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ゴーギャンを待ちながら#12『青いイルカ』


私の愛車、マツダ2の中の空気はお世辞にも良いとは言えない。中古で買った濃紺ボディは走りもよくて気に入っているのに。


助手席の祖母の膝の上には茶色のボストンバッグがひとつ。後部座席の母の膝の上にはおひつに入った赤飯と白い封筒。
封筒には「高等学校卒業程度認定試験合格通知在中」と漢字満載で印字されている。
そして母の隣に座る妹の膝の上にはケーキの箱。
人気のパティスリーで、1時間ほど前に私が買ってきたアールグレイのsoyチーズケーキだ。


広尾の商店街から一本入ったところにあるこの小さなお店のケーキはビーガンなので、卵アレルギーだった妹のために昔からよく買っていた。
ここだけ見ると「家族みんなで車に乗って、嬉し楽しのピクニック」に見えなくもない。
もっとも今は夜だけど。
そして嬉しくも楽しくもない。


そもそもこんな状況になったのは祖母の夫、つまり母にとっては父、私と瞳子にとっては祖父のせいだ。
老舗の和菓子屋に婿養子に入った祖父の雅彦は20年ほど前にフラリと家を出て、そのまま帰らなかった。ずっと音信不通だったが、どうやら生きていたらしい。
どういう経緯かわからないがこの半年、祖母は祖父の入院する病院に通っていた。
母は何も語らない。


それなのに今夜、私たちが向かう先は祖父が入院している武蔵小金井の病院だ。
武蔵小金井は祖父の生家があった場所らしい。
今日は妹の合格通知が届いた、めでたい日だったのに。
私がケーキの箱をぶら下げて玄関の前の飛び石を歩いていた時、ちょうど3人が玄関から出てきたところだった。


「薫子さん、よく行く気になったわね」
よせばいいのにあーちゃんが嫌味を言う。
私たち姉妹は子どもの頃から祖母のことをあーちゃんと呼んでいる。

「瞳子ちゃんのお祝いにお赤飯を炊いたのよ。今日炊いたお赤飯は今日食べなくっちゃ」
床に落とした食べ物の3秒ルールと同じくらい謎のルールだ。
「だから私一人で行くっていったじゃない」
「あーちゃん一人でなんて行かせられないよ」
瞳子は何気に優しい。
車のナビに住所は入れてあるけれど、初めて走る夜の道はやっぱり少し緊張する。



宮下公園から井の頭通りに入った。
バックミラーに、おひつから赤飯を紙皿によそう母の姿が見える。
湯気はもう消えていたけれど、小豆の甘い香りがほんのりと車内に漂った。
母は割り箸を添えて瞳子に渡す。
「瞳子ちゃん、合格おめでとう」
「ありがとう」
そういえば私も空腹だったことを思い出した。

「お母さん、私もお赤飯」
「景子ちゃんは運転してるでしょ。帰ってから食べて」
「おねえちゃんは病院に着いたら食べれば」
「危篤の人の病室で赤飯はまずいでしょ」
「あら、誰が危篤?」
「え? 危篤だからあーちゃん駆けつけるんじゃなかったの?」
「ここ数日でだいぶ認知症が進んじゃったみたいなの。だから私のことを忘れてしまう前に会いに行くのよ」


狭い車内に不穏な空気が漂う。
これはひょっとして、なかなか病院に行かない母を連れ出すためのあーちゃんの作戦?
それでも。
母には何かのきっかけが必要だったのかもしれない。


「それから、あなたたちのお祖父さんの前では、私のことはアーニャって呼んでね」
「あーにゃ?」
「あーちゃんじゃなくて?」
「チェーホフの桜の園の主人公の娘の名前よ。私が演劇部で演じた役。病室で私のことをずっとアーニャって呼ぶの。とっても嬉しそうに。彼はいつも最後列から、誰よりも綺麗に私を照らしてくれたわ。映像の仕事をするのが夢だったから」


若く美しい祖母にライトをあてる、照明係だった若き日の祖父。
その後ろ姿が不意に目に浮かんだ。

「深い喜びが、まるで夕方の太陽のようにあなたの胸に差し込んできて、きっとニッコリお笑いになるわ」
祖母が歌うように言う。
「今度はなに?」
「アーニャの台詞よ」
母がぽつりと呟いた。




妹の瞳子は小さい時、体が弱かった。
だから父の背中はいつも瞳子の特等席だ。
3人で遊んで帰るときも、病院に行く時も。
そんな妹に「よわっち」とあだ名をつけて両親に大目玉をくったことがある。

妹が8歳の時、感染がもとで臓器の働きが悪くなる病気になってICUに入ったときには母はずっと泣いていた。
私は可愛げのない子どもだったので神様なんて信じていなかったけれど、生まれて初めて神様に祈った。

「妹を助けてください。必ず恩返ししますから」


その甲斐あってか、妹は助かった。
神様はいたんだ。
これからは私も一緒に絵を描こう。
美術館にも一緒に行こう。
そう思ったのに。

神様は父を連れて行ってしまった。
ちっとも当てにならない。


それからずっと。
みんな心の落としどころを探している。
重い荷物を抱えて。
持ちきれなくなって捨てて。
また拾っては抱え直して、どうにかバランスをとってる。



ねえ、瞳子。

深い海の底から見上げた水面は、きっとゆらゆら揺れるガラスみたいに綺麗だろうね。
その向こうにはきっと光の輪があって。
その光の輪の中に、みんなで泳いでいけるといいね。
私の青いイルカ、カイトンも一緒に。
白い花のような飛沫のなかに。




車は甲州街道から小金井街道に入った。
祖父のいる病院まであと少しだ。



[次のお話↓]



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