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春の山菜の見逃し方 

東京から田舎に住んで、最も変わったことは山菜を採るようになったことだ。

以前、父と舞茸を採りに行くと書いたが、

山菜も採りに行くことがある。

モミジガサ、ミヤマイラクサ、ゼンマイ、ワラビ、ウド、クサソテツ、タラの芽、コシアブラ、ハリギリ、山わさび、タケノコ

私が採って食べるのはこれくらいで、知識量としては少ない様なものだけれども、田舎の人も意外に山菜を知らない。
山菜を食べるというよりも、すでに習慣になっているものの中で生きているという感じで、習慣的に採るものだけをそのまま続けているだけという感じで食べている。

季節的に、というか、私は最高気温と最低気温で大体の当たりを付けて、タラの芽はそろそろ始まる頃だと思っている。またはもう始まっていて、採られてしまっているかもしれない。

とにかく、山菜採りが始まる。
そうなると考えたり思い出したりすることがある。
例えば、今始まっているタラの芽採りについては、みんなのマナーがよろしくない、ということを思う。

たらの芽のとげだらけでも喰はれけり

と一茶の句にもあるように、タラの芽はとても人気の山菜で、誰が食べても、大体どんな人が食べても美味いと思うだろう。
採れたてのタラの芽の天ぷらは、ふわりとした触感、鼻に抜ける蒼い香り、あとを引くほのかな苦みなどが独特で、今年はまだ食べていないから想像で語っているのだけれど、食べれば言葉もなく、ああこれだよね、と記憶と味とが一致して、その一致を最上の旨味として春を食べるような山菜になる。

タラの芽は咲いている、咲いているというのかどうかは怪しいけれど、とにかく春の空に、厳しい棘の体の頂上に黄緑の初々しい顔を乗せて赤い化粧をしたようにぱっとしているのも美しい。
誰もが気づく佇まいで、山菜初心者にもすぐに見分けがついてしまう。だから棘があろうがなかろうが採られてしまう。

タラの芽の棘の体を折らないようにして、美しい首だけをさっと採るような人々にはまだ、先に取られても悔しくはないけれど、最近ではタラの芽が人気になり過ぎて、他人にとられる旬の前に、体を切り落としていく人がいる。それを水耕栽培で都合のいい時期まで育てるらしい。
切られたタラの木は、旬の美しいはずの時期にただ棘の茶色い躰だけを残してぼーっとしている。力が残っている場合は、別の場所からまた頭を出すけれど、それはもう呆然とした顔で、色もくすんで肌に艶もない。

そういう姿を見た時、私は荒らされてしまった少女とともに、悪い人間の脂ぎった顔を思い浮かべる。
春の空に清々しい気持はどこかへ行ってしまう。

しかし、同時に、私のような品のよい取り方をされているタラの芽は、そういう大切な扱いをされているタラの芽は、どんどんと体を伸ばし、数年で最早首まで手の届かない高さになる。美しい顔は太陽の逆光で見えないような高さになってしまう。空に突きぬけて笑っているようなものになる。

タラの芽は大体が境界地に生えている。
そこが数年そのままになると森になっていくようなところに位置取って、森林化の先発隊のような勇敢さで生えているのだ。
人間が押し返したり、たまたま育成の悪いところで他の草木が育ちづらかったりすることで、環境が維持されることはあるけれど、タラの芽が大きくなった時には、その周りもそれなりに草木が茂って来る。

それを人間の都合でタラの芽の体を切る時、私はそこに別の理由を見つける。
利己的な行動が、実際にはタラの芽を取り続けられる環境も作り出し、森林化を食い止めている可能性もある。
私はタラの芽の顔だけ、首だけを切る。それは私の倫理でしかなくて、何年何十年と体を切り落としている人たちとどう違うだろうかということを考える。

私は自然を人間にしたり話し相手にしたりしている自分を省みなければならなくなる。
自然は人間ではないからだ。たぶんそうだから。


父と山菜取りに行ったときに思うこともある。
父が歩いた後を歩くと、取り残しが多くある。
例えば、ミヤマイラクサやゼンマイを取りに行って、その崩れやすい石や砂の山を歩いて、父は本当に食べごろの素晴らしい山菜を見落としていく。

それは今後の山の生態系を考えて、来年の山菜の生存を考えて見逃しているのではない。私の見逃し方はそうで、この小さいものは残そうだとか、この株のこれとこれは残して、この良いものは頂こうという感じで対話をしているつもりだ。

父はそうではない。単純に目の前のものを見逃している。
「これ、ここにあるよ」というと、
「え? ああっ」と返す。

私は山に行くと父の迂闊さや頼りなさを強く感じる。
しかし、同時にやはりタラの芽の時と同じだけれども、その迂闊さが人々の迂闊さが山を生き延びさせている気がする。
それは私の計算された対話ではなく、長年の研鑽とも言えるような、集団的な迂闊さで、それに対して私の対話は敵わないのではないかと思ったりする。

なんてガサツな人々だろう。
なんて傲慢な人々だろう。

そう思うことが多くある。
しかし、それがどういうことなのか考えるとわからなくなる。
山で何かを採って、来年にまた無事に生えていた時に、そのときになってやっとわかる。去年のあれはそう悪くもなかったのだろうと。
それも正解などではない。私は自然の側が補正してくれていると考えたりする。
父はそんなことは全く考えていないだろう。
今年も来年も再来年も生えて当然であり、繰り返されて当然だ。
それが社会問題になった時だけ関心があって、そうではない時には、当然であり、そうやって生きている単純さ、杜撰さが何かを生き延びさせるものという気もする。

誰かが自分のやり方を主張している。
それが繰り返されたもので、また当然であり、当然であるということがすでに何度も考えられている。それは殆ど考えということを離れて、習慣になっている。

それを私が指摘すると、父は
「ああ」
というだろう。
そして、また自分の習慣に戻って、迂闊さを発揮して、自然は維持されているように見えるかもしれない。

これら一連のこととは関係もなく、本当は自然はただそれを受け入れる様にしてある。判断はいらない。自然という括りもいらないのかもしれない。
倫理は人間の側にあって、私は私の正しさや間違いをそのままのものだとは思わないけれど、それとは別のものが動いているとも思う。


そのとき、私はこちらの傲慢さに気づく。
私は彼らのようにはなれないことに気づくけれど、それも大したことではない。
どれも実際には違っているというだけのことかもしれない。

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