白衣の天使は、僕の知らない元素を持っていた ――続編 その後の化学式――
六月の傘、二本
梅雨が来た。
職員室の窓に雨粒が斜めに当たって、ガラスをゆっくりと伝っていく。
凛は授業の板書計画を眺めながら、雨の音を聞いていた。
隣の席で颯が赤ペンを走らせている。
その音が、雨音に混じって規則正しく続いている。
二人が付き合い始めて、ほぼ一ヶ月が経っていた。
学校では何も変わっていなかった。
相変わらず「新人エリア」の二つの机で、相変わらず同じように仕事をしていた。
違うのは、金曜の夕方に凛が颯の机の前に立つとき、ほんの少しだけ立ち止まる時間が長くなったことと、颯がそれに気づいていつも顔を上げることだった。
放課後、職員玄関で傘を広げようとしたとき、颯が隣に来た。
「相合傘でいいですか」
「私の傘、ちゃんと二人入れますよ」
「僕のほうが大きいんで」
颯が持っていたのは、コンビニの大判ビニール傘だった。
凛のこじんまりとした花柄の傘より、たしかに広かった。
二人で入ると、颯の肩が少し濡れた。
「傘、ちゃんと買いなさい」
「来年買います」
「来年の梅雨に間に合わせてください」
雨の中を歩きながら、凛はこの会話がすでに、どこか日常の匂いを帯びていると思った。
付き合い始めて一ヶ月で日常になるのは早すぎるかもしれないが、そもそも付き合う前からすでに日常だったので、何かが変わったというより、何かに名前がついた、という感覚に近かった。
「凛さん」と颯が歩きながら言った。「一緒に住みませんか」
雨音が、一瞬だけ大きくなったような気がした。
「……急ですね」
「急ですかね。なんか、自然な流れかなと思って」
凛は正面を見たまま、少し考えた。
颯のアパートは学校から徒歩十分で、凛のアパートは駐車場付きで、どちらに引っ越すかという問題が即座に浮かんだが、それは実務的な問題であって、根本的な問いではなかった。
「……駐車場、二台分ありますか」
「調べます」
それだけで、話は決まった。
二台分の駐車場
七月の終わりに、凛は颯のアパートへ引っ越した。
駅から徒歩十二分、2LDK、駐車場二台付き。
エルグランドとN-ONEが並んで停まれる、それだけが絶対条件だった。
颯が三件目に見つけてきた物件は、築十五年で日当たりが微妙だったが、駐車場の横幅だけは申し分なかった。
引越し当日、エルグランドに凛の荷物を積んで運んだ。
キャリーケースひとつだった五月の旅行から、ふた月ほどで荷物は段ボール十二箱になっていた。
颯が「増えましたね」と言い、凛が「当たり前です」と言った。
新居のリビングに段ボールが積み上がった夜、二人はコンビニで買ったお弁当を床に座って食べた。
テーブルはまだ段ボールの下に埋まっていた。
「なんか、ちゃんと生活してる感じがしますね」と颯が言った。
「まだ段ボールの中で生活してますけどね」
「でも、二人で段ボールの中で生活してる」
凛はお弁当の蓋を閉じて、積み上がった段ボールの山を眺めた。
化学の参考書と、ドライヤーと、季節外れのコートと、好きなアーティストのCDと、ホルモン剤の処方薬が入った箱が、颯の数学の問題集と、工具セットと、車検証のコピーと、なぜかキャンプ用のシュラフと同じ空間に積み重なっている。
雑然としていた。でも不思議と、それが嫌ではなかった。
秋の診察室
十月の第二土曜日、凛は一人で電車に乗った。
颯は「一緒に行く」と言ったが、凛は「待っていてください」と言った。
颯は何も言わずに、玄関で凛を見送った。
クリニックは都内の、ひっそりとした雑居ビルの三階にあった。
凛がずっと通い続けてきた場所だ。
受付の顔なじみの女性に会釈をして、待合室の椅子に座った。
ほかに患者が二人いた。
どちらも凛よりずっと若く見えた。
一人は高校生くらいの、おそらく男の子。
もう一人は二十代前半くらいの、おそらく女の子。
二人ともスマートフォンを見ていて、凛のことを見ていなかった。
凛も正面を向いて、待った。
診察室に呼ばれると、いつもの担当医が「どうですか、最近」と聞いた。
白髪まじりの、穏やかな目をした女性の医師だった。
「彼氏ができました」と凛は言った。
医師は少し目を細めた。「それは良かった。安定してますか、精神的に」
「してると思います。たぶん」
「手術のこと、そろそろ考えてみる気持ちはありますか」
凛は膝の上の手を見た。
「……あります」
それが、今日ここに来た理由だった。
医師はいくつかの説明をした。
手術の種類、スケジュール、術後の経過、リスク。
凛はそれをすべて聞いた。
知っていることも多かったが、改めて言葉として受け取ると、輪郭がはっきりした。
帰り道、凛は電車の窓に映る自分の顔を見た。
怖いのは、まだある。
でも今は、怖いの向こう側に、具体的な何かが見えていた。
五月の旅館の朝に感じた、あの「段差の向こう側が近くなった」感覚が、また戻ってきていた。
アパートに帰ると、颯がリビングでテレビを見ていた。
凛が帰ってきたことに気づいて、テレビを消した。
「どうだった?」
「手術、予約しようと思う」
颯は少し黙った。
それから「そうか」と言った。
それだけだったが、その「そうか」の中に、いくつかの感情が静かに入っていた。
凛にはそれが、ちゃんと聞こえた。
冬支度と二人の食卓
十一月になると、エルグランドの車内にブランケットが積まれた。
週末のドライブは続いていた。
行き先は特に決めず、気が向いたほうへ走った。
颯が運転して、凛が助手席で地図アプリをぼんやり眺める。
時々「あっちに神社があります」とか「この先にうどん屋さんがあります」とか言って、颯がウインカーを出す。
そういうドライブだった。
同棲してから、料理は凛が担当するようになっていた。
特に取り決めたわけではない。
ある日の夕方に凛がキッチンに立ったら、颯が「うまい」と言ったので、次の日も立った。
それが続いた。
颯は洗い物と掃除機担当になった。
これも特に決めたわけではなく、自然にそうなった。
ある平日の夜、凛が夕飯を作りながら、手術のことを考えていた。
予約は入れた。
来年の二月。年明けにもう一度クリニックで術前の確認をして、書類を整えて、手術に臨む。
フライパンの中で玉ねぎが透明になっていく。
熱が通るにつれて、固かったものが柔らかくなる。
凛はそれをへらで混ぜながら、自分もそういうものかもしれないと思った。
固いまま熱に当たり続けたら、いつか柔らかくなる。
怖かったものが、ただの次の一歩になる。
「凛さん」と颯がリビングから声をかけた。「今日、数学の授業でさ」
「聞こえないです、キッチンうるさいから」
「じゃあ後で」
「後で聞きます」
そういう会話が、夜ごとどこかで交わされていた。
特別ではない会話が、積み重なっていた。
二月の朝
手術の日の朝、颯がアパートの前でエルグランドのエンジンをかけて待っていた。
病院は都内で、電車でも行けたが、颯が「クルマで行く」と言い張った。
理由は言わなかった。
凛も理由を聞かなかった。
助手席に乗り込むと、車内が温かかった。
凛が来る前から暖房をかけて待っていたのだとわかった。
凛は何も言わずにシートベルトを締めた。
首都高を走りながら、颯はほとんど何も言わなかった。
凛も言わなかった。
カーステレオは低い音量で、どこかで聞いたことのある曲を流していた。
曲名は思い出せなかった。
病院の駐車場でエンジンが切れた。
「行ってきます」と凛は言った。
「行ってらっしゃい」と颯は言った。
それだけだった。
でも颯の手が、一瞬だけ凛の手の甲に触れた。
本当に一瞬で、すぐに離れた。
凛は車を降りて、病院の入口へ歩いた。
振り返らなかった。
振り返ったら、たぶん余計なことを考えてしまう気がしたので、振り返らずに歩いた。
自動ドアが開いた。
春の退院
手術は、予定通りに終わった。
術後の数日は、思っていたよりも体が重かった。
痛みは想定の範囲内だったが、重さは想定より上だった。
病室のベッドで天井を見ながら、凛はこの重さを化学式で表すとしたら何になるだろうと考えた。
結論は出なかった。
化学式というのは、物質の変化を表すためのものであって、気持ちの重さを表す記号はまだ人類が発明していない。
颯は毎日来た。
病院の面会時間ぎりぎりに来て、何か食べ物を持ってきて、隣に座って、特別なことは何も言わずに帰った。
三日目に持ってきたのはコンビニのプリンで、凛が「なんでプリンですか」と聞いたら、「柔らかいものがいいかなと思って」と答えた。
四日目はシュークリームだった。
五日目はゼリーだった。
「柔らかいものシリーズですか」
「あと三種類くらいあります」
凛は笑った。
笑ったら少し傷口が痛かったが、それでも笑った。
退院の日、颯がエルグランドで迎えに来た。
春の光の中で、あの大きな古いSUVが駐車場の端に停まっていた。
颯が助手席のドアを開けて待っていた。
まるで、それが当たり前であるかのように。
凛は助手席に乗り込んだ。
シートベルトを締めながら、窓の外を見た。
病院の前の歩道に、沈丁花が咲いていた。
白くて小さい、甘い匂いのする花だった。
「売らなくて良かったですね、このクルマ」と凛は言った。
颯は少し笑って、「そうですね」と言った。
エルグランドは、春の道を走り出した。
夏と、一枚の書類
手術から五ヶ月後の七月、凛は家庭裁判所に申立書を提出した。
性別の取扱いの変更に関する審判。
書類に必要な事項を記入しながら、凛はこれが化学で言えば何の反応に相当するのかを考えた。
酸化還元反応でも、中和反応でも、どれもぴったりこない。
強いて言えば、状態変化に近いかもしれなかった。
物質そのものは変わらない。
ただ、その状態が変わる。
固体が液体になるように、液体が気体になるように——自分という物質はそのままで、ただ状態が変わる。
申立から数ヶ月後、審判が下りた。
通知を受け取った日の夜、凛はしばらくその封筒を机の上に置いたまま、開けなかった。
颯がリビングで洗い物をしている音がしていた。
食器が重なる音と、水が流れる音が、規則正しく続いている。
凛は封筒を開けた。
読んだ。
それから、封筒を机に戻した。
「颯さん」と凛は言った。
洗い物の音が止んだ。
「なに?」
「来て」
颯がリビングから出てきた。
エプロンをしたまま、手を拭きながら来た。
凛の机の前に立って、机の上の封筒を見た。
「……下りた?」
「下りた」
颯はしばらく凛の顔を見ていた。
それから「そうか」と言った。
この「そうか」も、五月の旅館の夜の「そうか」に似ていた。
言葉は同じでも、中身がちがう。
今夜の「そうか」には、何か明るいものが混じっていた。
颯がエプロンを外した。
「飲みに行こうか」
「行きます」
二人でアパートを出た。夜の住宅街は静かで、遠くで誰かの家のテレビの音がした。
駅前の居酒屋は、付き合い始めた頃にも来た場所で、席は相変わらず少し狭かった。
ビールで乾杯した。
「名前、変えますか?」と颯が聞いた。
「凛のままにします。画数変えようかなとは思うけど」
「凛がいいですよ。凛っぽいので」
「颯さんに言われたくないですよ、十分颯っぽいのに」
「そうですかね」
颯は照れくさそうに頭を掻いて、焼き鳥を食べた。
凛も食べた。
二人の会話は、それ以上特別なことを言わなかった。
でも、テーブルの上にビールのグラスが二つ並んでいて、その向こうに颯がいて、凛がいて、今夜の空気は少しだけ違う温度をしていた。
秋の駐車場で
九月のある日曜日、凛と颯は近所のホームセンターに行った。
徒歩で十分の距離を、なぜかエルグランドで行った。
徒歩でも行けたが、颯が「荷物になるかもしれないから」と言い、凛が「何を買う予定ですか」と聞き、颯が「まだわからない」と答えた。
それでもエルグランドで行った。
ホームセンターで二人は、観葉植物のコーナーで三十分過ごした。
特に買う予定はなかったが、小さな多肉植物を一つ買った。
颯が「丈夫そうだから」という理由で選んで、凛が「育てるの私ですよ」と言い、颯が「一緒に育てます」と言った。
駐車場に戻って、多肉植物の入った袋をエルグランドの後部座席に置いた。
颯がエンジンをかけながら、何かを考えているような顔をした。
凛はそれに気づいたが、何も言わなかった。
「凛さん」
「なに?」
「戸籍、変わったじゃないですか」
「変わりました」
「だから……」
颯は前を向いたまま、駐車場を出た。
幹線道路に合流してから、続けた。
「だから、そのうち、の話なんですけど」
「うん」
「結婚、考えてもらえますか」
凛は助手席の窓の外を見た。
九月の空が高く、うろこ雲が西から流れていた。
田んぼはまだ緑で、もうすぐ黄色くなる手前の色をしていた。
コンビニのロゴが見えた。ガードレールが続いた。
どこにでもある景色だった。
「……そのうち、ってどのくらいですか」
「来年くらい?」
「早いですね」
「早いですか」
「早いですけど」
凛は正面を向いた。
フロントガラスの向こうに、道が続いていた。
「……嫌じゃないです」
颯は何も言わなかった。
でもハンドルを握る手の角度が、少し変わった気がした。
気のせいかもしれなかった。
でも凛には、そういう小さな変化が、最近よくわかるようになっていた。
後部座席で、多肉植物が静かに揺れていた。
エルグランドは走り続けた。
カーステレオから雑音まじりの音楽が流れて、誰も変えなかった。
多肉植物は順調です
十月になっても、多肉植物は元気だった。
凛が水をやり、颯がたまに忘れて、凛が忘れるなと言い、颯がすみませんと言った。
それがほぼ毎週繰り返された。
にもかかわらず多肉植物は育ち続けた。
丈夫なものは、少しくらい忘れられても育つ。
ある夜、凛はリビングのテーブルで生徒の答案を採点しながら、多肉植物を見た。
植物の化学式は複雑だ。
光合成だけで何段階もの反応が連鎖する。
でも植物は化学式を知らないまま、ただ育つ。
知らなくていいのかもしれない。
育つという事実があれば、式は後からついてくる。
颯が風呂から出てきて、隣に座った。
「答案?」
「そう。化学基礎の定期テスト」
「赤点多い?」
「そこそこ」
颯は自分の数学の採点を取り出してきて、隣でやり始めた。
二人で採点しながら、時々「この解き方、なんか惜しい」とか「この子、絶対わかってないけど答えだけあってる」とか言い合った。
先生っぽい会話だった。
十一時頃、採点が終わった。
颯が先に立ち上がって、湯のみを二つ持ってきた。
凛のぶんにお茶が入っていた。
「ありがとう」
「どういたしまして」
颯が湯のみを置いて、また隣に座った。
凛はお茶を飲んだ。
「来年のこと、少し考えてる」と颯が言った。
「結婚のこと?」
「そう」
凛はお茶の湯気を見た。
「私も、少し考えてる」
「そう」
「そうです」
どちらも、それ以上は言わなかった。
でも多肉植物は、窓際でちゃんと育っていた。
外では、秋の虫が鳴いていた。
化学式では説明できない夜が、また一つ、静かに積み重なっていった。

