崇徳天皇に逢はむとぞ思ふ②
Geminiに崇徳天皇の略歴を作ってもらいました。
崇徳天皇(第75代天皇)の略歴
1. 誕生と数奇な運命
誕生: 1119年、鳥羽天皇の第一皇子として誕生。
即位: わずか5歳で即位。しかし、祖父である白河法皇が実権を握る「院政」の下での即位でした。
孤独な立場: 父・鳥羽上皇からは「叔父子(おじご)※」と呼ばれ疎まれたという伝説があり、幼少期から複雑な家族関係の中にありました。
※祖父・白河法皇の子ではないかと疑われていたという説。
2. 権力争いと「保元の乱」
譲位: 父・鳥羽上皇の圧力により、異母弟(近衛天皇)に位を譲らされます。
保元の乱(1156年): 鳥羽上皇の死後、皇位継承をめぐって弟の後白河天皇と対立。武士(源氏・平氏)を巻き込んだ内乱に発展しますが、崇徳上皇側は敗北します。
3. 讃岐への流罪と「怨霊」伝説
流刑: 戦に敗れた崇徳上皇は、讃岐(香川県)へ流されます。
写経の拒絶: 讃岐で反省の証として五部大乗経を写し、都の寺に納めてほしいと願いますが、後白河天皇側に拒絶されます。
憤怒: これに激怒した崇徳上皇は「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」と呪いをかけ、舌を噛み切った血で経文に誓文を記したと伝えられています。
崩御: 1164年、46歳で崩御。その後、都で相次ぐ災い(安元の大火など)は、彼の怨霊の仕業と恐れられるようになりました。
4. 歌人としての顔(文化的な側面)
崇徳院: 百人一首の第77番「瀬を早み 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」の作者。
激しい運命とは裏腹に、非常に繊細で情熱的な歌を多く残しています。
これを書くにあたり、百田尚樹さんの『日本国紀』も読み返しましたが
何度読んでも胸が痛く、ぼろぼろ泣いてしまいます。
お持ちの方は81ページ「院政の時代」から86ページに崇徳天皇のことが書かれていますのでお読みくださいね。
以下( )内は天皇の代です。
白河天皇(72)は息子である堀河天皇(73)を7歳で即位させ
上皇となって実権を握ります(院政)。
ところが堀河天皇は29歳で崩御。
堀河天皇の息子である鳥羽天皇(74)が5歳で即位します。
鳥羽天皇と待賢門院璋子(藤原璋子)との間に生まれたのが
崇徳天皇(75)と後白河天皇(77)。
この2人の間で起こった皇位継承争いが保元の乱(1156年)となります。
崇徳天皇のお父さんは鳥羽天皇なのですが
鳥羽天皇の奥さんである待賢門院璋子を
祖父である白河法皇が寵愛していたことから
「崇徳天皇は白河法皇の子どもではないか」
と鳥羽天皇は思っていたようです。
おじいさんの子どもであるから
自分から見たら叔父さんなのです。
鳥羽天皇は崇徳天皇のことを「叔父子(おじご)」と呼んで疎ましく思っていたようです。
白河法皇は幼い崇徳天皇を即位させ
自ら院政を敷きました。
天皇の座から降ろされた鳥羽天皇は
さらに崇徳天皇のことを嫌っていたことでしょう。
鳥羽天皇は白河法皇が亡くなると
反撃に出ます。
美福門院得子(藤原得子)との間にできた近衛天皇を3歳で即位させます。
崇徳天皇から見ると異母弟にあたるため
崇徳天皇は院政を敷けません。
しかし、近衛天皇は16歳で亡くなったため
今度は実弟である後白河天皇を即位させました。
崇徳天皇にも息子がいましたが
白河の血を引く崇徳天皇の血筋を断絶させようとしたのです。

崇徳天皇には何の罪もないのに
父から疎まれ
生まれながらにして父の愛に飢えていた、
と考えられます。
瀬を早み、の歌は
父と子の和解、
また皇室の争いがなくなることを願って
詠んだ歌ではないのかなと
わたしは思うのです。
保元の乱は、武士である源氏と平氏を巻き込み
それぞれの氏族の中でも親子、兄弟の確執を生む争いとなりました。
結果、崇徳天皇側が敗北。
崇徳天皇は讃岐に流されます。
崇徳天皇側についたものの中には
死刑となったものもありました。
平安時代は死刑は行われておらず
ここで死刑も復活しました。
崇徳天皇の心のうちを思うと…
また涙が溢れてきます。
長くなりましたので
この続きは③にて。
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