(創作大賞2024)大正浪漫チックな花嫁は恋する夫とお勉強がしたい【第十話】
「……なんで君の家に行かなければならないんだ?
知らない男に巻き込まれて、危うく心中されそうになったと、親にでも言うつもりか?」
彼は浅い笑いを浮かべて、私に冗談ぽく尋ねた。
「ただ、あなたに死なれてしまったら、ワタクシが嫌なだけですわ」
びしょ濡れになった、仕立ての良さそうな紬の袖を掴んだまま、私は美青年に詰め寄る。
「『袖振りあうも他生の縁』と言いますでしょう?
こうやって、知り合ったのも、きっと何か縁があってのことでしてよ。
縁のあるあなたが、この冷たい川で死ななくて良かったと、ワタクシは心からそう思うのですわ」
彼の皮肉げな表情には相反して、私は真剣に美青年の瞳を見つめた。
冷たく笑っていた顔に、徐々に輝きが差し始め、不思議と心惹かれるような色気と艶やかな雰囲気が、美しい彼をまとう。
「あなた、お名前はなんと仰るの?」
「フッ、何者かも知らないお嬢さんに、俺の名前を名乗る価値はないね」
私の問いかけに、きれいに微笑み、言葉はきついが、さっきよりも柔らかい口調で返される。
この方、なんてひねくれた物言いをなさるのかしら。
絵はあんなに素直な線で、きれいに描かれるのに。
いいわ。
私は自分が何者であるかを言うくらい、価値がどうのなんて思わないわ。
「ワタクシは、一井 藤宗男爵のご嫡男にして、一井財閥の次期当主、一井 藤孝様の妻、一井 櫻子ですわ。
さ、次は、あなたが名乗られる番ですわよ」
私の自己紹介に、目を丸くした美青年は、急に笑い出した。
「アハハハ。
君、本当に面白い子だな。
その名乗り方は、人さらいに攫われてしまうぞ。
一井家からは、たんと身代金が取れそうだからな」
先ほどまでの、皮肉で儚げな様子と違って、お腹を抱えて大笑いしている。
私、そんなにおもしろい事を言ったの?
ようやく笑いを収めてきた美青年は、風に乱されている私の髪を、優しく撫でながら、きれいな微笑みを浮かべた。
「俺は、松原 征之介だ。
雅号(※画家の名前)は、松原 鳳雪と名乗って、絵を描いて暮らしている」
何のためらいもなく私の背中に腕を回して、抱きしめるような格好で、顔を近づけられる。
藤孝様以外の男性と、こんな風に抱き合ったことなんて、もちろんない。
私はドキドキしたくないのに、胸が苦しくなった。
「や、やめてくださいまし……」
川の中で抵抗していた時の、腕の力はどこに行ったのか、押しやりたくても、征之介様の腕の中から抜けられない。
「一井男爵には、いつもよくしてもらっている。
七月の帝国ホテルには、俺も行ったんだ。
あの時の花嫁か」
私の顔をみて、また征之介様は笑い出した。
「フフッ。
結婚式では、大人しく高砂に座っていた西洋ドレスの貴婦人と、今のずぶ濡れのお転婆娘じゃあ、ずいぶん印象が違うな」
からかうような響きを含ませた言い方に、私は頬を膨らませる。
私だって、好きでお転婆やってるんじゃない。
身体が勝手に動いてしまうんだから、仕方ないわ。
そうやって、考えなしに動いてしまって、只今、後悔中だ。
帝国ホテルでの結婚披露宴には、600名を超える方がお越しになって、私も一人一人のお顔や経歴などは覚えていない。
「君は、大炊御門侯爵の令嬢だろう?
それが今は、大財閥一井家の若奥様」
「そうですわ」
冷たい風が吹いて、濡れた脚に着物が張り付く私を抱きしめたまま、甘美な微笑みを浮かべた征之介様は、私の頬や唇を指でなぞっていく。
美しい顔を間近にして、抱きしめられた力強い腕と、優しく触れる指に、ついボンヤリとしてしまいそうで、慌てて目をそらした。
「フフフッ。そんな深窓のお嬢さんなのに、誰かもわからない男の自殺を止めようとするなんて。破天荒だな」
征之介様は、どこか楽しんでいるように、笑いを抑えながら話す。
「そんな君と、同じくずぶ濡れの格好で、二人仲良く一井邸へ俺が行ったら、俺は筆を折らざるをえなくなるだろうな」
「えっ? 画家をお辞めに? どうして?」
私はびっくりして、思わず仰ぎ見る。
素描だけでも、あんなに才能があるのに、どうして辞めなきゃいけないの?
征之介様は、上を向いた私の顎を片手で持つと、顔を傾けて頬に口づけした。
きゃあっ!
