凛はフロントガラスの向こうの景色を見つめた。

「キャンピングカーなら全然ありなんですけど、このクルマで女の子に車中泊させるのは気が引けるなって」

颯はそのまま視線を前に向けたまま、さらりと言った。

女の子に、という言葉が、凛の胸の中で一回だけ重くなった。

颯は何を知っているのだろう、と凛は思った。
何も知らないのかもしれない。
でも颯はたまに、意味のある言葉を意味のなさそうな顔で言う。
数学の教員というのは、そういう生き物なのかもしれなかった。

「そっか」

凛はそれだけ言って、また苺を一粒口に入れた。


露天風呂と星空

宿は山あいの観光地にある、中規模の旅館だった。

チェックインを済ませると、仲居さんが「お二人で一部屋でよろしかったですか」と確認した。
颯は「はい」と答え、凛は下を向いた。
下を向いただけで、何も言わなかった。

部屋は広縁がついた和室で、露天風呂が独立した小さな湯屋に繋がっていた。
颯は荷物を置くなり「大浴場に行ってきます」と言い、タオルと着替えを抱えて部屋を出た。

凛は一人になった。

露天風呂の脱衣所で着物を脱ぐ。
体のラインが鏡に映る。

中学生の頃から続けてきたホルモン補充療法が、長い時間をかけて作り上げてきた輪郭。
肩も腰も、誰が見ても疑わないその形。
胸には柔らかな膨らみがある。
Bカップ。
鏡の前に立つたびに、凛はこの体が自分のものだと思う。
ずっとそうだった。迷ったことは一度もない。

ただ一つだけ、まだ残っていることがある。

手術。

いつかしようと思っている。
手術をして、戸籍を変えて、完全に女性として生きる。
それは迷っていることではない。
決めていることだ。
でも決めていることと、日時を予約して手術台に横たわることのあいだには、見えない段差がある。

怖い、という言葉は正確ではなかった。
正確に言えば、手術をしてしまったら——という考えが、どこかに引っかかる。
手術をしてしまったら、今の自分が今の自分でなくなるような、根拠のない予感があった。
もちろん、手術をしても自分は自分だ。
それは頭でわかっている。
でも頭でわかっていることと、踏み切れることはまた別だった。

それにこの秘密が、というのもある。

もし颯に好きだと言われたら。もし颯との間に、もっと深いものが生まれたら。
そのとき自分が何も手術をしていない状態で颯に向き合うのは、正直なことなのか。
でも手術を急いで、もし何かが違ってしまったら——

湯船に入ると、山から流れてくる冷たい空気が首筋に触れた。

空が暮れていた。
山の端に雲が引っかかり、その隙間から星がいくつか見え始めていた。
凛は湯に肩まで沈んで、空を見上げた。

考えるのをやめた。
今夜は関係ない。
今夜だけは、関係ない。

夕食は部屋食だった。
颯は風呂から戻ってきて、浴衣姿で行儀よく座り、「お品書きって読みますか?」と聞いた。

「読まないです」
「ですよね」

二人で日本酒を一合ずつ飲んだ。
ほかに言葉は少なかった。
食べることに集中していたし、外は静かで、部屋の灯りが落ち着いた黄色をしていたので、言葉がなくても不自然ではなかった。

片付けが済んで、仲居さんが布団を二組敷いて出ていくと、部屋にはまた静けさが戻った。
颯がテレビをつけかけて、やめた。
凛は窓を少し開けて、外の空気の匂いを確かめた。
ひんやりとした草の匂いがした。

「寝ますか」と颯が言った。

「寝ます」と凛は言った。


電気を点けていい?

布団が二組、並んで敷かれていた。

颯が先に横になり、凛もその隣に入った。
電気が消えて、部屋は真っ暗になった。
山の中の夜は本当に暗くて、自分の手の輪郭もわからないくらいだった。

しばらく、どちらも動かなかった。

動かないまま、凛の心臓だけが少しずつ速くなっていた。

颯の手が、暗闇の中でゆっくりと凛の手を探した。
見つけた。
凛の手を、そっと包んだ。

凛は息をした。

「凛さん」

先生ではなく、名前で呼ばれた。
それが合図だったのか、颯が顔を近づけてきて、唇が触れた。
ゆっくりとした、問いかけのようなキスだった。

凛はそれに応えた。

颯の手が頬に触れ、髪をよけた。
もう一度、キスをした。
今度は少しだけ長かった。
凛は目を閉じたまま、布団の感触と、颯の温度と、部屋の暗さを同時に感じていた。

颯の手が、ゆっくりと首筋から肩へ、肩から胸元へと動いた。
浴衣の合わせの内側に入り込んで、胸の膨らみをそっと包んだ。

凛の唇から、自分でも気づかないうちに息が漏れた。
声というよりは、ため息に近いような、でも切なさを帯びた音だった。

颯の唇が、首筋に、そして胸に触れた。
凛の息が乱れた。

そのまま颯の手が下へ動いて——

止まった。

一瞬の静止があって、颯の手が、止まったまま動かなかった。

部屋の空気が、すこし変わった。

颯はしばらく、何も言わなかった。

その沈黙の長さが、凛には永遠のように感じられた。
暗闇の中で、凛は自分の呼吸の音を聞いた。

「……電気、点けていい?」

颯の声は、責めていなかった。
ただ、確かめるような静けさがあった。

凛は少しのあいだ、黙っていた。

「うん」

灯りがついた。
山の宿の、薄い間接照明。
颯は凛の顔を見た。凛は颯の顔を見た。

颯の目は、怒っていなかった。
驚いていたかもしれない。
戸惑っていたかもしれない。
でも、怒っていなかった。
凛にはそれが、確かにわかった。

「嫌われるかなって思って」

凛は先に言った。
声が少しかすれた。
「ずっと言えなかった」

颯は凛の顔を見たまま、しばらく黙っていた。
窓の外で、何か小さな虫が鳴いていた。

颯が口を開いた。

「凛さんのこと、好きになったのは」

ゆっくりと、言葉を選んだ。

「女性だからじゃなかったと思う。君だから、好きになったんだと思う」

凛は何も言わなかった。

言葉の代わりに、目の端が少しだけ滲んだ。
凛はすぐに瞬きをして、それを消そうとした。
消えなかったけれど、消そうとした、それだけで十分だった。

颯はそれを見て、それ以上何も言わなかった。
言わなかったことが、何よりも雄弁だった。

「ただ」と颯は続けた。頬の後ろをすこし掻いた。
少しだけ、照れたような顔をした。「こういう経験が……僕、ないから。教えて、って言うのが正しいのか、導いて、って言うのが正しいのか、どっちなんだろうって思って」

一拍の沈黙があった。

凛はその沈黙の中で、笑いそうになった。
笑ってはいけないと思ったが、無理だった。
小さく、でもちゃんと笑ってしまった。

「どっちでも意味は同じです」
「そうですね」

颯も笑った。

そのまま、灯りを消した。


化学式では解けない

翌朝、凛は先に目を覚ました。

隣で颯が寝ていた。
口を少し開けて、規則正しく寝息を立てている。
昨夜の真剣な顔はどこにもなく、ただ眠っているだけの人間だった。

凛は天井を見た。

部屋に朝の光が入り始めていた。
山の朝は空気が澄んでいて、どこかで鳥が鳴いていた。

いつか手術をする。
いつか戸籍を変える。
そうしたら——と、凛はそこまで考えて、今度は止まらなかった。

そうしたら、颯と先のことを話すかもしれない。
そうなるかもしれないし、そうならないかもしれない。
でも、いつか手術をするまでのあいだにも、こうして隣で眠っている人間がいる。
その事実が、段差のこちら側から、段差の向こう側を少しだけ近くに見せていた。

怖いのは変わらない。
でも怖いまま、進める気がした。

颯が目を覚ました。

目を開けたまま少し天井を見て、それから凛のほうを向いた。

「おはよう」
「おはよう」

それだけだった。
でもそれだけで良かった。


帰り道、エルグランドは山を下りた。

助手席の窓を少し開けると、五月の朝の風が入ってきた。
凛は目を閉じて、その風を顔で受けた。

「売らないほうがいいですよ、このクルマ」

しばらくしてから、凛は言った。

「え?」と颯が言った。

「エルグランド。なんか、このクルマじゃないと嫌な気がする」

颯はハンドルを握ったまま、少し黙った。

何かを考えているような顔をした。
あるいは、何かを知っていてそれを飲み込んでいるような顔を、した。

「……そうですね」

それだけ言って、颯はまた前を向いた。

エルグランドは幹線道路に合流して、東京方面へと走り続けた。
カーステレオから流れる音楽は、また少し雑音混じりになった。
でも誰も変えなかった。

凛は助手席で、膝の上に手を置いたまま、窓の外を流れていく景色を見ていた。

田んぼが見えた。
ビニールハウスが見えた。
コンビニのロゴが見えた。
ガードレールが続いて、また田んぼが見えた。

どこにでもある景色だった。

でも今日は、その景色がいつもより少しだけ鮮やかに見えた。

なぜかはわからなかった。
化学式では、そういうことは説明できない。

数学式でも、たぶん、無理だろうと思った。



化学教師の彼女には、白衣の下にずっと言えなかった秘密があった。

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