自己紹介|“流れにまかせて波にのる” デザイン業界に飛び込んだ、私が進んできた道
はじめに
どこかに向かおうとするたびに、つまずいたり、迷ったり。「このままでいいのかな」と悩むことばかりだった。
でも振り返ると、ちゃんと波に乗れていた時もあって、今がある。
今日は、そんな“流れにまかせて波にのった”話。はじまりの頃の話をしてみたいと思います。誰かの背中を少しでも押せたら嬉しいです。
はじめまして。株式会社オンドのクリエイティブディレクター・コピーライターの折尾祐希です。大阪を拠点にデザインの仕事をしています。
出身は、鹿児島県南九州市です。お茶の産地(知覧茶)として市町村別では生産量日本一。茶畑に囲まれながら過ごしてきました。コンビニは近くにありません。信号もありませんでした。
「デザイン」とは無縁だった10代
デザインや絵に興味があったかと言うと無かったと思います。ただ、都会のファッションには憧れがありました。原宿のストリートファッションのスナップをまとめた一冊、FRUiTS(フルーツ)からは刺激や影響をかなり受けて
いました。個性のかたまり、表現の自由さに惹かれていたんだと思います。
当時の私といえば、校則で丸刈りに耳の穴までのもみあげスタイル。男子全員です。校則を守りつつ“坊主のテクノカット”や“片目カラコン”などを楽しんでいました。あとは眉毛を剃ったりです。今思えばオシャレだったかどうかはわかりません。
そのまま、高校を卒業するまで私はまったくといっていいほど「デザイン」というものに興味がありませんでした。デザインを仕事にしようなんて考えた事もありませんでした。「デザイン」を仕事にしている人も近くにいませんでした。
デザインを専門的に学びたい!という思いや美術的なセンスがあるわけでもなく、漠然と「デザインって、芸術肌の人がやるやつでしょ?」くらいに思っていたんです。
小・中は柔道に邁進し、鹿児島県大会、九州大会、日本武道館で行われる全国大会へも出場しました。(練習はキツかった)
中学校では、部活動ではなく同好会としてのスタートでした。幼稚園の副園長先生、そして現役警察官2名の方が指導者でした。(練習は本当キツかった)
体重を増やすために食べます。吐くくらい食べる部員もいました。手も足の裏も豆ができ皮がベロンと剥けます。脱皮です。皮が分厚くなります。(これもまたキツかった)
柔道ではまず受け身を徹底的に身体に頭に染み込ませます。怪我をしないためでもあり、武道を続けるために必要な技術です。受け身がしっかりできることで投げられることへの恐怖心が無くなるという効果もあります。また、その日の畳のご機嫌を確認します。


なかなか体重が増えずに苦戦した事もあり、高校になると体重に左右されないスポーツがいいのではと考えるように。そして、格闘技と出会います。高校から駅までの帰り道、一本の電柱に貼ってあった一枚のチラシ。キックボクシングジムの募集チラシでした。なんだか刺激的で面白そうという興味がわき、キックボクシングのジムへ通いだします。ジムが実家から遠かったため、練習の日は終電で帰宅する事もしばしば。乗り過ごしてしまうこともしばしば。
鹿児島県内では、当時1つだけのキックボクシングジムでした。入った当時は最年少でした。練習相手は大学生や社会人。自衛隊の方やプロの方もいらっしゃいました。(練習はキツかった)よく鼻血を出していました。試合では鼻も曲がりました。
柔道で身体の基礎が出来ていたこともあり(首相撲が強い)、キックボクシングでは九州大会へ出場、何度か優勝をする事もできました。(得意技は首をロックしての膝蹴りです)
アマチュアの試合時間は一試合2分や3分。試合によっては2、3ラウンドや延長があります。たった2分、その時間のために日々身体を鍛える。リングに立つまで恐怖心との戦い、そして勝つか負けるかの世界にどっぷりでした。
柔道やキックボクシングを通してメンタルはかなり鍛えられたと思います。勝ち負けに、たまたまやまぐれは無く、しっかりと練習をしてきた者が勝利する世界です。攻めなければ勝負に勝てない、攻撃は最大の防御という世界にいたことは、経営やビジネスをするマインドに大きな影響を与えていると思います。
また、社会人の方々や海外の方々と様々な時間を過ごすことは、高校生の自分にとって、グッと世界が広がった時代でもありました。



高校を卒業するにあたって"プロを目指すor自衛隊入隊or県外就職"の三択から、就職を選び上阪(会社の寮)します。
とにかく県外で働けたら何でもいい!行ったらなんとかなる!くらいの気持ちがありました。当時は都会への憧れが大きかったと思います。
大阪へ出てからは、警備業・引越し業・解体業・検品・内装業・テレアポ・営業・接客業・バーテンダーなどを経験しました。この仕事をやりたい!といった強い思いや憧れは無く、当時は地に足がついていない感じでした。目的や目標が無いとこうなるのか、という気づきでした。
周りからもよく、フワフワしてるなぁと言われていました。死んだ魚の眼をしていると言われた時も何も響きませんでした。
自分で選んで働いてはいるものの、心のどこかで、このままで良いのだろうか、本当にしたい仕事はなんだろうか。そう考えるようになっていきます。"あせり"や"やりがい"という言葉を意識しだしたのもこの頃です。
「おもしろそう」だけで入ったデザイン業界
身体をつかう、動かす仕事しか考えていなかったところに、ふと気になったデザインという仕事。
ワークショップ、スクールやセミナーなどを調べ、グラフィックデザイナーという職業を知り、社会人向けのデザインスクールとデッサン教室に通いました。
ところが、気持ちもお金もまったく続きません。学んでいてもこれが何に生かされるのか分かっていなかったのも理由のひとつです。
ただ、心の芯の部分は諦めてはいませんでした。もう現場だ!事務所に入ればなんとかなるだろう!と、知識や技術を身につける事無く、職業安定所(ハローワーク)でデザイン事務所の就職先を探しました。
きっとデザイン事務所に入ったらなんとかなる!と思っていました。正直、他力本願でした。しかし、今ほどデザイン事務所の情報もなく、書かれている条件は、実務経験3年以上とか、Illustrator、Photoshopスキル必須など。もちろんですが、即戦力となる人材を募集しているところがほとんど。
そんなときに出会ったのが、和歌山が本社のパッケージデザインをメインに制作しているデザイン事務所の求人でした。
正直、細かい条件は関係なく"未経験者歓迎"まずそこだけ。
そこがわたしにとって大きなひとつの“波”でした。
キーボードの文字打ちも、グラフィックソフトのショートカットも、Macの電源の位置すら分かっていなかった当時を思うと、上司や先輩の方々には本当に感謝しかありません。
その現場で学んだことが、今のわたしの軸をつくってくれたと思っています。デザイナーとしての体幹を鍛えてもらいました。デザインの業界、印刷の業界ってこんな感じなんだなと、直に触れた感じでした。
体力以外なにも持っていなかった
そう、体力以外、なにも持っていなかった。他の人よりも勝っている事。体力、スタミナ、足腰の強さ、首の太さ。
デザイン業界を知った頃のわたしは、特別な経歴もなければ、目を引くような賞歴もない。ましてや圧倒的な技術なんてものは皆無。よく「センスは磨けば伸びる」と言われるけれど、当時のわたしには、その磨くべき“原石”すら見つからなかったです。
持っていたのは、丈夫な体と、たっぷりの好奇心、根拠のない自信だけ。デザインを制作するパソコンも持っていないし、IllustratorやPhotoshopといったプロが使うソフトも触ったこともありません。だってタイピング(文字打ち)すら出来ないレベルでしたから。
当然、作品集(ポートフォリオ)なんて作れるはずもなく、「自分が何者なのか」を証明できる材料は一つもありません。
免許の欄には「普通自動車」とか「ボイラー技士」、「柔道初段」とかデザインには関係ない内容ばかり。そんな私には求人票の応募条件に並ぶ「実務経験3年以上」「Adobeソフト使用経験必須」という文字は、まるで別世界の暗号のように見えました。
そんな世界に飛び込もうとしている自分は、無謀なのか、勇気があるのか、自分でもよくわからなかった。
でもなぜか「大丈夫」と思っていた
常識的に考えれば、大丈夫なはずなんてない。未経験で、武器になるスキルもなく、実績もゼロ。どこからどう見ても、勝算はないはずだった。
それでも、心のどこかに「なんとかなる気がする」という小さな火が灯っていました。そしてこのまま何もせず、何も残さず鹿児島には帰れないとも思っていました。理由はシンプルに、プライドや意地だったと思います。
思い返せば、誰かの広告や作品を見て胸を打たれた瞬間、なんとなく憧れた世界。鮮やかな色、構成の美しさ、そこに込められた意図…までは合っていたかは分からないけど感じていたと思います。
自分が今まで見たことのない表現、デザインに出会ったとき、「自分もこういうものをつくりたい」と強く思った感覚。あのとき感じた高揚感が、根拠のない自信の正体のひとつだったのかもしれません。
その気持ちは、道しるべのような役割。どれだけ現実的には無理そうに見えても、「やってみたい」という思いだけは揺らがなかったのです。
そしてそれが、最初の一歩を踏み出す原動力に。
流れに身を任せたら、少しずつ乗れてきた
デザインをやりたい!という気持ちはあったものの、理想のクライアントも、好きな仕事も、尊敬するデザイナーも最初は全然いませんでした。どんなデザインがやりたい?という質問はすごく答えづらかった。
というかそんな余裕もなくて意識もしていなかったのかもしれない。ただ目の前にある仕事や作業をする。ただそれだけ。それだけで楽しかった。辛くなかったし眠くもなかった。休みもいらないとすら思っていた。実際にあまり家に帰ることも無かった。
そして、誠実にひたすらやりつづけていたら、ひとつひとつの出会いが波のように次を運んできてくれた。任せてもらえる仕事やクライアントも増えてきた。「こうあるべき」ではなく、「今できること」を続けた先に、少しずつ流れができてきたように感じました。

流されるのではなく、波にのる
ふり返ると、無理に未来を決めようとしたり、完璧なキャリアを描こうとすると、むしろ身動きが取れなくなっていた気がします。自分でコントロールできないことも多いからこそ、流れに身をまかせることも、ときには大事。
「なんとかなる」
でもそれは「なんとなく流される」のとは違って、来た波に「これだ」と思ったら、ちゃんと“のる”こと。躊躇しない。面倒くさがらない事。
波に乗るためには、「動ける状態」でいることが大事だった。
焦っていたときよりも、心を整えていたときの方が、波を見つけやすかった。あのとき、ダメ元で求人に応募したように。
異業種とのコラボレーション
デザイン制作会社から独立したあとも、来る波にのるために動きました。異業種交流会、セミナー、団体への登録、広告出稿、懇親会、県人会、ワークショップ。とにかく人脈も無かったので動き回りました。
そこで出会ったのが同業ではない、異業種の方々。
High Shock代表|ヘア&メイクアップアーティスト
歯朶原 諭子さん
舞台、TV、雑誌、ブライダル、特殊メイク、ネイル、着付け、イベント企画まで、多岐にわたり活躍するヘアメイクアップアーティスト。
パリコレ ヘアメイクアップアーティストグランプリをはじめ、国内外で数々の受賞歴を持ち、パリコレでは3年間ヘアを担当。さらに、イギリス、香港、中国、フィリピン、スウェーデンなど海外でも活動し、その技術と表現力を世界に広げています。

歯朶原さんとの最初の出会いはワークショップでした。頭部担当 歯朶原諭子さんと、胴体部担当 大野知英さんによる身体装飾ユニットheterophonicDada(ヘテロフォニックダダ)のメタモルフォーゼ 身体装飾モデル体験でした。「変身」をテーマにした内容に惹かれて参加しました。

そのワークショップでの出会いをきっかけに、後にHEAD ART PHOTO CONTEST(ヘッドアートフォトコンテスト)のプロジェクトメンバーとしてコンテストの企画・運営や審査員などをご一緒しました。国境・人種・職業さえも超えたアートを明石から世界へ、その思いを実現すべく2014年から始まりました。
兵庫県の明石市から世界へ向けたアートプロジェクトです。プロアマ問わず、業種や国籍も問わない。
美容師、ヘアメイク、特殊メイク、ネイリスト、主婦、学生、コスチュームデザイナー、スタイリスト、フォトグラファー、ビデオグラファーなど、表現するすべての人がエントリーできます。
作品のクオリティやオリジナル性が年々上がっていっていたのを今でもはっきりと覚えています。



審査員の方々も美容やヘアメイクに関わる方はもちろん、様々な表現を仕事にする方に来ていただき、それぞれの視点で審査をしていただきました。この審査の時間や皆さんの視点や思考にはいつも刺激をもらっていたのを覚えています。



受賞作品を見て刺激を受けるだけでも十分価値があります。もし少しでも心の中で「これ、自分ならどう表現する?」と感じたなら、思い切ってエントリーしてみるのもいいと思いますよ。
2025年より、HEAD ART PHOTO CONTESTからHEAD ART PROJECT Competitionに名称が変わりました。
Patch-Work-Life代表|インテリアデザイナー
丸井 康司さん
パッチワークや編み物などの手芸・ハンドメイドを通じ、高齢者と若者が楽しみながら交流できる「世代間コミュニケーション」を創出しています。
2012年、村上史博さんと丸井康司さんにより「patch-work」を結成。
ホテルや飲食店の内装デザイン、椅子や店舗什器などのプロダクトデザインで培った知識と経験を活かし、オリジナルデザインの制作と世代を超えたコミュニティ作りを得意としています。
神戸・大阪を中心に、パッチワーク教室や編み物教室を自主運営。ワークショップやイベントも多数開催し、手芸を媒介に人と人とをつなぐ場を生み出しています。


最初の出会いはPatch-Work-Lifeさんのトークイベントでした。世代間コミュニケーションに興味があり、どんな活動をしているのか聞きにいきました。男性2人が手芸?!というのもその当時はすごく新鮮で興味がありました。
トークイベント終了後、懇親会があり、そこで丸井さんと意気投合したのを覚えています。後にクリエイティブ・ディレクターとしてPatch-Work-Lifeのメンバーに。手芸教室の教材のアドバイスなどをさせていただいています。
本当、何がきっかけで繋がるか分からないですね。キックボクシングをやっていた頃「ビール瓶でスネを叩いていた」というストーリーが印象的だったとの事でした。そこから「レフェリー」と呼ばれています🦵

Patch-Work-Lifeでは、『あなたがパッチワークすれば、世界はもっと楽しくなる。』をテーマに、インテリアデザイナーとグラフィックデザイナーの目線で創りだすあたらしい「デザイン×パッチワーク」のカタチを発信しています。

デニムリメイクの書籍がPHP研究所様より出版されました。デニム特有の生地やステッチを活かしたアップサイクル本となっております。
書籍購入はこちらから。
今ではライフワークの一つにもなっている、高知県の砂浜美術館で毎年11月に行われる「潮風のキルト展」の審査員を3人でさせていただいています。
潮風のキルト展は、高知県黒潮町にある「砂浜美術館」で行われる、パッチワークキルトやクッションのコンテストです。「布を楽しむ!」というテーマのもと、全国各地から100点を超える作品が集まります。


一枚のキルトで変えていく。「第32回 潮風のキルト展」作品募集。
出会いは、いつも不思議で、貴重なもの。
どちらも、あの日、あの時、あの時間に動いてなければ出会えなかったと思います。
歯朶原さんも、Patch-Work-Lifeの丸井さんも、まったく違う分野で活動しているのに、不思議と“通じるもの”がある。それは「人と関わる仕事を、心から楽しんでいる」という共通点でした。
華やかさの裏にある努力や、技術の先にある“人の温度”を知っている。だからこそ、出会いが深く、印象に残るのだと思います。
そして、出会いが残すもの
ふとした縁で出会い、言葉を交わし、そこから新しい視点や企画が生まれる。出会いをきっかけに、思考が広がり、行動が変わる。その流れが積み重なって、今の自分の仕事をつくっている気がする。
偶然のようで、必然の出会い。どれも“これから”につながっていくような、不思議な手触りを感じています。
自社オリジナルブランド『toyro』| 「依頼される」から「生み出す」へ。
受注する仕事以外に自社オリジナルのブランドもつくりました。
toyro(トイロ)
十人十色のアソビゴコロとハッピーを!
ラクガキから生まれた1点モノの雑貨たち。

世界にひとつだけの個性的でユニークなおもちゃ(Toy)のようなアソビゴコロのあるハンドメイド雑貨。
ひとつひとつ丁寧に作られている『toyro』のアイテムはMADE IN JAPANにこだわり、デザイン、企画、生産、販売まですべて日本国内で行っています。
toyroの商品はノートの片隅に描いた、「ラクガキ」から生まれています。アートとかデザインとかそんな難しいものじゃなく、子どもの頃、夢中に描いていたラクガキ。好きな色だけいっつも減っていたクレヨン。「楽しい」は無敵だなぁと、今でも思うのです。



※現在は製造・販売終了
受注型デザインを離れて気づいた、自社ブランドをつくるということ
受注の仕事では、クライアントの目的や課題を起点にデザインが始まります。相手の要望に応え、最適な形を導く。そこにやりがいはありますが、どこか「自分の正解ではない」感覚も残っていました。
そこで始めたのが、自社オリジナルブランドの立ち上げ。
【toyro】は、「十人十色のアソビゴコロとハッピーを!」という小さな日常の提案から生まれました。初めてのブランドづくりは、まるで自分自身をクライアントにするような仕事でした。
自分の中に“依頼主”がいるという感覚
受注型の仕事では、常に「相手の想い」を汲み取ることを意識します。一方で、自社ブランドは“誰のために?”を自分で定義するところから始まります。
市場のリサーチやユーザー像の設定、価格決定や流通まで。これまで他者のために組み立てていたプロセスを、自分の信念と現実の間で組み直していく。
ここで感じたのは、「デザインとは経営の言語」だということでした。見た目を整える行為ではなく、“世界のどこに自分たちを置くか”を翻訳する作業。その視点を持つと、受注の仕事にも深みが出てきます。
つくることは、問うこと
ブランドを運営していくうちに、デザインの定義が変わりました。たとえばパッケージ一つ決めるにも、「誰が」「どんな時間に」「どんな気持ちで」使うのかを想像する。ロゴや写真、言葉、香り、手触り──すべての要素が体験としてつながっていく。
つまり、“つくること”は“問いを立て続けること”でした。
なぜこの形なのか。なぜこの価格なのか。なぜこのブランドで届けたいのか。その問いがあるから、デザインが意思を持ち始める。
受注とオリジナルは対立しない
toyroを始めてから、受注のデザインにも変化がありました。「売る」や「伝える」という課題の裏側にある“経営者の迷い”が、よりリアルに感じられるようになったのです。
ブランドを運営する側の苦労を知ることで、提案の言葉が実践的になった。
以前よりも“クライアントの立場で考える”ということが、身体感覚としてわかるようになりました。
受注型で培った「客観性」と、ブランド運営で得た「当事者性」。この二つを行き来することが、今の自分のデザインを豊かにしていると思います。
「手を動かす」から「世界を動かす」デザインへ
自分のブランドを持つことは、ゴールではなく、次の問いの始まりでした。
「デザインで何を変えたいのか?」
「どんな世界観を広げていきたいのか?」
クライアントワークでも、自社ブランドでも、問う姿勢は同じです。誰かの仕事を支えることも、自分の想いを形にすることも、どちらもデザインの本質に通じている。これからも“依頼される”と“生み出す”のあいだを行き来しながら、「デザインを軸に、世界を少しやさしくする」ことを目指していきます。
自社オリジナルブランド『YOGŪ』|つくる仕事と、育てる仕事のあいだで。

私の実家は、鹿児島県南九州市で知覧茶をつくる茶農家です。幼い頃から、季節ごとに変わる茶畑の色や、摘採の時期の空気感が身近にありました。お茶は特別なものというより、生活の延長線にある存在だったように思います。
父と一緒に仕事がしたい
独立して約10年、ふと「父と一緒に何か仕事ができないだろうか」と考えるようになりました。理由はとても個人的で、難しいものではありません。せっかく自分も“つくる仕事”をしているのだから、家業と重なる形で、何か形に残るものづくりができたらいいな。そんな素直な思いからでした。

そうして立ち上げたのが、知覧茶専門店 YOGŪ です。「よぐ」は、鹿児島の方言で“休憩する”という意味があります。(厳密には頴娃町の一部の地域、折尾集落の方言です。)
茶仕事の合間によく、父や母が「よぐにすっが」「よぐろか」と言っていました。小さい頃はその言葉がきっかけで「やった!おやつが食べれる!」と喜んでいたのを思い出します。
休憩するきっかけをつくるがコンセプト
忙しさの中で後回しにされがちな時間を、あえて手元に取り戻す。そのきっかけになる存在として、お茶を捉え直したいと考えました。YOGŪは、商品を売るためのブランドというより、問いをかたちにする場です。
今の暮らしにとって、休憩とは何か。効率や成果を求め続ける毎日の中で、人が立ち止まる余白はどこにあるのか。そうした問いを、デザインや言葉、体験として丁寧に組み立てています。
デザインの仕事と同じく、正解を急がず、手触りを確かめながら進める。父が育てた茶葉と向き合いながらブランドをつくる時間は、私自身の仕事の姿勢を、改めて言葉にする機会にもなりました。
どう生き、どう働くか
YOGŪで向き合っているのは、お茶そのもの以上に、「どう生き、どう働くか」という感覚です。だからこのブランドは、私のクリエイティブや経営の考え方と、切り離せない場所にあります。

向き合う視点、判断の仕方が変わる
YOGŪを続けているからこそ、クライアントと向き合うときの視点も変わりました。誰かのブランドや事業をつくるということは、短期的な成果だけでなく、時間をかけて育っていくプロセスを引き受けることだと、以前より実感しています。売上や反応の先にある「続けられるかどうか」を、自然と考えるようになりました。
また、自社ブランドを持ったことで、判断の仕方も変わりました。正解が見えないまま決めなければならない場面や、立ち止まる勇気が必要な場面を、何度も経験してきたからです。
完璧な選択よりも、理由のある決断を重ねること。うまくいかなかったときに、どう修正し、どう続けるかまで含めて考えること。その感覚は、クライアントワークにもそのまま活きています。
誰かの代わりに決めるのではなく、一緒に悩み、考え、判断を引き受ける。
YOGŪで向き合ってきた時間が、私の仕事の姿勢を、より確かなものにしてくれました。


いま、あの頃のわたしと同じように迷っている誰かへ
焦らなくていい。
でも、止まらないでください。大きな一歩でなくていい。ほんの少しでいいから、動き続けてほしいと思っています。
どの方向が正解かなんて、後からしか分かりません。遠回りに見えた時間や、うまくいかなかった選択が、あとになって判断の軸になることもあります。私自身、そうやってここまで来ました。
デザイナーの道に「正解」はありません。だからこそ、今つらさを感じている人にも伝えたい。その時間は、決して無駄にはならないということを。
波は、必ずまた来ます。
大切なのは、その瞬間に立っていられること。判断できる自分でいること。引き受けられる場所にいること。
そのとき、あなたが“のれる”準備が、静かに整っていますように。
株式会社オンドの社名について

弊社の社名に忍ばせた“オンド”は、単なる語呂合わせではなく、仕事の姿勢そのものを映した言葉でもあります。
温度と音頭。この二つが混ざると、プロジェクトには不思議な「体温」と「リズム」が生まれます。鼓動や振動、響いて動かす、動く。 祭りの太鼓の音。空気の揺れ。一気に高くなる体温。
デザインの現場では、良いものほど温度があります。手触り、匂い、湿度のようなものが宿り、関わった人の体温が仕上がりにうっすら滲みます。
そこに、音頭。つまり進行のリードが加わると、プロジェクト全体がひとつの踊りのように流れ始めます。間の取り方、テンポの揃え方、迷いが出た時の手の引き方。ディレクターの仕事は、音頭取りのように場をあたため、前に進むリズムをつくることだと考えています。
「オンド」という社名には、ディレクションで音頭をとり、デザインで温度を上げる。関わるチームの動きを整えていく。そんな意志を忍ばせています。プロジェクトは機械的な工程ではなく、呼吸のある共同作業です。その呼吸を整え、体温を上げながら前に進める存在でありたいという願いが、この名前に込められています。
ブランディング、ビジュアルデザイン、コミュニケーションを通して、見た目以上に“伝わる”もの、“残る”ものを、私たちはつくり続けます。
PHILOSOPHY
温度をもった生きたデザイン
ディレクションで音頭をとり、デザインで温度をあげる。
私たちは、ブランディングやビジュアルデザイン、コミュニケーションを通して、見た目以上に“伝わる”もの、“残る”ものをつくり続けます。
もし、さらに知りたい方がいらっしゃいましたら、私たち株式会社オンド のウェブサイトもご覧いただけると嬉しいです。ぜひお立ち寄りください。

PROFILE
折尾祐希 クリエイティブディレクター・コピーライター
株式会社オンド 代表取締役
大阪・梅田を拠点に、事業とブランドの軸を骨太にする。導き手&伴走型。デザイン業界20年以上。引き算の美学とその裏側の泥臭い思考プロセスを綴っています。
HP:https://ond-ond.com
EC:https://yogu.jp/
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