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好きな翻訳者 『存在と時間』とか『源氏物語』とか

昨日は柄にもなくというか、少し気取って古典の話をしたのかもしれないから、

今日はもっと気楽に好きなものの話をしたいと思った。
それでぱっと思いついたのが翻訳者の話だった。好きな翻訳者が思い浮かんだ。

私はこのnoteにも哲学をやっていたと書いたことが何度かあるけれど、その時には余人の例にもれずハイデガーも読んだ。
とはいっても、それは日本の古典文学への接し方と同じように、原文で読むことは稀で、ハイデガーも主に翻訳で読んだ。
それであの難読書といわれる『存在と時間』に細谷貞雄訳で接して、私はその訳文が好きになった。

翻訳者による文章を読んだときに、いろいろな受容の仕方があるのだろうけれど、私の場合は「原書をとろとろに溶けるまでめくって、何語で読んでいるのかの区別すらなくなった人が、あとから日本語にしたようなもの」がいいだろうと思う。
その本を枕にして何度も寝てしまって、家のいたるところにそれがあるから、あることも忘れるようにして暮らして、それからその本の話をしているのか、自分の話をしているのかわからなくなってしまったような人の翻訳が本当の翻訳という気がする。

このときには、私は本当はハイデガーを読んでいなかったかもしれない。
こういう翻訳者の態度を読んでいたかもしれない。

悪く言うつもりで書くのではないが、『存在と時間』には他の訳者のものもある。
例えば、熊野純彦の訳は、本人にこの書が必要で何年も格闘したという跡がない。枕にしたり、家を掘り返すと何冊も出てくるというようなことがない。依頼されたからそれまでの既訳を並べて整理したという感じで、原文に当たったかも怪しい、という印象を受けてしまった。
この印象への根拠は全くなくて、あるとすれば訳に温度も起伏もないことで、ペーストされた宇宙食のようだということでしかないのだけれど、私はこの態度に決定的なものを感じる。学習に便利なツールでしかなく、私のような読者には読んでいるのが難しい。

そういうときに、私はすでに原書に当たれていないのかもしれない。
原書を読む読まないという以前に、その目の前にあるものを読もうとしているということから抜け出せないというか、その手触りが否応もなく立ち上がってくることを感じてしまう。

私の文章は一時期、川端と細谷を合わせたようなものになっていた。
それをもともと持っていた何かが調整したり折衷したりで、何か気に入った文章になっていた。哲学をやめて、古典を読んだり自分だけで考えたりするようになって、文章は変わったけれど、あの頃の文章は今でも好きなのかもしれない。
好きだと思っていたいような思い出かもしれない。

昨日古典の話をしたから、源氏の翻訳についても少しだけ書いてみたいけれど、川端本人も何度か源氏を訳そうとした。
それで何度も読んで、読んでいるうちに原文が一番よいと思ったらしい。または谷崎訳があって、谷崎は確か3回くらいやり直している。自家版も合わせると5回だったか? 
とにかく、とろとろになるまでやったようだ。
その訳と原文があるから、川端は自分の仕事はないと思ったそうだ。
川端はなにかを集中してやるということには雑駁なものがあるから、とろとろになるまでやったかどうかわからないけれど、とろとろになるまでやって訳す人と訳さない人とがいる。

それで私はやはり源氏の現代語訳は谷崎を薦める。
という以上に、薦めるしかないという感じだ。他の訳はちょっともっと違う訳し方らしい。
ただ男の私はやはり源氏の女性訳ということに夢を見てしまうから、円地文子訳も読んだ。これはむしろ谷崎よりも男の頭の働き方で訳されたもののようで、紫式部の頭も女性でありながら男のように働いているから、もしかしたら円地もいいのかもしれない。

とにかく、翻訳は原書の内容を伝えたり、その先にあるものを理解するための媒介として働くように思っているけれど、そうではなくて、訳者の態度で読むときに、自然と訳文に対する厳しい態度と思えるようなものがやってくる。
そういう気は全然ないのに、私は日常人Aとして私のこの判断を見て、気難しいなと思うことがおかしいような気がしてくる。好きなものの話をして、気難しく見える自分を見つけておかしいようなものだ。
でも本当は全然そういうことではない。

何か気楽に書いたらこういうものになった。
傍目には面倒臭くて笑ってしまう。


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