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ゴーギャンを待ちながら#13最終話 『こころの色』



緑に囲まれたキャンパスは、白い壁と大きな窓が印象的でどこか新宿の美術館に似ている。
キャンバスが立ち並ぶ教室を出ると、隣の油画専攻のクラスの子が「おつかれ」と手を振った。
私も小さく手を振りかえす。
どこからか、金属を削る音や木を削る匂いが風に乗って流れてくる。
専攻の境界線はここでは曖昧に溶けている。


リュックを背負って広い階段を降りるとガラス屋根のある広場はまだ風が冷たくて、急ぎ足で駐輪場に向かった。
信号待ちで目を上げると緑の向こうに低い屋根が続いていて、ここが東京ではないことを思い出す。
この景色にも少しずつ慣れてきた。


学生会館のワンルームの部屋に戻り、今日描いたクロッキーを壁に貼る。
テーブルに置いた画用紙の中から、あの日何度も輪郭をなぞった理人の顔が私を見ている。
その横には去年の夏に渡された赤いスケッチブック。
気づけばもう、4冊目になっていた。

窓を開ける。
部屋にこもった油絵具の匂いが夕方の風に薄れていく。
シンプルなベッドの向こう、隣の建物の屋根越しに金沢の夕焼けが広がっていた。




私の第1志望が東京の美大ではなく、金沢の美大だと知ったとき母も祖母も随分と驚いていた。
「 瞳子さん、ご飯はちゃんと食べれるの?」
が祖母の第一声。
無理もない。
半分引きこもりだった私が家を出て、地方で1人暮らしをするなんて私自身信じられないくらいなのだから。

「すべりどめは受けない」
「入学できるまで諦めない」
「大学にかかる費用はこれからのアルバイトと、今まで貯めた貯金で。足りない分は分割で返す」
そう告げると
「頑固ねえ。誰に似たのかしら」
そう言いながら、母はどこか嬉しそうだった。


「顔の作りには法則性があるの。全ては比率よ」
そう言って、私の描くデッサンに毎日夜遅くまで付き合ってくれた。



窓ガラスから差し込む白く薄い光が冬を知らせる頃、石膏像のデッサンをしながら母に尋ねたことがある。

「魚住くんからの手紙、届いた?」
留学に行く前、最後に会った恵比寿の歩道橋で理人は母に手紙を書くと言っていたから。


「ええ。届いたわよ」
「なんて書いてあったの?」
「教えない。だって私が貰った手紙だもの。ラブレターは人には見せないでしょ?」
「ラブレターじゃないし」
「ラブレターよ。とても長いラブレター。どうしても知りたければ、いつか理人君に聞きなさい」


理人が書いた長い手紙。
彼は何を綴ったのだろう。  


「瞳子ちゃんは都立藝術大学に行きたいんだとばっかり思ってたわ」


きっかけは、たまたま見たオープンキャンパスの動画だった。
吹き抜けのロビーで行われている小さな展覧会では、教員が学生一人一人にゆっくりと話しかけていた。
奥のアートギャラリーの金属の棚の上には、長い時間をかけて集められた工芸の名品が静かに並んでいる。
キャンパスの学生は東京よりずっと少なくて、それぞれが自分のペースで歩いていた。

誰も急いではいなかった。
動画の中、白い紙を前に黙って座っている学生を見たとき、心の中に何かが灯った。


上手く描けなくてもいい。
そのままでいい。
ここには私と同じ呼吸のリズムが流れている。
ここでなら自分のリズムで歩いていける。
この大学で絵を描こう。
私だけの絵を探そう。




「瞳子ちゃん。私も手紙を書いたの」
「理人くんに?」
「そう。それからあなたのお祖父さんにも」

母はあれからも、私や姉には祖父のことは多くは語らない。
たぶん、母親ではなく娘であった頃の悲しい気持ちが伝わることが嫌なのだろう。
でもその優しさが母を寂しくさせるなら、その寂しさをいつか受けとめられるようになりたい。




食堂で夕食を済ませ部屋に戻ると、床に置いた小さなイーゼルの前に膝を折って座る。
桜の枝と重なり合う花弁を描いた薄い線は、東京を出る前に青い滑り台のある公園で描いたスケッチだ。
チタニウムホワイトとほんの少しのカドニウムレッド。
ナイフで混ぜると白の中に淡いピンクが筋のように残る。
白いキャンバスの下絵に色を乗せようとした時、スマホが震えた。


景子が撮ったわらしの写真。
でも白くて長い尻尾しか写っていない。
昨日はピントがボケた不機嫌な横顔だった。
その前は走り去る後ろ姿。
そろそろちゃんと写ったのが欲しい。




その時。
もう一度スマホが震える。


《そっちはどう?》
《ちょっとだけホームシック。わらしに会いたい》
送信。

《わらしかよ》
《そっちはどう?》
送信。


あの歩道橋で、私たちは「さよなら」は言わなかった。
でも約束もしなかった。
それでも。


一枚の写真が届く。


夜空の山々を跨ぐうねるような白い光。
無数の星が、プルシャンブルーのチベットの空に流れるように広がっている。
その片隅に一つ、強く光る小さな星。

キャプションにはただ、
《スピカ》
とだけあった。




私はこの星を知っている。
母の寝室に飾られた父の描いた一枚の絵。
母が今も眠りにつく前に見る空の川。
その中で輝く星。
乙女座の一等星。
スピカ。


昔、母に尋ねたことがある。
「一番好きな絵だったら、リビングに飾ればいいのに」
「夜眠りについて、もう二度と朝を迎えることがないとしても、最後に見たのがこの絵だったら幸せでしょう?」
頬をゆっくりと引き上げて、母は少女のように微笑んだ。



私はどんな絵を見たいだろう。
あの日、美術館で見た『ひまわり』のような絵?
それとも。


《今、髪の色は何色?》
送信。
《秘密》

《教えて》
送信。
《天の川みたいな色》


理人から送られてきたチベットの星空に、かつて父の描いた天の川が重なる。
今、理人の瞳に映る星は何色だろう。




色には名前があると思っていた。
赤とか青とか緑色とか。
みんな同じように同じ色の名前を呼んでいる。
でもあの年の夏。
始まりかけた夏の少しだけ風の強い日。
理人と見た小さな公園の青い滑り台は、記憶の中の青と少しだけ違って見えた。
桜色のキャンパスに遺された、私だけが知っている青。



パレットに出した灰桜色に少しだけ青をたす。
まだ名前のつかない色が重なっていく。



[次のお話↓]


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