見出し画像

ゴーギャンを待ちながら#10『繋がる記憶』


昨日から何を食べても味がしない。
それでも朝食をすませ、いつものように薬を飲んでいつものように家を出る。
図書館へと続く坂道。
一歩また一歩と踏み出すたびに、考えたくないことだけが、頭の中で増えていく。

スマホを見ても着信はない。

でも今日は土曜日だ。
午後にはきっと会える。
その時ちゃんと聞こう。
聞けるはず。
聞かなくては。


図書館の窓際の席。
窓の外の陽射しはとっくに夏めいているのに、館内の空気はひんやりと肌に沈む。
時計の針は静かに、でも確実に進んでいるのに
私はさっきからずっと同じページを見ている。
文字が頭に入って来ない。


「俺は知っている」


理人の言葉が何度も頭の中で繰り返されて。
その声が壊れたテープのように巻き戻される。

何を知ってるの?
どうしてあんな顔をしたの?


参考書を閉じて図書館を出ると、少しだけ雨の匂いがした。
スマホを取り出しLINEを開く。
通知のない画面を閉じて、また開く。


《昨日のこと、ちゃんと聞きたい》

文字を打って、消して。
もう一度打って、消した。

理人に会おう。
会って確かめよう。
そう思っていたのに。
私が絵画教室のドアノブに手をかけた時には、もう授業が終わってだいぶたった頃だった。




理人のいない教室で、母が一人テーブルいっぱいに領収書や書類を広げていた。
見た目とは裏腹に、片付けものや整理整頓が苦手な母は眉間に深いしわを寄せている。

「何か手伝う?」
「ありがとう。そうしたら画材屋さんの領収書と生徒さんの申込書、それと光熱費を分けてくれる?」
「わかった」


テーブルに座って仕分けを手伝っていたとき、机の端に見慣れた名前が目に入った。

魚住理人。


茶色い紙のファイルには「アシスタント関係」と母の字で書かれている。
「これって」
「それ? 理人君の留学前までの契約書類。9月で終わる予定だから」
領収書を揃えながら母は答えた。
私はそっとファイルを手にとる。


名前。
連絡先。
そして住所。
その二文字になぜか目が止まった。


中野。



「おかあさん」
「なに?」
「お父さんの最後の学校ってどこだっけ?」
母は領収書から目を上げずに答えた。
「宝泉学園よ。中野の」


頭の中で何かが弾ける。


「どうかした?」
「なんでもない。ただ聞いただけ」
声が震えないようにするのが精一杯だった。



部屋に戻り宝泉学園の地図を検索する。
宝泉学園は中野坂上の駅から程近い高校だった。
そして学園と駅までの道に小さな公園が一つ。
塔の沢公園。


その名前を胸に刻む。
知るのが怖い。
でも知らないままでいることはもっと怖い。
ゆっくりと息を吐く。


父の命日と理人の誕生日。 
父の最後の勤め先の近くにある小さな公園。

スマホを取り出す。
何度も打っては、消した。
そして最後に残った文字。



《公園で待ってる》
送信ボタンを押した。




       *                 *  


コーヒーの香りが漂うスタバの前を通り過ぎ、床の明るいモザイクタイルを目で追いながら駅の地下通路を歩いていく。
呼吸するたび胸の奥が少しつかえた。



その公園は中野坂上の駅から歩いてすぐ、住宅地の中の小さな公園だった。
夏の初めの公園はまだ少しだけ空気が重たくて、
蝉の声も子供たちの笑い声も、ブランコの軋む音も耳に遠い。


滑り台は思っていたよりずっと小さかった。
青い螺旋の塗装が剥げて、ところどころ地の色が覗いている。
父の絵の中の青は、もっと鮮やかな青だった。
桜の木の横には古い時計があって、同じくらい古い木のベンチが見えた。


その時、ベンチの人影に気づく。
誰かがこちらを見ていた。
灰青色の髪が風に揺れている。


ほんの数日会わなかっただけなのに、頬の色がすっかり抜けて、痩せたわけではないのに輪郭だけがやつれて見えた。


そこからは一本の大きな桜の木が見えた。
黄緑色の若葉が光を受けて透き通っている。
この緑も理人の目には灰色に映るのだろうか?
あの小さな滑り台の青も。
遠い日の記憶が繋がる。

なにも言わず、理人の隣に座った。



どのくらい時間がたっただろう。
まるで目の前の桜に話しかけるように、理人が静かに話し始めた。



「10年前、ここで初めて会ったとき、あの人は写真を撮ってた。でも撮ってたのは桜じゃなくて滑り台の下に落ちる影とか、風で揺れてる木の影とか。変な人だなって思った。それから僕の隣に座って、スケッチを始めたんだ。
『影なのに黒くないんだね』そう言ったら
『暗いところにもちゃんと光があるんだよ』って。
あの人の影は沈まなかった。暗いのにちゃんと光が残っていた。君の絵と一緒だ。どうしてもっと早く気づかなかったんだろう」


理人の言葉が緩い風に乗って、私の耳に落ちてくる。


「二度目に会ったとき、僕はここで桜を描いてた。
満開の桜の花びらが雲みたいだった。その頃の僕は、もう描くことをやめていて。でもあの人の絵を見たら描きたくなったんだ。その人は隣に座って、僕の絵を見つめていた。不安になって『やっぱり変?』って聞いたら『どうして?』って」

どうして?

みんなと違うから。
でも、君にはそう見えたんだろう?
うん。
ならそれでいい。

「そう言ってその人は笑ったんだ」



ならそれでいい。

父の声が聞こえた。
全ての音が遠ざかる。
鳥の声も、風の音も。


「もう少しだけ、一緒にいたかった。だからその人がベンチから立ち上がった時、つい言っちゃったんだ。『今日は僕の誕生日なんだ』って」


理人の声は震えていた。

「その人はちょっと驚いて、それから『そうか。おめでとう』って嬉しそうに笑った」


風が吹く。
ブランコが軋む。


「『じゃあ、二人で一緒にアイスクリームを食べよう。少し待ってて』そう言って道路を渡って行った。僕は嬉しくて、スケッチの道具を片付けてブランコをこいで待ってた。その時、すごく大きな音が響いて、誰かの叫んでる声が聞こえて。公園を出てすぐの、コンビニ前の道路に人が倒れてた」



「車が、僕の目には灰色に見える車が、タイヤの音を軋ませて走り去っていった。あの人の体の下から流れる色が、赤なのか黒なのか、僕にはわからない。道路脇にはソフトクリームが二つ転がっていて。僕はその潰れたソフトクリームが溶けてくのを、ただ見てただけ」



ブランコの影が地面に長く伸びている。
風が強く吹いた。



「俺がこのベンチで君のお父さんと過ごした時間は本当は君のものだったのに。ごめん。もう返せない」


もう返せない。
理人の言葉を何度も繰り返す。

もう返せない。
もう返せない。

だけど、
何度頭の中で繰り返しても、その言葉はカタチにならなかった。




ブランコのそばでは、まだ帰りたくないと子供がぐずっている。
灯りが灯り始めた公園。
暗い影を落とした桜の葉が風に揺れている。
喉元までせり上がっていた言葉は、凍りついたままだった。



理人の顔を見ずに公園を出た。
さっき来た道を一人で戻る。



理人を責める言葉は見つからない。
でも、父の最後の時間は私の知らない公園で、知らない少年のために使われていた。



待っていた。
ずっと待っていたのに。

そんなの、ずるい。



公園を出るまで、私は一度も理人を振り返ることができなかった。



[次のお話↓]


#創作大賞2026
#恋愛小説部門
#恋愛小説
#恋愛小説が好き

いいなと思ったら応援しよう!

この記事が参加している募集