<書評>『ヨーロッパ文学講義 ウラジーミル・ナボコフ』
『ヨーロッパ文学講義Lectures on Literature ウラジーミル・ナボコフ Vladimir Nabokov』 ウラジーミル・ナボコフVladimir Nabokov著 野島秀勝訳 TBSブリタニカ 1982年。 原著は、Harcourt Brace Jovanovich, 1980年

『ロリータ』の作家ナボコフによる、ジェイン・オースティン『マンスフィールド荘園』、チャールズ・ディケンズ『荒涼館』、ギュスターヴ・フロベール『ボヴァリー夫人』、ロバート・ルイス・スティーヴンソン『ジキル博士とハイド氏の不思議な事件』、マルセル・プルースト『スワン家のほうへ』(『失われた時を求めて』から)、フランツ・カフカ『変身』、ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』についての各講義と、「良き読者と良き作家」及び「文学芸術と常識」の二つの論文があり、ジョン・アップダイクが序文を書いている。対象とした作家と作品に加え、ナボコフ論文とアップダイクの序文という、二十世紀文学界の錚々たる内容である。
読み進むにつれて、これは元々大学で口述するための講義録または講義用ノートなので、普通の文学研究書のような肩肘張った小難しい雰囲気はなく、また難解難読の言葉の多用や引用がないため、非常に読みやすいと感じた。そして、本書を読んでいるだけで、実際にナボコフの文学の授業に出席して聴講している気分になってくるので、これはとても楽しい読書となった。その語り口や内容がすこぶる面白いのだ。ナボコフが、アメリカの大学で人気のある教授であったことがよくわかる。日本の大学で、ここまで面白い講義ができる教授や研究者を私は知らないが、そもそも二十世紀を代表する大文学者が講義をしているのだから、比較すること自体に無理があるのだろう。
そうした中で、ナボコフが指摘した文学研究の要点は、「そうだ、そうだよね」というものが沢山あって、これは自分が考えている文学論に共通するものでもあったので、非常に嬉しかった。特に作家の私生活と作品や文体とは関係ないという指摘(日本の文学研究は、やたらと作家の私生活の細部をほじくり出して、そこから作品の意図を読み解こうとするものばかりだ)は、私が常日頃思っていることであり、そのためナボコフが一流の作家かつ文学者であると確信する部分であった。また、文学研究という方向性に加えて、ナボコフの行う個々の作品に対する詳細かつ丁寧な分析は、これから小説を書こうとする者にとって、良い教材良いお手本になる内容であり、そのまま「作家入門」、「小説の書き方」などの本として出版できるものになっている素晴らしい講義録だと思う。
以上が全体としての感想であったが、各部分に目を向けると、「目から鱗」的な箇所が多々あった。本来なら、こうした各部分についての感想を記述した方が良いと思うのだが、ここで余計な感想を書くことは、ナボコフの優れた講義録に屋上屋を重ねるような野暮なことに思えたので、そうした箇所を紹介するだけで書評に代えることにしたい。また、通常私の視点を<参考>と称して付記しているが、上述のように、本書が講義録であることから、良く理解できる文章となっているので、なにも付記しないことにした。その代わり、私が特に感銘を受けた箇所の太字で強調したので、参考にしていただきたい。なお、引用だけでは理解できない語句などには(注)を付した。
P.5-7 「良き読者と良き作家」から
・・・まことに奇妙なことだが、ひとは書物を読むことはできない、ただ再読することができるだけだ。良き読者、一流の読者、積極的で創造的な読者は再読者なのである。・・・二度、三度、四度と読み直して、はじめてある意味では絵にたいするように書物にたいせるのである。
・・・小説はまずもって心に訴えるものだ。心、頭脳、ぞくそくする背筋の天辺にあるもの、これが小説読みに使える唯一の道具であり、またそうでなければならないものなのである。・・・芸術の達人は彼の作品を創造するのに想像力を使ったのであるから、本の消費者側も自分の想像力を使うというのが、当然であり、公平でもあろう。
・・・作品のある人物と一体になったような気持ちになること。このような低い想像力は、わたしが読者に使ってもらいたくないものである。では、読者が使うべきほんものの道具とはなにか?それは没個性的な想像力であり、芸術的喜びである。うち立てねばならぬのは、わたしの考えでは、読者の心と作者の心との間に調和した芸術的な均衡である。・・・わたしがいわんとしていることは、読者は自分の想像力を抑える時と場所とを心得なければいけないということ、そうするためには、作者を明確に把握しようと努める必要があるということだ。
P.8-9 「良き読者と良き作家」から
文学は、狼がきたと叫びながら、少年がすぐうしろを一匹の大きな灰色の狼に追われて、ネアンデールの谷間から飛び出してきた日に生れたのではない。文学は、狼がきたと、狼がきたと叫びながら、少年が走ってきたが、そのうしろには狼なんかいなかったという、その日に生れたのである。・・・途轍もなく丈高い草の蔭にいる狼と、途轍もないホラ話に出てくる狼とのあいだには、ちらちらと光ゆらめく仲介者がいるのだ。この仲介者、このプリズムこそ、文学芸術にほかならない。
文学は作り物である。小説(フィクション)は虚構(フィクション)である、物語(ストーリー)を実話(ツルー・ストーリー)と呼ぶのは、芸術にとっても真実にとっても、侮辱だ。全ての偉大な作家は、偉大な詐欺師だ、・・・<自然>のなかには、魔法と昨術の見事な体系が存在する。小説の作家はただ<自然>の導きにしたがっているだけなのである。・・・
作家を考える場合、三つの視点がある。物語の語り手として、教師として、魔法使いとして、考えられよう。一流の作家はこれら三つのもの――物語の語り手、教師、魔法使い――を合わせもっている、が、支配的なのは、彼を一流の作家たらしめているのは、彼の中にいる魔法使いなのである。・・・
偉大な作家はつねに偉大な魔法使いである。わたしたちが本当に感動的なるものと出会えるのは、ここだ。そこではじめて、われわれは彼の天才が織りなす独自の魔法をとらえ、彼の小説や詩の文体、イメージ、様式を研究しようと努めるのである。・・・
・・・賢明な読者は天才の作品を心や頭で読まず、背筋で読む。・・・わたしたちは芸術家がトランプ札で城を築くのを見まもり、そのカードのお城が美しい鋼とガラスの城に変貌しているゆくさまを見つめる。
P.130-132 チャールズ・ディケンズ『荒涼館』から
・・・作家の代弁者には三つの型がある。それを調べてみよう。
第一に、第一人称で語るかぎり、語り手は物語の大文字の「わたし」であり、物語を動かす軸である。語り手はさまざまな形で現れうる。作者自身であることもあれば、第一人称の主人公であることもある。あるいは・・・作家が一人の作者をこしらえて、彼の語りを引用するという場合もある。・・・
第二に、作者の代弁者の型、わたしはこれを物語の動かし手と呼んでいる。この物語の動かし手は語り手と同一人物であることもあれば、そうでないときもある。・・・自分の感情と観念をとおして物語を動かしてゆくのである。
第三の型は、いわゆるかたつむり(perry)といっていいものだ。多分これは“r”が二つあるにもかかわらずperiscope(潜望鏡)から由来したものだろう。・・・それは作者のお気に入りの人物のなかでも最下等の者を指す。・・・彼らの目的、彼らの唯一の存在理由は、作者が読者に訪れてもらいたいと思っている場所を訪れ、作者が読者に会ってほしいと思っている人物に会うことにある。・・・彼は単にあちこちを遍歴する一匹のかたつむりにすぎない。
P.165 チャールズ・ディケンズ『荒涼館』から
「この男は、ロンドンの西のほうの街に自然にはえる珍種の人間のかびの一つで、古びた赤い上着を着て待ちかまえ、人の馬のくつわを取ったり、馬車を呼ぶのを『使命』としているのであるが、二ペンスを受けとると、有頂天になるどころか、空中にほうり投げ、手を高くさし上げて受けとめるや、どこかにまた姿を消してゆく」。
このジェスチュア、「手を高くさし上げて」という形容語句をもったこのひとつのジェスチュア――実にささいなものだが――これで、この男は良き読者の心に永遠に生きることになるのだ。
偉大な作家の世界とは、まことに魔術的な民主主義の世界であって、そこではどんなに取るに足りぬ人物でも、二ペンスを空中にほうり投げるこの男のような、ことのついでに登場してくる人物でさえも、生き、そして繁殖する権利をもっているのである。
P.193 ギュスターヴ・フロベール『ボヴァリー夫人』から
・・・小説は小説なのだ。芸術はすべてまやかしである。フロベールの世界も、すべての大作家の世界と同じく、それみずからの論理と約束事と、偶然の一致をもった空想の世界にはちがいないのである。
P.264-5 ロバート・ルイス・スティーヴンソン『ジキル博士とハイド氏の不思議な事件』から
スティーヴンソンの最後について、一言いっておきたい気がする。すでにご承知のように、わたしは小説のことを話しているとき、人生問題に重々しくかかずらうたちの人間ではない。
・・・書物にはそれ自体の運命がある。ときには作者の運命が彼らの書いた本の運命になることもあるのだ。一九一〇年、家族を捨てて放浪し、とある田舎の駅長室でアンナ・カレーニンを殺した汽笛の通り過ぎる轟音を聞きながら死んでいった老トルストイの例もある。
そういえば、一八九四年サモア島で逝ったスティーヴンソンの死にも、奇妙な具合に、葡萄酒の主題と彼の変身幻想主題をまねているような、なにかがあるのだ。彼はお気に入りのブルゴーニュ葡萄酒を取りに地下室に降りていって、台所で栓を抜くと、突然、妻に叫んだ、おれはどうしたんだろう?なんて不思議なんだ、おれの顔すっかり変わってしまってはいないか?――そういうと、床の上に倒れたという。脳の血管が破れたのだった。二、三時間のうちにすべては終わった。
どうしたんだ、おれの顔すっかり変わってしまってはいないか?このスティーヴンソンの人生最後の挿話と、彼の書いたもっとも素晴らしい小説(注:『ジキル博士とハイド氏の不思議な事件』)におけるまがまがしい変容(注:医学博士ジキルが投薬によって殺人鬼ハイドに変身すること)とのあいだには、たしかに奇妙な主題的つながりがある。
P.317-8 マルセル・プルースト『スワン家のほうへ』から
・・・マルセルが発見する過去と現在を結ぶ橋立ては、「いわゆる真実とは、同時に私たちを取り囲んでいる感動と思い出のあいだのある種の関係である」ということだ。要するに、記憶の操作とは別種の過去を再創造することがおこなわれなければならないということ、つまり現在の感覚(特に味覚、嗅覚、触覚、聴覚)と、感覚的な過去の追憶、思い出との結合がなければならないということである。・・・現在における感覚の花束と過去における事件ないし感動の幻影との出会い、そのとき感覚と思い出は合体し、失われた時はふたたび見出されるということである。
こうして、芸術作品はかくのようにして過去を奪還する唯一の方法であり、この目的のために自分は一身を献げようと、話者が自得するところで、啓示は完了する。
結びで彼はこう書いている、「・・・空間とは違って『時間』のなかの場所こそは、広漠として果てしない場所なのだ、なぜなら人々は巨人のように、遥か遠くの歳月にまで手を伸ばし、人生のいろいろな時期――そのあいだに無数に介在する日々をはらみながら――『時』のなかで互いに遠く隔たった時期に、同時に触れているのだから」。
P.326-7 フランツ・カフカ『変身』から
『変身』について語りはじめる前に、二つの見方を排したいと思う。文学者というより聖者としてカフカを考えてこそ、彼の著作ははじめて理解しうるというマックス・ブロード(注:カフカの死後委託された作品を廃棄することなく出版した友人)の意見をすっかり排しておきたい。
カフカはなによりも芸術家だった。たとえば芸術家は誰でも一種の聖者であるといいうるとしても(わたし自身、はっきりとそう感じているものだが)、カフカの天才のなかにいかなる宗教的な意味合いを読み込むことはできないと思うのだ。もう一つ、私が排したいと思うのは、フロイト流の見方である。・・・『変身』はカフカの父親との複雑な関係および彼一生の罪意識に根ざしたもの、・・・カフカが南京虫の象徴を使ったのは、これらフロイト原理にしたがって、息子を表現しようとしたのだという。
・・・カフカ自身、フロイトの考えに批判的であった、彼は、精神分析を(彼の言葉を借用すれば)「どうしようもない誤謬」と考え、フロイトの理論を細部。ひいては事物の本質を、正当に取扱うことがない単なる概略、ほんの粗描きの下絵のようなものと見なしていた。・・・
カフカが受けた最大の文学的影響は、フロベールの影響であった。美辞麗句をつらねた散文を憎悪したフロベールは、カフカが自分の道具にたいして持した態度を賞賛したことだろう。カフカは法律や科学の言語から自分の言葉を引き出してきて、作者の個人的な感情を介入させることなく、それで一種の皮肉な正確さを付与しようと欲したのだった。これこそまさしくフロベールの方法であり、この方法を通じて彼は非凡な詩的効果を達成しえたのであった。
P.388-390 ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』から
・・・諸君はブルーム(注:個性的な主人公)がモリー(注:主人公の妻であり自堕落な歌手)に朝食(注:英国下層階級の好むレバー料理)を運んでくる、素晴らしく芸術的なくだり、あらゆる文学のなかでもっとも偉大といっていい場面を楽しむがいい、この男はなんて美しく書くんだろう!
「(省略)
彼女は茶碗の取手でないところを持ってぐっとひと飲みし、指さきを毛布で素早くぬぐうと、ヘアピンで文章を追い、やっと当の言葉にたどりついた。
(省略)
砂糖をかき混ぜる彼女のスプーンの動きが止った。まっすぐ前に目を据え、鼻の孔をふくらませて大きく息を吸い込んだ。
――焦げるにおいがする。あんた、なにか火にかけたままじゃないの?
――腎臓だ! と彼はとたんに叫んだ。」
P.454 ジェイムズ・ジョイス『ユリシーズ』から
この章(注:第三部第二章)はブルームがしだいに眠りに落ちてゆくところで終わる。
「如何なる姿勢で?
(省略)話者(注:ブルーム)左向きに横臥し、左右両脚ともに膝を曲げ、右手の人差指と親指を鼻梁に当てがい、パーシー・アプジョン(注:ネットで検索したが出てこないが、おそらく二十世紀初頭の英国の写真家か?)が撮った早撮り写真に表現された姿勢、疲労した胎児成人、子宮内の成人胎児の姿勢。(省略)」。
P.481-2 「結び」から
わたしがこの講義で取り上げた小説から、きみたちがはっきりとした人生の問題に応用できるようなことは、なにひとつ学ぶことはできないだろう。これらの小説は商社の事務室や、軍隊のキャンプや、台所や、育児室ではなんの役にもたつまい。実際、わたしがきみたちと分け合おうとしてきた知識は、まったくの贅沢品だ。
それはフランスの社会経済を理解したり、女性の心や青年の心の秘密を理解したりするには、なんのたしにもならないだろう。しかし、きみたちがわたしの指摘にしたがったなら、霊感を受け精密に成った芸術作品が与える純粋な喜びを感じる役にはたつだろう。そしてこの喜びの感覚が今度はさらに純粋な心の慰めの感覚、つまり人生の内部構造はさまざまに失敗やへまをやらかすにもかかわらず、やはり霊感と精密さから成っているものだと気づいたとき感じられる心の慰めを、しだいに生み出してくれるのだ。
この講義でわたしが明らかにしようとしたのは、これらの素晴らしい玩具――文学の傑作の仕組みということであった。わたしが願ったことは、小説を読むのは作中人物になりきりたいというような子供じみた目的のためでも、生きる術を学びとりたいというような青二才めいた目的のためでも、また一般論にうつつをぬかす学者然とした目的のためでもない、そういう良き読者にきみたちをつくりたいということだった。小説を読むのはひとえにその形式、その想像力(ヴィジョン)、その芸術のためなのだと、わたしは教えてきたのである。
(中略)
・・・もしどうしたらそのようなうずきを感じられるのか知らないなら、もしわれわれが普段いるところよりもほんの少しでも高いところに身を持ちあげ、人間の思想が与えずに措かぬこのうえなく稀有にして成熟した芸術の果実を味わうことを学ばないなら、人生で最高のものを失うことになるだろう。
<蛇足ながら、全体としての参考>
私は、これから『変身』、『ボヴァリー夫人』を読む予定にしている。そして『失われた時を求めて』(『スワン家のほうへ』を含む)は、個人で蔵書するには余りにも長大なので、図書館で読むつもりだ。そして、このナボコフが学生に教えてきたような小説を、書いていきたい。
<私が、アマゾンのキンドル及び紙バージョンで販売している、短編小説集です。>
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