推敲版『コズミック・ヘリテージ』第一章『Motherboard』
同じ内容の小説がTALESにも、推敲版『コズミック・ヘリテージ』として掲載してあります。
note版では、注釈*を設けて用語を分かりやすくしています。
読みづらい場合はTALES版をお読み頂けると幸いです。
TALES版はこちら↓
*この作品には暴力描写、残酷描写があります。
苦手な方はご注意ください。
コズミック・ヘリテージ
第一章『Motherboard』
1-1
ー2083年ー
「ガイア*1!おい、起きてくれ」
低軌道エレベーター*2のクライマー *3が地表へ降下する最中、ケンジ*4は右腕に向かってそう言った。
「ボクは寝たりなんかしない。なに?ケンジ。」
ディスプレイ端末*5から、抑揚の少ない少年のような声が返す。
バディのAI、ガイアだ。
「いつも降りる時に何も喋らなくなる時があるじゃないか、寝ているんじゃないのか?」
左腕に着けた手巻き時計で時間を確認し、からかうような表情でケンジは問いかけた。
「ボクのローカルサーバー*6との切り替えに十四・三秒必要。この間は応対できない。寝ている訳じゃないんだ。」
「ホントか?まあいいか。そら、もう少しで見えるぞ!録画してくれ」
そう言ってケンジは義手の右腕を、抱えた子供に窓の外を見せてやるような仕草で掲げる。
次の瞬間、茜色に染まる雲海が轟音と共に切り裂かれた。
迸る電光を残し、目にとらえられぬほどの速度で物体が天へと消えて行った。
超電磁加速射出機、新型マスドライバー*7の通称ヘリックス*8による、月への輸送カプセルが射出される瞬間であった。
壮観な光景を、ケンジは少年のような目で見送った。
「上からの迫力も凄いな!ユキ*9に送ってくれ、見たがってたんだよ」
「すでに送信済みだ。」
ガイアが先んじて行動していた事をあっさりと告げる。
「またお前は勝手に…」
呆れた物言いのケンジに被せるように「ユキが見たがっていたことはボクも認識している。ケンジの許可は不要と断定。咎められる理由は無い。何が不満?」と並べ立てるガイア。
「わかったわかった、オールオーケーだよ」
ガイアの言葉に、ケンジはそう言って肩をすくめると嘆息した。
ここ最近いっつもこうだ。
去年のユキの誕生日なんかは、家のプリンター*10を勝手に起動させて「ユキにプレゼントだ。」なんて言って可愛らしい人形をプリントする始末だった。
ユキは俺に似て男趣味だ、あんな着せ替え人形なんて喜びはしないさ。
せめて好き勝手できるキャンバスの方が喜んだろうに。
ユキの笑える程下がり切った眉尻を見たガイアは「無理解。ユキ程の年齢の女性は喜ぶ。参照データで確認済み。何故喜ばない?」なんて言って口を利いてくれなくなった、俺にだけ。
どうやら拗ねてしまったようだ。
微笑ましくもあるが、まるで反抗期を匂わせ始めた子供を持った気分だ。
そんな記憶が頭をよぎり、ケンジの口角が上がった。
「ケンジ。何がそんなに面白い?」
「いいや?別に」
そう言ってケンジは両手で後頭部を支えると、目線を窓の外に移した。
「心拍の上昇。ボクからの視軸の逸脱を検知。嘘。または話を逸らしている確率は七九・四パーセント」
ガイアの言葉に、ケンジの上向きの口角が下を向く。
「そういう所は最新のAIらしいんだな、ホント」
「賞賛を受理。しかし。最新というには時間が経ち過ぎている。」
「お前以降AIは作られていないんだ、別にそう言ったって良いだろ」
馬耳東風なガイアに再び嘆息し、ケンジは続けた。
「仕事帰りにはラーメンだな。リニア家*11が良い、フレイヤ*12とユキに連絡してくれ」
「非効率。この数日間の無重力下の影響から。大量の脂質と塩分は内臓への負担が予想される。健康的な食事を推奨。最適な店舗のリストを作成。フレイヤへ送…」
「やめてくれ!俺の内臓は特別製だから良いんだよ!それに人類には必要なんだ、ラーメンが」
ケンジが人類を代表してガイアにそう説く。
「無理解。」
一蹴されたケンジは眉根を寄せると、無言でフレイヤへ「ガイアのリストは無視!リニア家で頼む」とメッセージを送った。
味覚の無いAIには、スープの一口で脳みその繋がってはいけないシナプスが繋がってしまう感覚なんてわからないさ!アレはきっと下手なドラッグよりキマる!
ケンジの脳がラーメンに支配されていると、クライマーが雲海へと沈み、窓の視界が雲でいっぱいになった。
そのまま雲を突っ切ると、眼下にネオンが煌めく島が見えてきた。
月への玄関口。
ケンジの帰る場所、国際都市リニアシティ*13。
ここは赤道直下、各国の旗がひしめく宇宙進出の為の人工島。
街の象徴、中心に高く聳え立つのは旧型マスドライバーのコロッサス*14。
先程の輸送カプセルを射出したのは、この巨大でブルータリズム*15溢れるコロッサスではない。
その手前、コロッサスの半分程の全長と、純白の華奢な建材。
コロッサスより先進的なデザインをした、ヘリックスの仕業であった。
ヘリックスは射出コスト低減、輸送最大重量の増加を実現した最新型のマスドライバー。
新旧の兄弟を見下ろすケンジの耳に、案内のブザー音が届く。
すると座席の正面に配置されたディスプレイにリニアシティのマークが表示され、続いて理知的な女性の声を模した音声が鳴り響く。
「ケンジさん、お仕事お疲れ様です。今回のお仕事は順調だったでしょうか?リニアシティに戻られたら暫くは休養して下さいね。」
リニアシティ統括AI、アーガス*16だ。
「報告の通りだよ、いつもの定期点検通りだ。シード*17にはなんの問題も無かったさ」
「それは良かったです。ですが報告の中にいつもとちが…」
「アーガス。その件はボクから説明する。特に問題は無いはずだ。」
突然、アーガスの言葉をガイアが遮り、ケンジは眉をひそめた。
「…はい。了承しました。この件に関して私は深く立ち入りませんので、ガイアもケンジさんもご安心ください。もう少しでアンカーに到着しますので、もう暫くお掛けになってお待ち下さい。到着後も必ずベルトのロックが解除されてから席をお立ち願います。では。」
アーガスがそう言うとディスプレイが消灯し、黒い画面にケンジの顔が浮かぶ。
「また何を勝手に企んでいるんだ?笑える悪戯なら良いが、笑えないのはナシだぞ?」
黒い画面に浮かぶ、微笑を湛えたケンジが言いつけるように言った。
「きっと笑えるものだ。安心して欲しい。次。宇宙に上がったらちゃんと説明する。それにユキが喜ぶ事なんだ。」
「ユキが喜ぶ事ねぇ…」
一抹の不安がよぎり、ケンジは顔を顰めた。
「…次はちゃんとユキの好みを把握してからにしてくれよ。ユキは男趣味だからな。あと、危ないのもナシだ」
ディスプレイ端末に指を差し、殊更言い付けるケンジ。
「もちろんだ。断言しよう。前回の失敗は繰り返さない。」
どこか力強さを感じる声音に、ケンジの表情が緩んでいく。
「そうか、なら楽しみにしてるよ」
ケンジはそう言って笑った。
1-1注釈
*1ガイア
月軌道上に設置された施設OISS、通称シード*17に搭載されたAI。ケンジ*4の相棒。
*2低軌道エレベーター
地球の低軌道上まで伸びるエレベーター。月へ行く際はこれを伝って低軌道まで上がり、そこからロケットで月へと向かう。
*3クライマー
昇降機。地上と低軌道エレベーター*2を行き来するカゴ。
*4ケンジ
ケンジ・エリクソン。コズミック・ヘリテージの主人公。40歳、妻子持ち。日本生まれ。シード*17のアナログ技術主任。食いしん坊。ボディビルと機械いじりが趣味。
*5ディスプレイ端末
技術者に付与される通信端末。宇宙での使用を前提に作られたおり高耐久。機能は簡素な物。
*6ローカルサーバー
ガイア*1の地球に設置されたサーバー。本体サーバーは月にあるが、距離が遠く遅延が発生するため補助として設置されている。常に同期されており、処理よりも記憶の保存の為に使われている。アーガス*16のサーバーと同じ場所に設置されている。
*7マスドライバー
電磁気力によって物資を弾丸のように射出する装置。コロッサス*14とヘリックス*8の2種類がリニアシティ*13には設置されている。
*8ヘリックス
新型のマスドライバー*7でコロッサス*14の兄弟機。純白に塗装された建造物。有機的な見た目。
*9ユキ
ユキ・エリクソン。ケンジ*4の娘。9歳の女の子。赤毛で活発な性格。
*10家のプリンター
一般家庭にある3Dプリンター。グレードにもよるが、材料さえあれば簡素なものをプリントできる。後述する量子プリンターとは別物。
*11リニア家
日本の神奈川県発祥、醤油豚骨が特徴のラーメン屋さんの暖簾分け店。人を狂わせる。
*12フレイヤ
フレイヤ・エリクソン。ケンジ*4の妻。38歳。赤毛が特徴。イギリス生まれ。プリンター技師。
*13国際都市リニアシティ
各国が協力して諸島を埋め立てて作り上げた国際都市。月への玄関口として機能しており、観光地にもなっている。
*14コロッサス
旧型のマスドライバー*7。ヘリックス*8とは兄弟機。コンクリートのような見た目の建材で構築されている。巨大で、都市の中央にある象徴的な建造物。庁舎と博物館が併設されている。
*15ブルータリズム
1950年代から1970年代にイギリスで誕生し、世界中で流行した建築様式。打放しのコンクリートや鉄、ガラスなどの素材そのままを生かした無骨なデザインが特徴。
*16アーガス
リニアシティ*13の統括AI。理知的な女性を模した音声が特徴で、地下深くにサーバーが設置されている。都市のあらゆるものを管理している。
*17シード
月軌道上に設置された施設、OISSの愛称。種のような形からそう言われている。
1-2
「はあ、毎度毎度このめんどくさい手続きはなんとかならないのか?一体何の為にお前を連れ回したり、データを送ったりしているのか分からないぜ、まったく」
アンカー*18の中で長い手続きを済ませたケンジは、気疲れした様子でリニアシティの湿った空気を吸った。
「仕方が無いだろう。安全の為だ。」
「爺さんどもがビビってるだけに感じるけどな。義手まで毎回調べなくったって良いじゃないか、わざわざ仕事用の物を作ったんだ」
そう言ってケンジは自身の右腕を見やった。
フレイヤと作った実用性一辺倒の右腕は便利だ。
だが、面白味には欠ける。
「検査を行わなければ全身サイボーグでも宇宙に上がれてしまうだろう。」
ケンジの心中を見透かすように、ガイアからぐうの音も出ない正論が放たれた。
「身体欠損の履歴。義体の種類と仕様。及び使用目的は検査対象だ。それに。本来君の義手のように民間や手製の物は宇宙に持ち込めない。それは知っているだろう?それを許可されているだけでも。君は特別なんだ。」
「…はいはい、お前の言う通りだよ」
疲れた表情のままケンジが嘆息混じりにそう言うと、ガイアは更に続ける。
「君はOISSのアナログ技術主任ではある。しかし。この特別待遇は危険も孕んでいるんだ。この措置は君の信用スコアを保つ為にも必要だ。理解してくれ。」
「技術力があるのは認めるが、謎に高い信用スコアは一体何なんだ?俺は割と好き勝手やってるぞ?」
「…ケンジの言う通りだ。」
ガイアの言葉にケンジは眉をピクつかせたが、それを分かってか分からずか、ガイアは続ける。
「確かに。君が信用に足るかどうかは些か疑問が残る。いや。些かどころでは無いかもしれない。」
「そこまで言う程じゃないだろ!ちょっとだけの筈だ!」
ディスプレイ端末に向かって摘むような仕草をして、ケンジは抗議した。
「シードに認可の下りていない食べ物を持ち込んだり。勝手にキッチンを作り替えたり。仕事をサボっていたり。今では貴重なガソリンを本来の使用用途以外…」
「ストップストップ!そこまで!誰かが聞いてたらどうするんだ!どれも可愛いもんじゃないか!悪事に手を染めてるわけじゃ無いだろ!」
ガイアの告発を遮るように、ディスプレイ端末のスピーカー部分を塞いでケンジが弁明する。
弁明を終え、肩で息をしているケンジを無視するようにガイアは籠った声で続けた。
「だが。アーガスの信用スコア裁定アルゴリズムは分からない。しかし。スコアは保たれているのだから良いじゃないか。」
「…それもそうだな、何かあったらお前に何とかして貰うよ」
とても妻子持ちとは思えない無責任な発言をすると、ケンジは左手を挙げてエアタクシーを呼んだ。
ネオンのうるさいエアタクシーに乗り込むと、管轄をしているアーガスに行き先は旧市街だと伝える。
エアタクシーの窓の外を見上げれば、低軌道エレベーターとアンカーを繋ぐ多条リボン構造体、通称テザー*19が、夜空に向かって幾筋も伸びていた。
数百万本の単結晶ダイヤモンド繊維を平たく織り込んだそれは、街のネオンを乱反射し、まるで細い絹糸のように艶やかな光沢を放っていた。
アンカー内には、わざわざこれを見るための実寸大レプリカまで展示されているが、見慣れたケンジにとっては珍しいものではなかった。
そのテザーが見えなくなり、しばらくの間エアタクシーに揺られると、ケンジ達は目的地の旧市街へ到着した。
タコス屋とパニーニ*20店に挟まれた通りの先、目的地のリニア家を目指してケンジは歩み出した。
「オイェ《おい》、ケンジじゃないか! ケ・ミラグロ《なんて奇跡だ》! 食っていくか?」
スペイン語を交えた英語を使い、手を挙げたのは生い茂る髭を蓄えた老人だ。
顔馴染みのタコス屋の店主である。
「よ!アブエロ《じいさん》!残念だが、今日はラーメンの気分なんだ。また来るよ!」
ケンジは肩をすくめ、そう言って手を挙げて返した。
「ケー・ラスティマ《残念だな》! ならまた来い、アミーゴ《相棒》!」
嗄れた声で老人はそう言って引き下がろうとしたが、店の中から元気の良さそうな女の子が滑り込むようにして出てきた。
娘のユキより二つ、三つ年上であろう女の子は出て来るなり口を開いた。
「ケンジさん!タコスの一つや二つなら問題ないでしょ?お腹空いてるんじゃないの?カルニタス*21が余りそうなの、アユダレ《助けて》、アンダレ《ねぇお願い》!」
女の子がそう言って上目遣いで手を合わせて来ると、ケンジの歩みが止まった。
「んじゃあ一つ…いや、二つ貰おうかな…?」
「ケンジ。食事の前だ。そう言った無駄なカロリーは控えた方が良いのでは?」
ガイアに水を差され、ケンジは顎に手を添えて考え込む。
「ちょっと!それならこっちのも買ってくれよ!ねえ、どう?」
パニーニ店からケンジの考えをかき乱すように、女の子と同い年程の男の子が飛び出すやいなやそう言った。
「おいおい、待ってくれよ。俺の腹はそんなに詰め込めないぞ」
子供達に挟まれたケンジは、眉尻を下げ降参するように両手を上げた。
すると、恰幅のいいパニーニ店の店主がエプロンで手を拭きながら笑顔で現れた。
「ちょうどいい所に来たな、ケンジ! ペルフェット《完璧》なタイミングだ」
店主はそう言うと、すぼめた右手の指先にチュッと音を立ててキスをし、それを空中にパッと放り投げてみせると更に続けた。
「最高のモルタデッラ*22が、パニーニにするのにぴったりの分だけ残ってるんだぞ! フレイヤさんとユキちゃん……あのアモーレ《愛しい人たち》へのお土産にどうだい?」
そう言って片眉を吊り上げると、右手でOKのサインを作って小さく振った。
「はぁ……わかったわかった、俺の分も頼む」
ケンジは嘆息を漏らしながらそう言った。
「ポルケッタ*23だよな?ペコリーノ*24はいるか?」
「もちろん、そりゃあもうたっぷり頼む」
「ヴォレンティエーリ《喜んで》!まかせな!サービスしとくよ」
片眉を吊り上げたままだった店主はそう言ってウィンクをすると、弾かれたように店の中に消えていった。
「ケンジ。」
「なんだ?いいだろ?俺は小腹を満たせるし、フレイヤは明日の朝メシの心配をしなくて済んだんだ。やめろ!そんな目で見るなよ!」
ただ名前を言っただけのガイアに過剰に反応するケンジ。
「ボクに目は無い。あるのはカメラだけだ。君たちのように感情を伝えられる機能は有していない。」
「うるふぁい!ひぃはろ!」
ケンジは、タコス屋の女の子が運んできたタコス、カルニタスを口にし、スパイスとラードの混ざった言葉を飛ばした。
1-2注釈
*18アンカー
低軌道エレベーター*2の麓にある地上施設。杭。ここでは月に行く際の検問などを行う、商業施設も併設されている。
*19テザー
アンカー*18と低軌道エレベーター*2を繋ぐケーブル。数百万本の単結晶ダイヤモンド繊維を平たく織り込んだ多条リボン構造体。平たい線の束。一本一本は透明に近い見た目。束にする事で光を乱反射し、絹糸のような見た目になる。途中途中に結合点がある。
*20パニーニ
イタリア発祥のサンドイッチ。数多の具材によって多種多様な種類がある。焼き目をつける為カリッとした食感が特徴。美味しい。
*21カルニタス
メキシコはミチョアカン州発祥の豚肉の煮込み。ラードやスパイス、オレンジやコーラで煮込まれたもので、タコスの鉄板具材。パクチー、玉ねぎ、サルサと一緒にトルティーヤに乗せれば絶品。超美味しい。
*22モルタデッラ
イタリアはボローニャ発祥のソーセージ。ボローニャソーセージとして日本でもみられるが、本場のものはピスタチオやスパイスが一緒に練り込まれている。超美味しい。
*23ポルケッタ
イタリアのローストポーク。イタリア版焼豚のようなもの。中央にスパイスやハーブを詰めて焼いたもの。超美味しい。
*24ペコリーノ
羊のお乳で作られたチーズ。独特の風味と旨みが特徴。超美味しい。
1-3
ずっしりと重いパニーニを抱え、ケンジはリニア家へと向かっていた。
ケンジが振り向くと、後方では先の四人が手を振っているのが見えた。
手を振り返すと、ケンジは再び歩き出した。
リニア家が見えてくると、獣が唸るような排気音が聞こえてきた。
ケンジの愛車、妻のフレイヤの運転するC2コルベット*25の排気音だ。
幹線道路から通りに入ったのか内包された獣は鳴りを潜め、ドロドロとした排気音へと変わるとヘッドライトの灯りが見えてきた。
コルベットが、リニア家の前で止まるのと同じタイミングにケンジも辿り着いた。
ケンジは屈むようにして、シルバーに塗装された車体の運転席を覗き込む。
そこには、燃えるような赤毛を長く伸ばした女性、フレイヤがケンジにエメラルドの瞳を向けていた。
笑顔で手を振るフレイヤを見て、ケンジの口元が自然と緩んだ。
すると「お父さーーーん!」と窓で遮られ籠った声が、ケンジの耳へと届く。
耳を塞ぐフレイヤの向こう、小さな赤毛の天使が、宝石のような目をケンジに向けて手を激しく振っていた。
フレイヤが窓を下げると、助手席から移動し、膝の上に乗るようにしてユキが顔を出す。
「お父さんお帰り!それに久しぶりー!」
「おう、ただいま!」
やや乱暴な手つきで、ユキの頭をケンジが撫でる。
くしゃくしゃになった髪を、ユキも乱暴に左右に振って直すと、ケンジに満面の笑みを向ける。
「それとガイアも!おかえり!」
ケンジのディスプレイ端末に向かってユキが大きな声で言った。
「あぁ。ただいま。ユキ。」
いつもより優しげな声音でガイアがユキに応えた。
「この子、あなたが帰って来るからって朝からずっとソワソワしてたの」
そう困ったような表情のフレイヤが言う。
「ほら、早くご飯食べましょ。このままじゃお母さん出られないの、誰かさんが重くて」
「あたし重くないもん!」
体重を指摘され、ユキがぷりぷりと怒る。
頰を膨らませたまま、猫が逃げるようにユキはフレイヤの膝から退き、しっかり後方確認をして車を降りた。
続けてフレイヤが降りるのを、ケンジが大仰にエスコートするようにドアを開けた。
「ありがとう、やけに紳士ね。浮気?」
「一週間以上振りの妻との再会だぞ?これくらいするさ」
「本当?怪しいわね」
そう言い合って夫婦は笑顔で抱き合う。
「大丈夫だ。フレイヤ。僕が見ている限り浮気の兆候は無い。」
「あら、ガイアがそう言うなら安心ね」
夫の俺よりガイアの方が信用度が高いのか…?
微笑む妻を見て、そんな事を思うケンジに向けられる視線が一つ。
「お母さんばっかりズルい!」
ユキがそう叫ぶと、ケンジに向かって全速力で突っ込んでくる。
ケンジは懐に飛び込んできたユキの勢いを殺すように受け止め、そのまま抱き抱えた。
「ハハッ、浮気相手はユキかもしれないな!」
冗談めかしてケンジが言う。
「そんな事してくれるのも、後どれくらいかしらね」
「データによれば後二年。長くとも七年といった所だろう。」
「やめろ、具体的な数字で表さないでくれ!ユキがどれだけ大きくなっても、死んでも離さないぞ」
情けない声を上げるケンジを見て、フレイヤとユキが声をあげて笑う。
「さぁ、お待ちかねのラーメンだ。行くぞ」
ケンジはユキを抱えたまま、座右の銘が刻まれた赤い暖簾の脇にある入り口へと向かった。
店内には、控えめに言っても良い匂いとは言えない臭いが充満し、白Tに捩り鉢巻きをした何人かがケンジ達を威勢よく迎える。
グラグラと煮え立つ寸胴を見据える職人達を横目に、ケンジはなぞるように品物を選択し、指紋決済を済ませる。
プラ券と言われるカラフルな板が幾つも出てくると、ケンジはそれをカウンターへと置き「カタコイオオメ」と呪文を唱える。
職人達は、パチパチと音を立てて板を分かりやすく並べ、色だけで注文を把握した。
店内に独特な緊張感が生まれる。
ケンジの横では、ユキとフレイヤが覚悟するように髪を結い上げ、箸を持って臨戦態勢へと移っている。
ヨーロッパ出身のフレイヤも箸を完璧にマスターする程に、ラーメンの魅力に取り憑かれてしまった。
しばらくすると、鶏油の浮かぶスープに燻製された焼豚の乗った丼が差し出された。
ケンジは、いの一番にレンゲを差し込み、汲んだスープを啜った。
舌を介して脳内のシナプスが弾けるように繋がり、視界が明滅するほどの旨味がケンジをトリップさせる。
飛び散る脂に怯むことなく麺を啜り上げ、スープに浸した海苔で白飯を巻くと、咀嚼も終わらぬ口内へ容赦なく詰め込んだ。
狂気。
そう言われても仕方ない恍惚の笑みが、ケンジの脂ぎった顔に浮かんでいた。
無我夢中になって喰らい、気がつくと、額に汗と満足感で恍惚の表情を浮かべる三人と、その三人に無理解を示す一人だけが残った。
明治時代に中国から伝わり、祖国日本で極悪なまでに魔改造されたこのジャンクフードは、こうして日々、世界中の人間を狂わせているのだ。
狂わされた三人は腹をさすり、リニア家を出るとコルベットに乗り込んだ。
「ちょっとユキ、本当に重たいから圧迫しないようにしてちょうだい」
ユキを抱え、助手席に乗り込んだフレイヤが苦しそうに言った。
「無理ぃ…苦しいぃ…」
母をまるでソファのように扱いながら、膝の上に乗ったユキが言う。
「明日からは少し節制しないとね…」
「残念だなフレイヤ、明日の朝食用にモルタデッラのパニーニがあるぞ」
「モルタデッラ?…じゃあ明後日からね」
脂質と塩分に支配されたフレイヤは力無く言った。
やっぱり、人類は食に逆らえないんだな。
ケンジは心中で嘯くと、イグニッションキーを回してV8の獣を呼び起こした。
吹き上がる排気音と揺れるエンジンに心地よさを覚え、ケンジはステレオを操作する。
フレンチなフィルターをかけたディスコとロボットボイスがステレオから流れ始め、ケンジは自然とステアリングを指で弾く。
そのままケンジはリズムに乗り、滑らかなボディーにリニアシティのネオンを流しながら家路についた。
1-3注釈
*25 C2コルベット
2代目シボレー・コルベット・スティングレイ。アメリカ合衆国の自動車メーカー、ゼネラルモーターズ(GM)のブランドの一つ、シボレーから発売されていた車。1963年から1967年に製造されたもので、スティングレイ(アカエイ)の名を、形状と原型のレーサーモデルから取って冠されている。ケンジの愛車で自前のレプリカ、シルバーに塗装されている。超カッコいい。
1-4
「いい湯だなぁ」
帰宅後「ほっとくとすぐ寝ちゃうからユキを先にお風呂に入れて」とフレイヤに言われたケンジは、右腕の義手を外し、ユキと共に広い湯船に浸かっていた。
「ユキ、髪伸びたなぁ。明日美容院だったよな?」
立ち昇る湯気と心地良さに満たされたケンジは言った。
「そう!やっと髪の毛切れるの、クソうざかった」
不満だとばかりに、濡れた髪を犬のように振り乱してユキが言う。
「こら、どこでそんな言葉覚えたんだ?エリクソン家の家訓はなんだった?復唱しなさい」
「タバコとギャンブル、それに汚い言葉は…」
「禁止、そう。汚い言葉は使ってはいけません。モテなくなっちゃうぞ」
ケンジはニヤついた顔でそう茶化す。
「あたしモテるもん!この前だってノト君に…」
「ダメだ、そんなのはユキにはまだ早い」
そう努めて冷静に諭すケンジ。
ノト君だと?誰だそいつは。聞いてないぞ。今度、家訓の禁止事項に『彼氏』も追加しておかなければ。ユキは誰にも渡さん。
煮え繰り返る心中を悟られまいと、ケンジは無表情を作って天井へ昇っていく湯気を見つめた。
「お父さん古ーい」
そう言って頰を膨らませるユキ。
「古いとか関係ありません!ダメです!ほら、もう出るぞ。そろそろCGC*26が始まる時間だ」
「はーい!ナックル*27!ナックル!」
バシャバシャとお湯を撒き散らして、ユキが小さな拳を何度も突き出しながら脱衣所に向かう。
「おいおい、滑るから危ないぞ。あと、お母さんの前でナックルはダメだ、ちゃんとシンクロイド*28って呼ぶんだ」
ナックルは地下賭博場での俗称だ。もしユキに賭け事の言葉を教えているとバレたら、また小遣いを減らされかねない。冗談じゃない。
ケンジは冷や汗を拭うように額を撫でると、ユキに続いて脱衣所へ向かった。
「ユキ、お父さんちょっとやる事あるから、先にリビング行っててくれ。今日はアイス食べていいぞ」
「ホント?!やったー!」
「ハハッ!チョコミント*29はお父さんのだからな、食べちゃダメだぞ」
「大丈夫、歯磨き粉アイスなんていらないもん」
さっきまで弾けていた笑顔を冷笑に変え、ユキはスッとリビングへ消えていった。
お子ちゃまにチョコミントの良さは分からないさ。
いいもん、俺ちゃんが食べちゃうもん。
そう内心で呟き、油断の見え始めた腹筋にパンツ一枚とタオルを首から下げ、ケンジは自室の扉を開けた。
扉の向こうには、アメコミやアクション映画のポスターが壁一面に貼られており、ガラクタや器具が雑多に散りばめられた部屋が広がっていた。
まるでティーンの部屋にも感じられる室内を進み、ケンジは掛けられていた義手を取り出した。
仕事中から帰宅する直前まで付けていた、仕事用の義手とは違う義手。
片翼の意匠のエングレーブ*30が、肩から肘辺りのチタンプレートに施された義手。
ケンジのお気に入りで、僅かな電気信号と油圧、カラクリのみで動くのだ。
「やっぱこれだな」
「手の感覚も無いのにか?」
エングレーブの義手の隣に掛けられていた、仕事用の義手に取り付けられたままのディスプレイ端末から、ガイアの声が響く。
「感覚が伝わらない分、俺の生身、肩に伝わる微細な感覚に集中するのがたまらないんだ」
「無理解。」
「ハハッ、だろうな。お前も身体を持ったら分かるかもしれないな」
笑顔のケンジはそう言うと、ディスプレイ端末を取り外し、エングレーブの義手に取り付けた。
「近所の子供から時計を直してほしいって連絡があったよな?」
「フレイヤからの連絡によれば。机の上にあるはずだ。」
ケンジはコの字形の机に向かうと、背のない回転椅子に座った。
「コイツだな、子供が時計だなんて今時珍しいな。寝る前にやっちまうか?程度によるか。MCグラス*31を起動させてくれ」
そう言ってケンジは机の上にあった腕時計を持ち、一瞬停止した。
「ん?おい、ガイア」
疑問符を浮かべたケンジは、自身の側頭部を叩く。
「ケンジ。MCグラスはここには無い。キズミ*32を使ってくれ。」
「そうだった、シードにいたから癖になったな。ヘルメットもしてないのに」
ガハハ、と豪快に笑うと、ケンジは丸い回転椅子を滑らせ、棚からキズミを取り出して装着しながら元の位置へと戻った。
「さぁて、どんなもんかな?お前はなんで動かなくなったんだぁ?」
ケンジは真剣な眼差しで腕時計を舐めるように見定め、手当たり次第に各パーツを触る。
「...ただの電池切れみたいだな、きっと。ささっとやっちまおう!CGCまでの時間は?」
「公開予定時刻まで後十一分二二秒。」
「オーケー、チョコミントをユキと食べて、ビール片手にスタンバイ出来る余裕はあるな」
ケンジはそう言いながら工具を持つと、手早く裏蓋を開けて電池を取り出した。
続いて時計に合った電池と新しいパッキンを棚から取り出し、それらを嵌め込んで裏蓋を閉じる。
裏蓋のネジを締める際、精密ドライバーを介して左手の指先に伝わる感覚に、ケンジは完全に密閉された事を確信し、僅かに口元を釣り上げた。
キズミで細かく見た後、ケンジは裸眼で更に確認すると、乾式試験機*33にそっと腕時計を置き、蓋を閉めるとレバーを引いて完全に密閉させた。
スイッチを入れるとコンプレッサー*34の低い唸りが部屋に響く。
ケンジは立ち上がると首に掛けていたタオルを放り投げ、エプロンを身に付けた。
そのままバフモーター*35のスイッチを入れ、綿バフ*36には白棒を、ネルバフ*37には青棒*38を擦り付けるとスイッチを切った。
回転していたバフモーターの風を切る音が止むのと同じタイミングで、乾式試験機のブザーが鳴る。
ケンジは緑に光るPASSの文字を見ることもなくレバーを操作し、蓋を開け腕時計を取り出した。
バフモーターのスイッチを再び入れ、綿バフで腕時計を磨いていく。
多角形で構成された腕時計の精巧なエッジを崩さぬよう、ケンジはバフと腕時計の面を完璧な平行で研磨していく。
左手の指に伝わる振動と熱を感じ、ケンジはネルバフの方に移ると、優しく撫でるように更に研磨を続けた。
頃合いを見て腕時計を離して一度机に置き、手袋を装着してセーム革*39で研磨剤の微粒子を優しく拭い取った。
文字盤を縁取るステンレスは本来の輝きを取り戻し、鏡となったそこにはケンジの双眼が覗いていた。
仕上がりに満足したケンジは、エプロンを外して放り投げたタオルを再び首に掛けた。
「ガイア、ドローンで配送しておいてくれ」
「了解。」
ケンジは窓辺に置かれたドローンの積載ボックスに時計を入れ、部屋を後にした。
リビングへ辿り着くと、冷蔵庫の中からラーデベルガー*40を二本取り出す。
一本の瓶蓋を義手の前腕に引っ掛けて外し、弾かれた瓶蓋をキャッチするとラーデベルガーを口に流し込んだ。
爽快な炭酸とホップの香りが鼻から抜ける。
再び冷蔵庫を開けてチョコミントアイスを取り出し、スプーンを食器棚から取って口の端に加えた。
「何か飲むか?フレイヤ」
ケンジの問いかけに、ソファで寛いでいるフレイヤがこちらも見ずに無言でグラスをこちらに掲げる。
グラスの中には琥珀色の液体が揺れていた。
揺れる赤毛の向こうに、ローテーブルの上に置かれたレッドブレスト*41が見えた。
ケンジはそれを確認すると、アイスとラーデベルガーを持ってソファに身体を勢いよく沈ませた。
「始まるわよ」
そう言ったフレイヤの視線の先、光るモニターの中では派手な衣装を着た司会者が意気揚々とマイクを掲げていた。
「さぁお待ちかね!コア・グローブ・コンバット、グランプリ準決勝!今夜ベルトを持ち帰るのは一体どちらの選手になるのか?!」
司会者の続くマイクパフォーマンスを聞きながら、ケンジはやけに静かなことに気がつき、視線をフレイヤとの間にいるユキに移した。
食べ終わったアイスを抱えてスヤスヤと寝息を立てているユキ。
そんな姿を見たケンジは微笑むと、起こしてやろうと手を伸ばす。
「ケンジ。起こしてはいけない。」
「なんで?」
「睡眠の阻害は成長期の子…」
「良いだろ、ユキは見たがってたし。ここで起こさないと、なんで起こしてくれなかったの?!お父さん嫌い!って言われちまう」
ガイアの言葉を遮って、ユキの声音を真似、甲高くケンジが言った。
「非効率。この中継はリアルタイムで配信化される。睡眠をとった後で見ても差異は少ないはずだ。」
ガイアの言葉に、ケンジは深くため息をつく。
「わかってないなぁ、ガイア。フレイヤ、どう思う?」
そう言ってケンジは赤毛の妻を見やった。
「私はガイアに賛成よ。ユキはまだ成長期だし、配信で明日見れば良いもの」
妻の言葉にケンジは両手で顔を覆った。
モニターの中では、すでに選手達への短いインタビューが始まっていた。
「家族で見る、ってのが良いんだろ?!久しぶりに帰ったお父さんはそうしたい!そう!したい!!」
モニターを横目に駄々を捏ねるケンジ。
「…お父さんうるさい…」
ケンジの駄々に起きてしまい、眠たげに目を擦るユキが呟く。
「ごめんなさい…」
エリクソン家序列最下位のお父さんは力無くそう言って項垂れる。
モニターの中では、リングの下から生えるように二体の人型ロボット、シンクロイドが迫り出してきた。
一体は派手なペイントと企業ロゴが多数貼られ、光り輝くネオンで鎧を再現したシンクロイド、ネオン・サムライ。
もう一体はソリッドな形とジャーマングレーを基調とし、企業ロゴも最小限に配されたシンクロイド、アイアン・ヴォルフ。
「さぁさぁ!今回もベテランのゲオルグ選手の操るアイアン・ヴォルフがベルトを持ち帰るのかぁ?!それとも新進気鋭!今まさにノリにノッているタカシ選手の操るネオン・サムライがそのベルトを奪い去るのかッ!!どちらが勝っても会場は盛り上がる事間違いナシ!!」
司会者が捲し立てる中、いそいそとスタッフ達がVRスーツを着た選手とシンクロイドを繫いでいく。
繋がれたシンクロイドは選手の動きを完璧に追従し、四者は動きを確認するように柔軟とシャドーを繰り返す。
「ネオン・サムライ!!頑張れ!」
お気に入りのシンクロイドに鼻息を荒立て、小さな拳を握るユキ。
「ユキ。もう寝る時間だ。睡眠の不足は…」
「もう起きたんだから良いだろ。それに過保護は嫌われるぞ、お兄ちゃん」
ガイアをからかうようにケンジは言った。
そんなやりとりの最中、モニターからゴングが鳴り響いた。
ゆるく構えるアイアン・ヴォルフに、ネオン・サムライが勢い良く迫り、一試合で一度切りの技、エイペックス・ストライク*42を一打目で炸裂させる。
ネオン・サムライが初期の試合で使っていた手!最近見ないと思っていたらアイアン・ヴォルフに使う為に封印していたのか!
ケンジの思考を散らすように、モニターの中で火花が散った。
鋼鉄を穿たんと炸薬によって迫り出したタングステン*43の拳。
しかし、その拳は展開されたコア・シールド*44によって完全に防がれていた。
初手で使用されたエイペックス・ストライクと、それを防いだ事に沸き立ち、拳を振り上げる群衆とエリクソン家。
その盛り上がりを糧に、アイアン・ヴォルフが攻め立てる。
全てのコア・シールドを展開し、ネオン・サムライが守りを堅める。
「負けないで!ネオン・サムライ!」
ユキの悲痛な叫びがエリクソン家にこだました。
叫びが届いたのか、ネオン・サムライがアイアン・ヴォルフの攻撃を弾き、振るった拳が顎先を掠めた。
VRスーツを通した衝撃によって、よろけたような姿勢になるゲオルグ選手とアイアン・ヴォルフ。
しかし、その拳はネオン・サムライの懐にあてがわれていた。
通常の攻撃のように振りかぶる必要の無い、エイペックス・ストライクが炸裂する。
タングステンの拳が鋼鉄をかき分けながら突き進み、ネオン・サムライのエネルギー・コアに到達。
勢いは止まる事なく、エネルギー・コア*45を拉げながら更に突き進むと、背中を突き破った。
背中から火花が血飛沫のように散り、油圧系から規則的に溢れたオイルが白いリングを汚す。
拉げ、吹き飛んだエネルギー・コアがリングの端に転がり、ネオン・サムライの鎧を模したネオンが光を失った。
鳴り響く勝利のゴングに拳を振り上げて沸き立つ群衆。
エリクソン家ではユキが膝をついて悔しがり、ケンジとフレイヤの夫婦は湧き立っていた。
「あたしの…ネオン・サムライが…」
「ネオン・サムライが弱いわけじゃない、相手が悪かったんだ。運が悪ければ、初手でアイアン・ヴォルフは負けていただろうさ」
ケンジは、慰めるようにそう言ってユキの頭を撫でる。
「そうよ、アイアン・ヴォルフは歴戦の選手、相手が悪かったわ。それにネオン・サムライはルーキー、まだまだこれからよ」
そう言ったフレイヤが手を叩くと続ける。
「さ、もう寝る時間ね。お母さんはお風呂入るからそれまでにちゃんと寝る事、いい?」
「うん、わかった。おやすみなさい、お母さん」
「おやすみ、ユキ」
フレイヤは、未だ眉を八の字にしたユキの額に口付けをし、優しげに髪を撫でると風呂場へと向かい、去り際に後はよろしく、と言った具合にウィンクをすると去って行った。
「さぁユキ!今夜はお父さんの子守唄がリバイバル予定だぞ」
「えぇ…」
明らかに嫌そうな声音と共に更に眉尻を下げるユキ。
「そんな嫌そうな顔するなって、お父さんの子守唄そんなに嫌か?」
「うん、下手くそだもん…」
正直なことは良い事だ。でも正直過ぎるぞユキ。お父さん泣いちゃう。
心中でそう叫ぶと、ケンジは苦笑を浮かべながらユキの手を引いて寝室へと向かった。
ベッドに収まるユキに子守唄を聞かせ、うなされて眉間に皺を寄せる額に口づけをし、ケンジは彼女の寝室を後にした。
「ケンジ。最早これは虐待になるのでは?」
「そんな事ないだろ!これは親子のコミュニケーションだ!きっとユキも大きくなったら懐かしむ日が来る筈さ」
「そうだといいが。」
ガイアの心配を無視してケンジは自身の寝室へと向かい、ディスプレイ端末を義手から取り外し、義手も外してナイトテーブルの上に置いた。
程なくすると、風呂から上がったフレイヤが寝室に入ってきた。
「良い湯だったか?俺の出汁湯は」
ケンジの言葉に、フレイヤは不愉快そうな表情を隠さずに出した。
「ユキのだけで十分よ。私が結婚相手でよかったわね、それとも別の人がいいのかしら?」
「冗談だって、悪い悪い!俺には君だけなんだ!」
ケンジはベッドの上で飛び跳ね、日本の伝統芸、土下座の姿勢をとった。
「ふふっ、冗談よ。さ、もう寝ましょう」
微笑を浮かべるフレイヤを、迎え入れるようにケンジは掛け布団を開け、自身もその中へ潜り込むと照明を消した。
「おやすみガイア」
「おやすみケンジ。フレイヤ。」
おやすみの挨拶をし、ガイアの端末も消灯する。
仕事の疲れで疲弊した身体をベッドへ預けると、フレイヤが胸に抱え込むようにケンジを抱き寄せ、頭を撫でてくる。
数日帰らなかった日はいつもこうだな。
聞き馴染んだ心音、そして甘やかな香りが鼻腔をくすぐり、安心感に包まれる。
体温だけではない暖かさが、身体を通して伝わる。
「いつもありがとう」
「お互い様よ」
いつもの会話、帰るべき場所に帰ってきたと強く実感し、ゆっくりと目を閉じる。
「フレイヤ、愛してる」
「私も愛してるわケンジ、おやすみなさい」
心地よい暖かさに包まれながら、ケンジは沈み込むように眠りについていた。
1-4注釈
*26CGC
コア・グローブ・コンバットの略。リニアシティのみならず、世界中で流行しているボクシングのようなスポーツ。VRスーツを着てシンクロイド*28を操作する。各所にセンサーが取り付けられており、基本ポイント制であるが、エネルギー・コア*45の破壊も勝敗を決める。回数制限のあるコア・シールド*44と、一度限りのエイペックス・ストライク*42が勝敗の決め手。
*27ナックル
シンクロイド*28の俗称。主に賭博場で使われている隠語。
*28シンクロイド
CGC*26で使用されるロボット。有線で繋がっているVRスーツを介してパイロットの動きを追従する。VRスーツには衝撃の度合いによって痛みと衝撃がフィードバックされる。打撲は当たり前、たまに骨折者がでる。
*29チョコミント
歯磨き粉アイス。
*30エングレーブ
金属や石、木などの硬い表面に文字や模様を刻印したものを指す言葉。
*31 MCグラス
マルチ・センサー・グラスの略。ケンジの仕事道具の一つ。たくさん機能があってヘルメットに搭載されている。でかい。重い。
*32キズミ
単眼ルーペ。時計職人や宝石鑑定士が使用するもの。眼窩に挟んで使う。
*33乾式試験機
水を使わずに機密性や防水性能を検査する機器。水没リスクが無い。
*34コンプレッサー
気体を圧縮し、圧力を高めて連続して押し出すもの。色々なものに使われている。
*35バフモーター
金属、貴金属などの表面を研磨、鏡面仕上げにする為のモーター。
*36綿バフ
綿で出来たバフ。研磨剤を使用し、研磨や艶出しに使われる。
*37ネルバフ
綿バフ*36と同じコットン製であるが、より柔らかいネル生地で出来ている。最終仕上げに使われるバフ。
*38青棒、白棒
コンパウンド、研磨剤。棒状の研磨剤でバフに擦り付けて使う。白棒は#1,000〜#2,000相当の番手が一般的。青棒は#6,000〜#8,000の番手が一般的。白棒が荒め、青棒が仕上げ用。
*39セーム革
鹿や羊などの皮を油でなめしたもの。柔らかくて吸水性抜群。人口では再現不可能な超微細なコラーゲン繊維を持ち、傷つけずに汚れや水気を拭き取れるもの。
*40ラーデベルガー
ドイツの最高級ビール。王室御用達。ケンジの母から送られてきたもの。
美味しいらしい。
*41レッドブレスト
アイルランドはミドルトン蒸留所で作られる最高峰のアイリッシュ・ウィスキー。英国の国鳥でもある、胸の一部が赤いコマドリの名前が冠されている。美味しいらしい。
*42エイペックス・ストライク
CGC*26の試合で一回限りの必殺技。右腕の肘から先をエイペックス・ストライク・ユニットと言い、どのシンクロイド*28も共通のもの。炸薬が内蔵されており、その爆発によって右腕を高速射出する。整備不良によって、試合中に破損した場合でも交換は許されていない。
*43タングステン
硬い、重い金属。カッコいい。融点が金属の中で最も高い。カッコいい。
*44コア・シールド
高密度プラズマ膜部よって運動エネルギーを減衰させる装置。盾のように使われるが、弾くというより減衰させて逸らすように使われる。プラズマ膜に物体が触れると、物体の表面が熱、光、衝撃波に変換、拡散される。広く使われている技術で、CGC*26では個数と位置の規定があり、一般のものより強力ではあるが出力できる時間は限られている。
*45エネルギー・コア
シンクロイド*28のコア、電源。これを破壊すると無条件に試合に勝利できる。胸の中央に露出するように配置されているが、鋼鉄の檻阻まれているため通常のパンチでは破壊が難しい。無論破壊は可能であるし、コアへの打撃は高ポイントな上にパイロットへのダメージ(衝撃)も大きい。エネルギー残量によって光のパターンが変わる。カッコいい。
1-5
翌朝、ペコリーノがたっぷり挟まれたパニーニを詰め込んだ重い身体で、フレイヤとユキを美容院へと連れて行くと、ケンジは自宅のガレージへと戻った。
「さあ、愛車との逢瀬の時間だ」
シルバーのボディに朝の光が滲んでいた。
ケンジはバケツに水を汲むと、スポンジに石鹸を含ませ、ルーフから順に撫でていく。
本来FRP*46だが、ケンジの制作したレプリカのコルベットは特殊金属製。
その圧巻のボディラインを確かめるようにゆっくりと撫でる。
「非効率。前回の洗車から…」
「分かってる、それでもやるんだよ。彼女の相手もしてやらないと可哀想だろ?」
ガイアの言葉を遮り、ケンジは笑った。
「無理解。車両を女性と認識しているのか?」
抑揚は少ないのに困惑が伝わるような声音でガイアが言った。
「そうだよ、車好きの間では普通の事さ。それに、船だったりも女性の名前をつけたりするだろ?それと一緒さ」
「あれは荒波からの庇護の為や。愛する妻の名前をつけたりしたものだ。君はフレイヤの名前をこの車につけたりはしていな...」
ガイアの言葉を遮るように、右腕のディスプレイ端末が振動と共に光った。
「ケンジ。新人から通話だ。」
ガイアが新人と呼ぶ相手、チャドウィック・ウィリアムズ*47という、同じシード技術部門の若者だ。
「チャドからか、繋いでくれ」
ボタボタと水が滴るスポンジを持ったまま、ケンジは応答した。
「よぉ兄貴!昨日帰ったところだろ?お疲れ様!今日暇か?バスケでもどうだ?」
若い青年の弾けるような声が耳に飛び込んでくる。
「悪いな、今日は無理だ。フレイヤとユキを迎えに行かなきゃならない。その後はゆりかごの見物に行く約束なんだ」
美容院に向かう際、ユキからゆりかごを見たいと言われてしまったケンジはそう言った。
「そっか、残念だな!じゃあ明日は?」
「明日なら行けるぞ」
「よし!じゃあ明日バスケ…」
「ダーツにしよう」
ケンジが遮ると、通話の向こうで間があった。
「…ダーツ?なんでまた?兄貴にしちゃ、やけに大人しいスポーツじゃないか?」
「いやぁ、前回も前々回もバスケ、だろ?そろそろ飽きたんじゃないか?なぁ?」
再び、通話の向こうで間があった。
「...はーん。なぁ兄貴、俺に勝てないからだろ?どうだ?」
「…いいや?そんな事ないが?」
図星を突かれたケンジは努めて冷静にそう言った。
「本当かぁ?まぁいいや。じゃあ明日ダーツな!それとテオ*48も誘っていいか?美術館に引き篭もる前に引っ張り出すから」
テオも来るのか?なら余計にそろそろ大人の威厳を見せてやらねば、負けっぱなしは性に合わないからな。
ケンジは内心でそう呟いた。
「テオもだな。オーケー、もちろんだ。じゃあ四人でやろう」
「四人?兄貴とテオと俺で三人じゃないか?」
「俺の左手と右手で二人分だ」
一瞬の沈黙の後、チャドが噴き出した。
「右手って、ガイアの事か?!」
「そうだ。利き手の左と、相棒の右で参戦する」
見られているわけでもないのに厚い胸を張ってケンジはそう言った。
「おいおい、ガイア!お前ダーツできるのか?」
チャドがガイアに直接呼びかけた。
「できる。投擲角度と力加減の最適解を〇・三秒以下で算出可能だ。」
そんな事出来るのか?一位になりそうになったら邪魔してやろう。
「強ぇ…おいおい、てかそれ反則じゃないか?なぁ兄貴」
「...ハンデだと思え。それにお前だって毎回バスケで俺をボコるだろ」
「ハハッ!それもそうか!兄貴は鍛え過ぎてて身体の動きが重いからな!わかった、楽しみにしてろよ!」
通話の向こうから手を叩くような音が聞こえた。
「おい、重たくはないだろ!この年齢にしちゃ動ける方の筈さ!俺の動きが重いんじゃなくて、お前が速過ぎるんだよ。まぁ、楽しみにしてる。そうだ、バイクの方はどうだ?」
「おっ、聞いてくれると思ってたぜ。フレームの溶接が終わって、届いた兄貴のパーツも取り付けた。写真送ろうか?」
「頼む」
すぐに端末に画像が届いた。
ケンジはスポンジを置き、泡の付いた左手で端末を操作して拡大する。
溶接の跡を目で辿ると、きっちりと等間隔の溶接痕がそこにはあった。
美しい。もう二十年若かったら嫉妬していただろうな。
「上手いじゃないか!さすがだな、チャド!」
素直にそう思ったケンジは感嘆してそう言った。
「だろ?兄貴に教えてもらったおかげだ!次はタンクの成形だよな?」
「ああ、そこが一番の山場だ。スポーツレプリカのタンクは複雑だからな。時間を合わせて一緒にやろう」
「了解!楽しみにしてる。じゃあ明日ダーツな、兄貴!ガイアも容赦しないぞ!」
「非効率。挑発しても結果は変わらない。」
どこか張り合っているようにも聞こえる声音でガイアが応えた。
「ハハッ!そういうとこだぞガイア!じゃあな!」
通話が切れるとケンジはまたスポンジを手に取り、コルベットの側面を撫で始めた。
暫くの間愛車を撫でていると、ケンジの手が止まる。
「おっと...これはユキだなぁ...?」
そう呟いたケンジの視線の先には、ユキが描いたエキセントリックな落書きがあった。
「うん、良い出来だ!順調に上手くなっている!」
「ケンジ。君は甘過ぎる。親バカというやつではないか?」
「いいや?そんな事は無いはずさ!とにかく、この絵は残しておこう」
もっと上手くなったら、コルベットにピンストライプ*49でも書いてもらおう。そうすればこの車は親子での合作になる!
そんな夢物語を思い描きながら、ケンジは洗車を続けた。
「よし!ガイア、時間は?」
「美容院の予約終了時刻まで後二二分だ。」
「ちょうどいいな、そろそろ向かおう」
ケンジはスポンジをバケツに沈め、セーム革でボディの水気を手早く拭き取った。
仕上げにクロームパーツを一撫でし、鏡になったそこに写る自分の顔を確認する。
満足したケンジは、清掃道具をガレージの棚に納め、玄関に向かって愛車の鍵を玄関棚から取った。
玄関棚の隣にはいくつかの種目のトロフィー達が並んでいる。
その前に置かれた地球をバックにフレイヤと二人で撮った写真、そして家族三人が抱き合う姿が写るフォトフレームをそっとなぞり、玄関を後にした。
コルベットへ乗り込むと、ケンジは鍵を刺し入れセルを回す。
すると、眠っていた獣が猛々しく咆哮をあげた。
アイドリングを安定させる為、更に吹かすと振動がシートとハンドルを介して伝わり、エンジンが準備万端だと伝える。
スタンディングスタートさながら、咆哮と共にコルベットを走らせると車用レーンに入り、そのまま勢いよく加速、ギアを上げていくとシートに押し付けられるのを感じながら走り出す。
なんて事はなく、車用レーンに入った時点で自動運転になってしまった。
まったく、なんてつまらない世の中なんだ、宝の持ち腐れにも程がある。
リニアシティの基礎だったロケット発射場、あの広々とした滑走路でもなきゃ彼女の本気を引き出すことは出来ないんだろう。
そんなもどかしい気持ちになっていると
「非効率。こんなマシンパワーは現代に不必要。その上クリーンではない。」
コイツ、また生意気にも俺の心を読んでやがる。
「なんだよ何も言ってないだろ!」
思わずハンドルを叩き、身振りも交えて抗議をする。
「ケンジ。洗車後の走行でペダルを何度も踏む癖がある。自動運転に切り替わった時だ。確率は七...」
「はいはい俺が悪ぅございました!!」
いつものやり取りを終え、美容院へ辿り着くとちょうどユキとフレイヤが出て来たところだった。
ユキが小さな手のひらを大きく振っている。
ケンジは愛車を停め、助手席のドアを開けた。
「お父さん見て!さっぱり!」
飛び込んできたユキが犬のように頭を振り、ケンジがそれを抑えるように乱暴に頭を撫で回した。
「おう!良かったな!」
「ほらユキ、お母さん乗れないから」
フレイヤがそう言ってユキの手を引いた。
フレイヤが助手席に乗り込むと、その膝の上にユキが乗り込む。
「フレイヤも綺麗になったな」
「昨日までは違ったの?」
どこか試すように視線を向けるフレイヤ。
「いいや?いつも綺麗さ、出会った頃からずっとな」
ケンジはその視線を真っ直ぐに受け止め、笑顔でそう言った。
「出会った頃、そんな反応してくれたかしら?」
「いやぁ、あ、あの頃はだな..」
「あの頃は、なに?」
フレイヤの圧に、視線を逸らしたケンジは頬をポリポリと痒いた。.
「ふふっ、冗談よ。あの頃のあなた、女性より機械の方が好きだったものね」
そう言ってフレイヤが微笑を浮かべた。
そうだ、このイタズラっぽい笑顔を、俺は好きになったんだ。
「早くゆりかご行こうよー」
夫婦のやり取りに、頰を膨らませるユキ。
「悪い悪い、じゃあ行こうか」
ケンジはユキに応えるようにアクセルを踏み、港に停泊しているゆりかごへと向かった。
しばらく走ると、遠近感が狂いそうなほど巨大な純白の船体が、港の水面に静かに浮かんでいた。
慈愛級救助特化型空母の三番艦「仁愛」*50である。
三本の船体が水を裂き、中央から純白の球体が盛り上がっている。
その球体は、まるでゆりかごに揺られる卵のようだ。
そんな呑気な事を考えていたケンジの思考が、唐突に中断された。
「うおぉ!!」
周囲の車を含めて一斉に急ブレーキがかかり、咄嗟に助手席側を手で抑えながらハンドルに向かって頭突きをしそうになるのをなんとか堪える。
ケンジの右腕にあるディスプレイのガイアのアイコンが一瞬フリーズし、周囲のネットワーク機器が短く「チリッ」という音を立てて沈黙した。
その直後、頭上から制御を失った奉仕ドローン*51や広告ドローン*52が金属音を立てて落下、地面や車に激突して小さな火花と焦げた煙を立ち昇らせる。
リニアシティの象徴たるコロッサスの照明が一斉に消えた。
周囲の高層ビル群も例外ではなく、普段なら昼間でもわかるほど輝くリニアシティは、完全に光を失った。
何の前ぶりも無い突然の異変に、周囲の車に乗る人、歩道を行き交う人々がパニックに陥り悲鳴が響く。
刹那、破裂音と共に土煙を孕んだ突風が吹き荒れた。
「伏せろ!」
そう叫んだケンジは二人を抱えるように覆い被さった。
音の発生源を見ると、ヘリックスの麓に火を孕んだ煙の球体が出来ていた。
本来、上空へと向けられる電磁誘導補助装置*53が、その鋭利な先端を地へと突き刺していた。
ケンジの体内では、心拍数の上昇、全身の血流の加速とアドレナリンが分泌され、肉体が本能的に身の危険を感じている。
「ガイア!?」
応答は無く、ガイアの端末は暗く沈黙していた。
「状況を確認する!いいか?二人とも絶対に外に出るなよ!」
そう言って、ケンジは落下したドローンの煙を避けるように車から降り、凍り付いたような空を見上げた。
太陽は、青空の一角を熱で歪ませながら、まるで巨大な怪物が悲鳴を上げているかのように、不気味な茜色に脈打っていた。
沈黙していた右腕のディスプレイ端末が突然光を灯す。
そこにはガイアからのテキストが表示されていた。
ーケンジ、これは太陽嵐*54ではない。超大規模太陽フレア*55によるものだ。シードは完全に沈黙している。地球外の防衛線が破られた。ー
そのテキストを見やると、ケンジは車の中へと戻った。
「お父さん...」
ユキが不安で満ちた瞳を向けた。
「大丈夫だ、安心しろ!お父さんが何とかしてやる!」
ケンジは整えたばかりの赤毛をくしゃくしゃに乱すと、フレイヤへと視線を向けた。
エメラルドを写した瞳には不安の影が伺えたものの、芯の強さの宿る、母の瞳だった。
「ゆりかごへ向かおう!あそこなら、ちょっとやそっとじゃビクともしないさ!だろ?リュウイチもいるんだ、何か分かるかもしれない。ガイア!この車なら動くか?どうだ?」
ケンジはディスプレイ端末に向かってそう叫んだ。
ー動く可能性は高い。どちらにせよ。自動運転システムを干渉しないようにしなければならない。ー
ガイアからのテキストが暫くの間を置いて表示された。
普段の会話スピードからは、信じられないほど遅く感じたそのテキストを読むと、ケンジはドアノブに手を伸ばした。
「俺を誰だと?アナログの天才って言われてるんだぜ?それくらいなんて事ないさ!五分でやってやるよ!」
自身に鼓舞するようにそう叫ぶと、ケンジは開け放ったドアから飛び出した。
第一章『Motherboard』終了
1-5注釈
*46 FRP
ファイバー・レインフォースド・プラスチックの略。繊維強化プラスチック。軽い、強い。車の外装など広く使われているもの。
*47チャドウィック・ウィリアムズ
アメリカ出身の黒人の青年。姉と共にリニアシティ*13に来ている。愛称はチャド。ケンジの弟子で、共にシード*17の技術部門に所属している。好きなバイクメーカーはカワサキ。アナログ好きでなんでも自作する。料理とバスケが得意。ジョークが好きでよく喋る。
*48テオ
本名テオドール・ド・オメン=クリスト。フランス出身の青年。金髪。リニアシティ*13のロケット整備部門に所属している。チャド*47とはスクールの同期で仲良し。美術品、アートが大好きで、休日は美術館に入り浸っている。宇宙にまでアートを広げようとしている。
*49ピンストライプ
針の頭を並べたような極めて細い縦縞模様や、専用の筆を使ってフリーハンドで描く細い線のペイント技法のこと。1950年代のアメリカのホットロッドカルチャーから生まれ、車やバイクの外装に細い線で描く装飾アート。超カッコいい。
*50仁愛
2060年代に一番艦の「慈愛」が建造された慈愛級救助特化型空母の三番艦で、慈愛級は総じて「ゆりかご」という愛称で親しまれている。ゆりかごの所以は、甲板の中央にあるダンパー・スフィアの形状の為。仁愛は一番新しい艦艇。中央の主船体の両側に補助船体がある三胴体、トリマラン構造。
*51奉仕ドローン
都市の人々に奉仕する為のドローン。アーガス*16が操作している。困りごとを言うと助けてくれるよ!
*52広告ドローン
都市を彷徨くドローン。基本的に企業製で操作も企業のAIが管理している。許可の無いドローンはすぐにアーガスが奉仕ドローン*51を使って停止させる。認可もアーガスが行っている。
*53電磁誘導補助装置
ヘリックス*8に内蔵された電磁誘導を補助するための装置。物資を射出する時に空に向かって伸びるように展開される。光る、カッコいい。
*54太陽嵐
太陽フレアに伴って放出される、大量のプラズマ(荷電粒子)による現象。太陽フレアより遅れて地球に到達し、地球の磁場を揺らして送電網や電子機器に大規模な障害を引き起こす。フレアが"閃光"なら、太陽嵐はその後に届く"本体"にあたる。質量を伴っている為、地球到達までは数日かかる。
*55超大規模太陽フレア
太陽表面で発生する爆発現象。放出されるエネルギーは光速で届く為、発生から到達までは約8分。主にGPSや通信機器に影響を及ぼす程度であるが、今回の超大規模太陽フレアの規模は甚大な被害を及ぼしている。
