崇徳天皇に逢はむとぞ思ふ③

【保元の乱】のことを調べていると
これはもう仕組まれていたとしか思えないのです。
おそらく裏で手を引いていたのは
後白河天皇側についていた信西でしょう。
発端は、保元元年(1156年)7月2日
鳥羽法皇の崩御でした。
崇徳上皇は臨終直前に見舞いに訪れますが逢わせてもらえませんでした。
鳥羽法皇は、自分の遺体を崇徳上皇に見せないように、と言っていたようです。
5日には「上皇(崇徳)左府(頼長)同心して軍を発し国家を傾け奉らんと欲す」という風聞に対応して、後白河天皇は京中の武士の動きを停止。
8日には御教書が下り崇徳側の忠実、頼長は兵を集めることができなくなり、邸宅は没官されます。
没官とは謀反人への財産没収の刑であり
藤氏長者(頼長)が謀反人とされたことは前代未聞のことでした。
忠実も頼長も原因となるような行動は起こしておらず、明らかな挑発であり
兵を挙げるしかないところに追い詰められたのです。
法皇が亡くなって初七日の日の出来事です。
9日、崇徳上皇は身の危険を感じて鳥羽田中殿を抜け出し、洛東白河の内親王の御所へ、
10日には頼長も宇治から上洛し白河北殿に入ります。
崇徳側の兵は少なく明らかに劣勢でした。
これに対して後白河天皇側は
「軍、雲霞の如し」というほど軍兵で埋め尽くされていたようです。
11日、鴨川をはさんで一進一退の攻防となりますが
朝早くに隣家に火が放たれ、北殿に燃え移り、
崇徳上皇と頼長は脱出。
この日の正午には終結。
これが【保元の乱】と言われている事の顛末です。
乱を起こしたのは、いったい誰なのでしょうか。
為朝は夜襲を進言していましたが
頼長は
「かしこくも上皇と天皇の争いに
卑怯な真似はできない」と一蹴したそうですが
後白河側に夜襲をかけられ、崇徳側は一夜にして壊滅となったのです。
後白河側で手柄を立てたものには
この日のうちに恩賞が与えられました。
14日、首に矢が刺さり負傷しながらも逃げていた頼長が亡くなります。
自害した、とも言われています。
23日、崇徳上皇は讃岐に配流となります。
天皇・上皇の配流は400年ぶりでした。
忠実は幽閉され
28日、忠正斬首
30日、為義・家弘斬首
8月3日、貴族は流罪
8月26日為朝も伊豆大島へと配流となりました。
あまりにも早いと思いました。
シナリオが用意されていたのではないかと思うほどです。
そして、崇徳上皇側への処罰が
あまりにも重いのです。
こうなってしまったことを
崇徳上皇は
どのように思われ
どれだけ心を痛めておられたか。
どうすれば、これを回避できただろうか。
学校の歴史では
「保元・平治の乱。
これにより貴族政治から武家政権へ」
とまとめて出てくるくらいです。
歴史を深く知り、感じることで
同じ過ちを繰り返さない。
自分に引き寄せて
自分の世界から
争いをなくしていく。
それが本当の学びなんじゃないかなと思います。
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