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ゴーギャンを待ちながら#11『オレンジと赤と少しだけ紫』


誰もいない家。
靴を脱いで廊下を歩くとやけに広く感じた。
アトリエのドアノブに手をかける。
でも、入れない。
父の絵を見るのが怖かった。
理人があの夜見た、描きかけの桜。
あの時の理人の顔。


父と行った公園。
父と行った美術館。
Nikon D5300のカメラ。
私と父の記憶の中に理人がいる。
消したい。
でも消せない記憶。


私はなんて言えばよかったんだろう。
あなたが謝ることじゃないよ。
あなたのせいじゃないよ。
あなたは何も悪くない。


でも言えなかった。



「瞳子?」
振り返るとケーキの箱を持った姉が立っている。
私の好きなチーズケーキ。
卵アレルギーだった私のために、いつも姉が買ってきてくれたケーキ。

「おねえちゃん」

涙が溢れた。



姉の部屋のベッドカバーは海のような青色だ。
その上に色褪せたイルカのぬいぐるみが無造作に転がっている。
確か子供の頃、鴨川シーワールドに行った時、姉が父にねだって買って貰ったぬいぐるみだ。
そういえば姉は昔、イルカを研究する人になりたいって言ってたっけ。
マットなシルバーのデスクライトが机の上のノートパソコンと医学書を照らしている。


「いつもは病院の夕ご飯を食べ終わるくらいまでにはお父さん、瞳子の病室に来るのにあの日は来なかったんだよね」


その日は春休みで、姉は母と病室に来ていた。
今日は新学期の準備だけだから早く帰れそうだと言っていたのに、それなのに父はなかなか来なかった。

待ちかねた私が母にせがんで電話をかけてもらおうとした時、母のスマホに見知らぬ番号から着信があった。
母の顔はこわばり、みるみる青ざめていく。
姉の手を引いて母が病室をでていってからのことは、余り良く覚えていない。
病室の窓から、夕日に染まった満開の桜が見えていたのを覚えている。

その夜、私は熱を出した。
気がついた時には父の通夜も告別式もみんな終わっていた。



さよならも言えなかった。
だからなのかもしれない。
まだ父はどこかにいるような、ある日突然「ただいま」って笑って帰ってくるような、ずっとそんな気がしていた。
最後まで黙って私の話を聞いていた姉は、ゆっくりと大きく息を吐く。


「瞳子はさ、お父さんは魚住くんのせいで事故にあったんだと思う?」

海のような青いベッドカバーにまた涙が落ちる。
もう泣かないって決めたのに。


「もしも公園で二人が会わなかったら。もしもお父さんがベンチに座らなかったら。もしも理人くんが誕生日だよって言わなかったら。そう思うけど」
姉はそう言うと、ベッドの上に転がっていた青いイルカを乱暴に抱き寄せる。


「でもさ、神様だってわからないよ。もしもの先はわからない。だからさ、自分の気持ちが落ち着く場所、納得できなくてもとりあえず落ち着く場所、それを見つけるしかないよ」


「そんな場所、見つかるのかな」

「その場所を探すのは瞳子だけじゃないから。
私も、お母さんも、魚住くんもみんなだよ」

姉は青いイルカをぞんざいに私に差し出した。
「今晩、私のカイトン貸してあげる」


何度も洗濯されて、随分とくたびれたイルカ。
色褪せた青いぬいぐるみ。
子供の頃、イルカを抱えて眠る姉の隣で、私は父と空の星を数えながら眠ったっけ。



お父さん 死んじゃったんだね。
本当に死んじゃったんだね。
でも、さよなら言ってないよ。
私だけ、さよなら言ってない。





理人のインスタは見れなかった。
LINEも開けなかった。
スマホの画面を伏せて引き出しにしまった。



         ***


7月は静かに過ぎていく。

試験の勉強をして。
絵を描いて。
わらしにごはんをあげて。
夜は明日のタイマーを7時にセットして、灯りを消す。
小さい頃、よく怖い夢を見た私は泣きながら起きて、夢だとわかってホッとした。
ああ、良かった。
夢だったんだ。
あの時と同じように全部悪い夢だったらいいのに。
そう願っても、毎朝目覚まし時計が鳴る前に目が覚めた。




8月の第1週。
理人たちのグループ展が開催される前の週。
私の高校卒業認定の試験日だった。

その日、試験会場の大学の教室には10代から社会人まで様々な年代の人がいて、私と同じくらいの世代の子もたくさんいた。
緊張していたり、普段の感じだったり。
みんなそれぞれの選択をして今日ここに来たのだろう。
自分の受験番号の貼られた席を確認して座る。
筆記用具を出して、最後に受験票をもう一度確認して深く息を吸った。

大丈夫。
手は震えていない。
壁の時計は9時29分を指していた。
目を閉じて試験開始の合図を待つ。
もうすぐ試験が始まる。




         ***



信号待ちで立ち止まると昼間の茹だるような暑さが肌に纏わりつく。
恵比寿駅からは少し歩くだけなのに、とても遠く感じた。

【アンバランス展】


行かなくてもいい理由はいくらでも浮かぶのに、
来てしまった理由が上手く言葉にならない。
坂道の上に建つ白い一軒家。
ドアノブに伸ばした手がとまる。
開けてしまえばもう、忘れたふりはできなくなる。
それでも、背中を向けて帰りたくはなかった。
目を閉じてドアノブを握りしめる。


その白い扉を開けるとコーヒーの香りがした。
カフェに併設されたギャラリー。
カウンターの中でレイが手を振る。

「やっと来た!」

今日のレイは極彩色のシャツを着ていて、動くたびに目がチカチカする。
「今日のテーマはね、色彩の悪魔なの」
そう言って悪戯っぽく笑う。
いつも通りのレイだ。

カウンターの席で珈琲を飲んでいる若い男性と、
絵を見ている年配の女性がいる。
今の時間はレイしかいないのはインスタで知っていた。


白い壁が四面。
思ってたより狭くて、その分距離が近い。
それぞれの壁に三枚ずつの絵が展示されている。
一番奥の壁に展示された絵は、中央を大きく外して不規則に三枚並ぶ。
色の境界が曖昧で崩れかけているのに中心が強い。

理人の絵だ。
白い壁だけが静かだった。
どの絵もガレージで見た時とは違う生き物みたいに呼吸している。


細い麻紐にクリップで数枚の写真がとめられている。
ガレージで回る扇風機。
レイの横顔。
賢太郎の背中。
筆を持つカイの手。
理人の足元に落ちた群青の絵の具。


全部私が撮った写真だ。
あの時、確かに私もそこにいた。
色が、匂いが胸に押し寄せる。



最後の一枚。
雲の隙間から溢れた光が海に落ちて輝いている。
その、光る海を撮る私の横顔。
理人が撮ったあの日の私。



レイは買ったばかりの烏龍茶のボトルを取り出すとコップに注ぎ、カウンターの上に置く。
「瞳子ちゃんはコーヒー飲まないからって」
誰から聞いたかレイは言わなかった。
「ねえ、感想聞かせて」


懸命に言葉を探す。

「見てると苦しい。気持ちがザワザワして。それなのにずっと見ていたい。不安で怖いのに、目が離せない。よくわからない違和感がずっと胸に残って…ごめんなさい。上手く言えない」

「私たちのアンバランス。そんなふうに伝わったんだね。嬉しい」
「感じたこと、もっとちゃんと伝えたいのに」
「伝えるって難しいよね」
「今日はレイさんに会えて嬉しかった。みんなの作品も見れて良かった。ありがとう」


出口に向かう私の背中にレイの声が響く。
「カイと賢太郎がね、今度は自分もアップの写真撮ってくれって」

「それから」
レイは何か言いかけて、小さく笑った。
「なんでもない。またね」




歩道橋の階段を上る。
西の空は薄い橙色に染まり始めていた。
車の列が赤いテールランプを繋げながらゆっくりと流れていく。

橋の上に人影があった。
手すりにもたれて遠くを見ている。
次の瞬間、その髪が夕陽を受けて淡く光った。
白に近い灰色の中に淡い青が滲んでいる。
踊り場に足を踏み出すと、古い鉄板が微かに軋んだ。
振り向いた人影を夕陽が照らす。



「来てくれてありがとう」
久しぶりに聞く理人の声。 

両手を手すりに置いて、隣にならぶ。



「さっき薫子先生のところに行って挨拶してきた。これ、先生から君に渡して貰おうと思ってたんだけど、レイから連絡があったから」
一冊のスケッチブックを差し出す。

「誕生日プレゼント。少し早いけど」

大きなポケットならすっぽり入ってしまうような小さな赤いスケッチブック。
指で触るとクリーム色の薄い紙質が滑らかだった。


「ターレンスのスケッチブック。絵を描く手帳って呼ばれてる。小さいから持ち歩けるし、描きたくなったらサッと描いて絵日記みたいに使えるから便利なんだ」

そう言うと、自分のバッグから同じスケッチブックを取り出した。
ハードカバーの黒い表紙を開くと、デッサンや水彩画がぎっしりと描き込まれている。

「一冊で八十枚描ける。180度開くから見開きにしても描けるよ」

これを何冊描き終えたら、理人は戻ってくるのだろう。



「どうしてあんな絵が描けるの?」
さっき見たばかりの理人の絵が、まだ脳裏に焼きついていた。


「見えてないからかも」
青灰色の髪が夕陽に霞む。


「あの夕陽ってさ、どんな色?」


今、私の目に映る夕陽。
その色を理人に伝えたい。
でもわからなくて。
差し出せる言葉が見つからなくて。



「オレンジと赤と、少しだけ紫」
「そっか」
理人はもう一度空を見上げた。

「綺麗だね」



高層ビルの谷間に太陽が沈んで、空はもう群青に近い。
紫みを帯びた深い青。

「出発はいつ?」
「来週の水曜日。朝の便」


言いたい言葉はたくさんあるのに。
でも心が届かない。


「俺、君のお母さんに手紙を書くよ。少し時間はかかるかもしれないけど。ちゃんと伝えるから」


伝えよう。
私も。
全部でなくてもいいから。


「返さなくていいよ」
「え?」


「理人くんとお父さんが過ごした時間だから。
だから、返さなくていいよ」




理人は何も言わず、ただ私を見つめていた。
西の空にはもう群青しか残っていない。





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