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<短編小説>ウェリントンの夜と朝

 私はとうとうウェリントンに到着した。空港の税関検査に時間がかかったため、ホテルに入ったのはもう夜遅い時間だった。私は、手頃な値段のホテルを依頼したつもりだったのだが、そのホテルのベッドはウォーターベッドになっていて、そのふにゃふにゃした揺れを不快と感じる前に、私は長旅の疲れから眠り込んでいた。

 翌日は十時に、迎えの車が来て事務所に向かう予定になっていた。日本とは時差があるため、ニュージーランド時間の十時は日本時間では七時だ。それでも私は、窓から差し込む朝の光を浴びて、早くに目が覚めた。前日の晩に朝食を依頼していなかったので、バスルームから水だけ飲んで朝食代わりとした。特にお腹は空いていなかった。機内食を食べていた上に、これから一人で暮らすウェリントンの生活に向けて、食欲がわくような余裕はなかった。

 前夜は真っ暗で見えなかった窓の外を、外から聞こえる音につられるように見てみると、大勢の通勤する人たちが見えた。初めて見るニュージーランドの、ウェリントンの街をしばらく眺めた。ここではいつもの日常がいつもと同じように始まっている。しかし今の私は、日常の生活から一時的に外れた状態にいる。いわば宙ぶらりんの状態だ。それでも、今日の午後からは日常の生活に強制的に戻されることになるだろう。私の海外での仕事は、私の宙ぶらりんの状態を良くも悪くも待ってくれないから。

 今私が、この小さなホテルの部屋にいる宙ぶらりんの時間は、もしかすると束の間の異世界体験なのかも知れない。この異世界体験がずっと続いても面白いな、と私は考えた。また、もしも私が今すぐこの場所から消えてしまったとしても、誰も気づくことはないと思う。異世界に私がいるのであれば、恐らく現世界での私の存在はなくなり、最初から私はいないことになるからだ。そうはいっても、現世界には、昨晩遅くに日本人らしい男が宿泊して、ベッドを使った後が残ってしまうだろう。しかし、そうした現実の証拠があったとしても、昨晩以来私が会った人はかなり少数だから、恐らくそれは従業員の勘違いであり、またベッドの使用跡も従業員のベッドメイク忘れだと言うことで、簡単に済ますことができる。オークランド空港のニュージーランド入国記録やウェリントン空港の税関通過記録も、職員の間違いとして処理されるはずだ。そうだ、もしかすると私が成田から飛行機に乗った瞬間から、私のどこでもない場所――異世界――に向かう旅が始まっていたのかも知れない。

 この「異世界」という言葉が私の頭に浮かんだとき、窓の外の景色が先ほどまでとは急に違ったものに見えてきた。私の記憶が正しければ、私は今ウェリントンの街外れにある小さなホテルの部屋にいて、時間は朝の九時過ぎのはずだ。昨晩腕時計の針を、時差を考えて調整したから、よほど時計が狂っていない限りは、これは正しいはずだ。しかし、窓の外を見れば見るほど、何かが違っているという気持ちが強くなっていく。やはり、私は予定していたところとは違ったところに到着してしまったのかも知れない。そうした確信が増していくうちに、昨晩ウェリントン空港に到着するまでのことが、映画を観ているように脳裏に次々と浮かんできた。

 ウォーターベッドの上で、どこからか遠く飛行機のエンジン音が聞こえている。

 五月下旬の成田空港は、ゴールデンウィークを過ぎたこともあり、利用客は少ない。いつも見かける団体旅行客の集団は見当たらず、空港でうろうろしているのは個人の旅行客ばかりだ。私は、見送りに来た家族に別れを告げて、係員に急かされながら搭乗口に向かった。実は、家族との別れを惜しんでいる間に、搭乗時間が来てしまっていたのだ。その時に困ったことがひとつあった。親戚の一人から花束を渡されたのだ。常識のある人ならわかると思うが、どの国でも動植物検疫があるため、海外から許可なく花束を持ち込むことはできない。

 よく芸能人などが海外旅行するときのニュースで、花束を贈る映像が流れるが、あれは予め設定されたセレモニーであって、もらった花束はその後適当に空港内で処分される。そんなことは全く知らない親戚は、仰々しく私に花束を贈ってくれたのだ。仕方なくもらってしまった私は、さすがにその場で花束を処分するわけにもいかず、所在なく機内に持ち込んでしまった。搭乗時間を過ぎていたため、係の人が無理矢理私を通してしまったのが、機内に持ち込めた理由だった。

 そういうわけで、私は扱いに困るゴミでしかない花束を抱えて、飛行機の座席に座った。成田からニュージーランドに向かう搭乗客は少なく、私は窓際の席に一人で座ったので、しばらく見ることもない日本の風景――成田空港の風景――を眺めていた。空港ビルで、これから私の乗った飛行機の飛び立つのを待っている家族のことまでは、私には思い浮べる余裕はなかった。これからしばらくの間日本に帰れないことの悲しさを、身体中で噛みしめるだけで精一杯だった。そうして、間もなく飛行機は離陸した。私が勝手に感情移入していた日本との別れは、ほんの一瞬で終わった。

 ウォーターベッドで寝がえりをうつと、ベッドが必要以上に激しく揺れた。まるで、飛行機の中で乱気流にあったときのような感じだった。

 成田からニュージーランドへ出発する日までには、少なくない時間があった。私は独身だったから、荷物は少なく、スーツケースも二つで済んだ。ただし、勤務先から無理矢理預けられた荷物が沢山あったが、海外転勤を依頼している旅行会社が適当にやってくれると思って安心していた。一方東京の事務所には、私の居場所はもう無くなっており、後任の者が私の仕事をしていた。私は、出勤する必要はなく、かといってまだニュージーランドに着いていなかったので、もう残り少ないのだと自分に言い聞かせながら、日本の最後の日々を過ごしていた。私は、出勤することはなく、旅行することもなく、ただ家にいて、その頃熱中していた漫画をひたすら読んでいた。他にやりたいことが何も思い浮かばなかったのだ。

 「何もない時間」、「中途半端な時間」というのを、私は生まれて初めて長く経験した。例えば、中学の卒業式を終えて、四月の高校の入学式までの短い期間などは、そうした時間かも知れなかった。しかし、次の未知の世界に対しての不安と期待が大きかったことに加え、さらに「どうせ中学生活の延長だろう」という気分もあって、そうした中途半端な感じはあまりしなかった。ところが、今のニュージーランドへ向かうこの半端な時間はなんなのだろう。それまで、学校や職場で必死に毎日時間に追われるようにして生きていたのに対して、次の海外の勤務地に到着するまでの期間は、独身であった私にはあまり準備することもなく、ただ毎日時間が過ぎるだけという「何もない」「中途半端」な期間になっていた。

 そうした中で、私は、「日本の楽しい、ぬるま湯の生活はもうすぐ終わる」、「これからは、海外での一人暮らしとなり、何もわからない中で毎日生活していかねばならないのだ」という、どこか切なく、そして切羽詰まった気持ちになっていた。しかし、だからといって特別なことをするわけでもなく、また特別なことが思い浮かぶわけでもなく、ただいつもと同じようにいつもと同じことをしていた。そうして過ごす時間は、何か自分の寿命が止まっている、あるいは自分の命の炎が小さくなっている、そんな感じがする時間でもあった。

 時差の関係か、夜中に目が覚めた。トイレに行った。ホテルもその周囲もひっそりと静まり返っている。音がするのは自分が立てるものだけだ。

 海外勤務が決まった後、私の周囲は私以上にそわそわし出した。よくあるパターンは、それまでつきあっていた女性とあわてて結婚を決めるようなことだったが、私にはそのような女性はいなかった。そうしたことから、まず母親が心配した。海外に数年も行ってしまえば、女性と知り合う機会がなくなるため、結婚が遅れるのではないかと心配したのた。そのため、私は母の知人を通じて、教員をしている女性と見合いをすることになった。人生で生まれて初めての見合いだったが、正式なものではなく、自宅近くのとんかつ屋で先方の母親(私と同じ母子家庭だった)と私の母、そして私の四人で食事をしたのだ。

 そのとんかつ屋はなかなか美味しいと評判の良い店で、ボクシングで活躍していた人が営んでいる店だった。そのため店の選択は悪いものではなかったと思うのだが、何よりも先方の女性にまったく見合いをする気持ちがなかった。教員ということから、おそらく自立心と自尊心が非常に強いのだろう。自分から話すことはほとんどなく、また食事を楽しむこともなく、ひたすら私の挙動を監視し、その結果を自らのご飯茶碗に米粒をひとつずつつけていく行為で、「採点(減点)」していた。もちろん、そうした見合いが成功するわけはない。

 双方ともにその後連絡を取り合うこともなく過ごしていたところ、母親から先方の女性に電話するように勧められた。私は母親の要請に対して無理に反対する必要もないので、夕飯が済んだ後に電話して、どこかで再会したい旨を伝えた。もともと私としてはそんな気持ちはなかったので、先方にもそうした消極的な気持ちが伝わったのかも知れない。先方の女性は、見合いの時と同様に一方的かつ強い拒絶をひたすら繰り返したので、私はそれ以上言葉を継ぐことはせずに電話を切った。そして、その状況を母に伝え、母は先方の母親に伝えて全ては終わった。

 この時はこれで済んで良かったのだと思う。もし私が無理して、また先方も無理して結婚などしてしまったら、絶対に性格は合わず、争いばかりしている家庭になることは確実だったから、話が進まなくて良かったのだ。先方は私を「変な男をふってやった」と吹聴したことだろうが、私にしても不要な不幸を招かないで済んだのだった。

 そうして私が最初の見合いに「失敗」した後、職場の友人が、自分の高校の同級生を紹介してくれた。その頃私は同好会的な低レベルのラグビーをやっていたので、一度試合に招待したことがあったが、生憎と前日の雨がグランドに残ってしまい試合は中止になった。そのため、グランド近くの居酒屋で、ラグビーをする予定であった友人たちとともに歓談した。それが見合いと言えば見合いのようなものだったが、この時は先方の女性は前の教員のような拒絶反応は見せていなかったので、もしも私が積極的に話を進めていれば見合いに「成功」したのかも知れない。しかし、その時の私には、結婚まで考える気持ちの余裕は既に無くなっていた。新たな海外生活に際して、自分がどのようにすれば良いのかで精一杯だったのだ。そうした自分自身ですらどうなるかわからない状況で、自分に頼ってくることが確実であるもう一人の人間(妻)に対して、自分がきちんと対応できるという自信は全くなかった。

 それでも、私は友人から進捗状況を聞かれたので、一回だけ公衆電話からその女性に電話したのだが、その会話が進展することもなく、またそこから先に何かが進むことはなかった。また先方の女性からも何か動くことはなかったから、やはり私は見合いに「失敗」したのだと思う。そうしてそのまま時間だけが過ぎていき、友人は自分が紹介したことを自然と忘れていった。果たしてこれが正解であったのか、あるいは間違った選択肢だったのかはわからない。最低限言えることは、その女性を私の苦難の人生の巻き添えにしないで済んだことが、その女性にとっても私にとっても良かったということだった。

 ウォーターベッドで寝ていると、まるで自分が海の中に浮かんでいるように思えてくる。しかし本当の海であれば、私はとっくに海の底に沈んでいることだろう。しかし、身体に水の冷たさを感じることもなく、また水の流れも聞こえない。・・・いや、どこからか水が流れている音が聞こえている。この音はなんだろう?

 いつものように朝一番に事務所に出勤して、課内に新聞を配り、課長から渡された新聞の切り抜きをファイルに入れて渡した。これで私の朝の仕事は終わる。自分の机に座って、新聞記事を読んでいると、私が就職した時に最初に世話してくれた人が、私の名を突然呼んだ。その人は、私が仕事を始めた一年ほど後にフランスへ転勤していたのだが、三年経った今日本に戻ってきて、今度は課内の二番目の序列に昇進していた。元の課に栄転してきたその人は、私が五年も同じ課にいて、また同じ仕事をしていることが異様であると考えたようだ。その人の前任者が「君は仕事が出来ないからね」といって否定した、私の海外転勤の希望を叶えたいという話を、その人は私にしてきた。

 私は、もう半分諦めていた自分の待遇について、突然光明が差してきたように思った。そして、だめで元々だと考えて、同期がちょうど転勤時期に来ているニュージーランドへ、彼の後任として行きたいと伝えてみた。すると、意外にも私の希望を人事課に伝えてくれて、さらにもっと意外にも人事課はその依頼を承諾して、私の希望が実現することになった。既に同期が仕事をしているニュージーランドへ、後任ではあっても行けることは、ラグビーが好きな私としては、願ったり叶ったりだった。

 私は、その日は定時で自宅に帰り、母に海外転勤が決まったことを伝えた。母は無言だったが、とうとうこの時が来たのかという表情を見せていた。これから二ヶ月後に、私は日本を旅立って、ニュージーランドで独り暮らしをすることになる。私はそのことだけを考えるのが精一杯で、息子を遠い外国に送り出す母親の気持ちまで考える余裕はなかった。そして私は、ニュージーランドへ行くための準備を少しずつ始めた。

 翌日はいつもどおりに出勤して、いつもどおりの仕事をした。まだ私の後任者が来ていいないからだった。仲間内からは送別会の話が出ていたので、そうした日にちを調整した。母からも親戚一同を招待した送別会の予定を聞かされた。しかし、私はそうしたことを少しも嬉しいとは感じなかった。私にとって、最も嬉しかったのは、五年間続いた日常を変えることができるということだった。私は、同じものが永遠に続くことに耐えられない性質だった。常に変化することが、私には必要だった。それを獲得できたことが何よりも嬉しかったのだ。そのうちに後任者が仕事場に来たため、最低限度の引き継ぎをしてしまうと、もう私の席は職場から消えた。私はその職場にとっては「過去の人」になったのだ。

 その時職場の同僚から言われたことは、「独身なら今のうちに結婚しておいた方が良い」、「日本にいられる間にやりたいことをやりきった方が良い」ということだった。しかし、私には結婚するような相手はいなかったし、また日本で何かやりたいと思うこともなかった。私の気持ちは、ニュージーランドに行ってラグビーをやりたいということで一杯だった。また、ラグビーをやることによって、学生時代に勉強しまた憧れたヨーロッパ文化を実際に経験したいということだった。

 ウォーターベッドの下の方で、水がざわざわと動くのを感じた。まるで潮騒が聞こえるようだ。
 
 ある年の五月の連休だった。私は、少ないボーナスで購入したオンボロ中古車を運転して、夜明け直後の東京の街を走っていた。空は徐々に明るくなってきたが、普段は物凄い渋滞になるはずの東京都心の幹線道路は、対向車を一台も見ることはなく、また赤信号で止まったのは私のオンボロ車だけという、まるで廃墟のような風景だった。誰もいない街とはこういうことかと私に教えるように、五月の連休の早朝の東京は静かに休んでいた。

 そのまるで教習所の練習のように無人と化した街を運転していった私は、新橋にある新聞集配所に辿り着いた。既に話はしているということで、私は事務所に配達予定の新聞の束を受け取って車の後部座席に積み込んだ。そして事務所に向かい、だだっ広い駐車場にポツンと一台だけ駐車して、新聞の束を抱えながら誰もいない事務所の部屋の鍵を開け、自分の机に置いた。

 五月の連休中の新聞記事は、ゴールデンウィークという日本中の人たちが旅行を楽しむ期間であることを、さかんに報道していて、どこそこの観光地に多くの人出があるということを面白おかしく記事にしていた。しかし、私の必要とするのはそうした社会面の記事ではなく、また野球ばかりのスポーツ面の記事でもなく、政治面と経済面の記事だった。そこにある、その時ドイツで開催されていたサミットに関する記事の全てが、私がその日の早朝から格闘すべき仕事だった。私は主要六紙にある記事の全てをカッターで切り抜き、それをA4版のコピー用紙にバランスよく割付しながら糊付けし、さらにコピー機でコピーして、表面をでこぼこのない状態にした。そして、全部で四十枚くらいになった厚い紙束を、事務所にあるFAXにセットして、送信を始めた。未だ海外との通信事情がよくない中で、FAX送信はたびたび中断し、私は何度も再送の作業を繰り返した。

 そのうち東京の夜明けの太陽は空に高く昇っていき、五月のさわやかな陽気を準備しだした。FAXのある場所から遠い窓の外を見ると、相変わらず街は静かだが、それでもときおり数台の車が通りすぎるのが見えた。もしかすると、あの車を運転しているのは、私と同じゴールデンウィークに仕事をしている人たちだろうか、と私がぼんやりと考えているときに、ようやくFAXの送信が終了した。幸いに祝日ということもあり、新聞は朝刊だけで夕刊はなかったので、その日の私の仕事はそれで終わった。TVでニュースを見ると、各地の観光地で楽し気に遊ぶ人々の姿が映し出された後、ドイツで行われているサミットの模様が簡単に流れていた。

 私は、もう用済みとなった新聞を整理した後、事務所に駐車しているオンボロ中古車に乗り、夜明けの東京を独占して走って来た道を、今度は昼前のけだるい陽気に浸る街中を逆戻りしていった。来るときとは違って、夜が明けてしばらくたった東京の街には、多くの車が走り出していた。さっきまで、安らかな眠りを得ていた街が、目を覚まして活動している姿だった。私は、自宅近くに借りた安い青空駐車場に車を止め、とぼとぼと自宅まで歩き、自分の部屋に戻って、畳の上に寝転んだ。頭の中では、サミットのニュースよりも、観光地で遊ぶ人々の姿が繰り返し映し出されていた。そして、気づかないうちに寝ていた。

 私は夜中に目が覚めた。まだ街は少しだけ動いていた。遠くから車の通る音、ホテルの通路を歩く人の話し声が聞こえていた。しかし、私は長旅で疲れていた。寝ることだけを私は求めていた。

 私は大学を卒業した後も就職が決まらなかった。そのため、以前アルバイトをしていた中央官庁に非常勤職員として潜り込ませてもらった。その時同じように非常勤職員をしている仲間が、国家公務員の中途採用試験があることを教えてくれた。彼が受験するというので、私も国家公務員(初級職)の試験を受けた。筆記試験はかなりできたと思う。その後に幾つかの官庁から面接の通知が来た。そうした面接の中で、「海外勤務できますか?」という問いに、「そのために希望しました」と答えたら、外務省への就職が決まった。これまでは全く遠い世界でしかなかった中央官庁に就職し、また子供時代から憧れた海外に住める仕事に就けることに、私は大きな希望と大きな不安を抱いて、社会人としての第一歩を始めることになった。

 私は熟睡していた。夢を見ていた。夢は直前まで日本にいたときのことだった。しかし、それは楽しくない夢だった。

 ある春の終わりに、父が死んだ。私は、高校の卒業式を終えていたが、大学入試に失敗して、この先一年の浪人生活を送ることを考えていた、その三月二十九日の朝、母の慟哭する声を聞いて狭い借家の隣室で目を覚ますと、そこには冷たくなっていた父がいた。父は腎臓病のため一年ちょっとの間入院生活をしていたが、人工透析をすることによって社会復帰(個人タクシーの運転手)をして、どうにか生活が安定しだした半年ほど経った時のことだった。それから私は、ただ泣き続ける母の傍で、救急車を呼び、救急隊員に死亡の確認をしてもらい、父母の親戚や友人に父の死を連絡し、かねて契約していた冠婚葬祭業者に連絡して父の葬儀を行った。私が火葬場から父の遺骨を抱えて家に戻ってきた後、しばらくの間母は、放心したように生きていた。私のたった一人の妹は、両親に反抗して近くの祖母宅に逃げていたので、狭く古い借家の中は、父の遺骨と魂の抜けた母と、これからの人生をどうやって生きるのかがわからなくなり、さらに自分も父と同じ年には死ぬのではないかと考えている、私だけがいた。

 私は夢にうなされていたのかも知れない。夜半にまた目が覚めた。トイレに行った。ホテルの周囲はすでに活動を終えているようだった。それでも、遠くから車の走る音が時折聞こえてきた。小雨が降っている音が聞こえる。

 私が、高校一年から二年までの一年間、父は飯田橋の病院に腎臓病で入院した。父の入院で生活費がなくなった我が家は、生活保護を受けた。その時、分不相応にも私立高校に通っていた私は、担任の先生と相談した結果、育英会の奨学金を借りることになった。それが私の退学をしないで済む方法だった。私は将来返還する義務があることなどよく理解しないで、先生の言うとおりに奨学金を借りることにした。奨学金をもらうための申請書に書いた理由を、確認のため母に読み上げたとき、母はしくしくと泣きだした。そうして、なんとか高校に通っていたある夏の日、私は、友達を連れて父の入院先へ見舞に行った。父はふだんと変わらずにベッドの上にいたが、私の来訪を喜ぶでもなく、また友人を連れてきたことに驚くでもなく、まるで看護師が定期巡回に来たように静かに対応していた。いや、その時の父は、病気により心神喪失に近い状態だったから、私が来たことにも気づかなかったのかも知れない。私と友人による父との面会は短時間で終わり、私と友人は互いに無言で病院を去り、そしてそのままお互いの家路についた。

 夢の中で雨が降っている。はじめはしとしとと降っていたが、やがて土砂降りの雨になった。ウォーターベッドで寝返りをすると、まるで地震にあったように身体が大きく揺れた。

 私は生まれてから最初の住処であった、東京下町の小さな松葉荘というアパートの暗い廊下にいた。電気代の節約で廊下には電灯がなかったため、昼でも暗かった。その暗い廊下の先は、小さな裏庭になっていて、洗濯用の物干し竿があった。夜になってからたまたまその裏庭を見たら、洗濯物を干している小母さんがいた。暗い中で作業をしている大人の姿は、私には別世界の住人に見えた。またある時は、アパートのヒューズが飛んでしまい、アパートの住人全員が暗い廊下に出て来て、外の街灯が入り込む玄関に集まっていた。そこには配電盤が設置されていて、住民の中の若い男の人が代表して、ヒューズを取り替えてくれた。簡単な作業ではあったが、配電盤や電気工事の知識がない、アパートの他の住人にとっては、その単純な作業がまるで魔法使いの技のように見えた。ヒューズがつながると、玄関の小さな電球に灯りが戻った。

 寝ている目の前が少し明るくなっている。どうやら朝が来たらしい。窓の外からカーテンを通じてまぶしい太陽の光がベッドの上に差し込んでいる。

 昭和三十四年の早春、東京の下町にある産院で私は生まれた。産院の待合室には、その当時は貴重だった白黒TVが置かれていた。妻の出産を待っていた夫は、所在なさげに煙草をくゆらせながら、TV画面に映し出された大相撲春場所十二日目の取り組みを見ている。横綱栃錦が大関琴ヶ濱を破った一番の後、ふとTVカメラが桟敷席を映すと、そこにはその日に生れたばかりの私が、六十余年経った老いさらばえた姿で座っていた。しかし、その日に生れた「老人」にしては、紫色をした肌は既に死人の様相に見えた。父は、そこにいる「老人」が、この日に生れた自分の子であることを知らない。

 魔女のような鼻をした初老の看護婦が、乳児を父に見せる用意ができたと呼びにきた。父は吸いかけの煙草をもみ消して、看護婦の後についていった。看護婦は、薄暗く曲がりくねった廊下をすたすたと歩いていった。その廊下は、父にはまるで迷路のように見えた。どうやら、ここでは時間軸と空間軸が激しくずれているようだ。いや、私たちは「ずれ」と言ってしまうが、本当は時間軸も空間軸も、人間が勝手に想像しているだけなのかも知れない。

 朝が来ていた。私は、ウォーターベッドの大きな揺れに閉口しながら、ベッドから起き出して、仕事用の服に着替えた。事務所からの迎えの車が来る時間だった。そして、昨晩入って来た部屋のドアを開けた。しかし、そこはホテルの廊下ではなかった。

 私は、なにかとても懐かしい場所に辿りついていた。それは、回想の中でも、夢の中でもなく、現実の世界だった。私は、東京の東の外れにある不釣り合いに立派な火葬場で、いままさに焼かれる寸前の花束に囲まれた自分の死体を見ていた。私は、自分の紫色した顔が、これまで一度も経験したことのないような大きな笑顔になっているのを見た。私は安心して、火葬場から消えた。やがて、火葬場の煙突からは黒い煙が立ち昇った。私の肉体はこの世からようやく消滅しようとしている。火葬場の上空を、成田から出発した飛行機が黒い煙をかき消すように通過していくのが見えた。その飛行機の胴体にある文字を読むと、そこには「Air New Zealand(ニュージーランド航空)」と書いてあった。たぶん、これからニュージーランドへ向けて長い旅を、捨てられない花束を抱えて、とてもとても長い旅をするのだろう。ヴォンヴォヤージュ(良い旅路を)・・・。



<私が、アマゾンのキンドル及び紙バージョンで販売している、短編小説集です。>


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きーやん(木下裕治) しがない年金生活の一方、健康状態の関係から身体を使う仕事は難しいため、趣味と実益を兼ねてnoteに様々な投稿をしています。皆さまからの私の投稿へのご支援をいただけることは、今後さらに多種多様な投稿を継続していくことにつながりますので、どうぞ宜しくお願いいたします。