崇徳天皇に逢はむとぞ思ふ④
ひとつお断りさせてください。
崇徳天皇の視点から歴史を振り返っています。
これを「善と悪」という視点では見ていませんし、みなさんにもそのように見てほしくないなと思っております。
後白河天皇側にも、そうせざるを得ない状況があり
歴史に名前が残されていない人たちのさまざまな思惑なども複雑に絡んできていると思います。
後白河天皇側の側近、信西(藤原通憲)についても調べてみました。
この人はもともと学問がしたかったのですが
養子に出たことでその道が閉ざされたと思い
出家の道に進まれました。
しかし、どうしても手放せない思いがあったようです。
妻が後白河天皇の乳母であったことから
後白河天皇に重用されるようになり
次第に「権力」という魔物に取り憑かれていきます。
しかし、平治の乱で追い詰められ自害(斬殺されたとも)、その首は都で晒されたそうです。
環境がどうであれ、学問を究める道も、僧として生きる道も選べたはずです。
人を呪わば穴二つ。
信西もまた、わたしたちにどのように生きるべきかを教えてくれているように思います。
〇〇
崇徳天皇のお話に戻りましょう。
讃岐に配流になったあとのことは
坂出市のサイトにわかりやすくまとめられています。
保元の乱に敗れた崇徳上皇は,讃岐へ流され,林田の雲井御所(くもいごしょ)で約三年過ごした後,国府のすぐ近くの鼓岡(つづみがおか)にある木ノ丸殿(このまるでん)に移られました。
木ノ丸殿での上皇は,一日中部屋にこもり,書物を読んだりお経を唱えたりしていましたが,一心に毎日お経を写し始め,三年もかかり多数の写経をし,下記の和歌を添え京都に送りました。
「浜千鳥 跡は都へ通えども 身は松山に 音をのみぞなく」
崇徳上皇としては,後の世のためを思い一心に写したお経だったため,讃岐のような田舎へ置いておくのがつらく,都に近い八幡山か高野山か,もし許しが得られれば鳥羽法皇の御陵に納めたいと思っていました。
しかし,京都の朝廷は,罪人の写したお経はよいお経のはずがないと受け取らず,崇徳上皇のもとに送り返してしまいました。
崇徳上皇はたいへん悲しまれたと云われています。
このお経は,後に崇徳上皇の子どもの元性法印の手で保管されたと吉田経房の日記『吉記』に書かれています。
お経が送り返されてからというもの,上皇は食事をあまりとらず,髪もとかず,爪は長く伸ばし放題にしていて,その様子は天狗のように恐ろしげだったと伝えられています。
写経が送り返されたことに激しく怒った崇徳院は
舌を噛み切り、その血で
「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」
と写本に書き込んだといいます。
この言葉通り、この直後に武士(平氏・源氏)の力が台頭し、貴族政治が崩壊して鎌倉幕府(武家政権)が誕生します。
また太平洋戦争敗戦後には、天皇の神格を否定する「天皇人間宣言」がありました。
また、崇徳天皇が亡くなってから12年後の安元2年(1176年)には
建春門院・高松院・六条院・九条院ら
後白河院や忠通の関係者が相次いで死去、
その翌年には
延暦寺の強訴、安元の大火、鹿ケ谷の陰謀が立て続けに起こり、
崇徳天皇の怨霊の祟りではないかという噂が広まりました。
後白河天皇は勝利宣言であった「保元の宣命」を破却、
「讃岐院」から「崇徳院」へ院号が改められるなど
怨霊鎮魂の措置を取ったといいます。

讃岐に流された崇徳上皇(歌川国芳画)
崇徳天皇は【日本三大怨霊】の一人とされています。
平将門、菅原道真、そして崇徳天皇。
崇徳天皇は3人の中でも最凶の怨霊と言われています。
遺体を運ぶ途中に、棺を置いた石に血がしたたり落ちたという伝説があったり(血の宮)、
火葬の際、紫の煙がたなびき、山の麓の一角に留まって輪となり文字を成し
そのあとに霊玉が残されたという話もあります(煙の宮)。
上田秋成の『雨月物語』には、
讃岐の白峯を訪れた西行法師が
崇徳天皇の怨霊と対面する
「白峯」という話が収録されています。
明治天皇は慶応4年(1868年)に
自らの即位の礼を執り行うに際して
勅使を讃岐に遣わし
崇徳天皇の御霊を京都へ帰還させ
白峯神宮を創建しました。
昭和天皇は崇徳天皇八百年祭に当たる昭和39年(1964年)に、
香川県坂出市の崇徳天皇陵に勅使を遣わして式年祭を執り行わせています。
崇徳天皇の怨霊伝説は、
今でもこの日本国に生き続けています。
でも、わたしは
崇徳天皇のことを深く掘り下げて調べたり
実際に白峯山の御陵やその周辺を訪れてみて
崇徳天皇は本当に怨霊になったのだろうか?
という疑問を持ちました。
むしろ、この讃岐の地で
穏やかで幸せな
さいごのときを過ごされていたのではないか、
とさえ思ったのです。
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