ゴーギャンを待ちながら #9『悪い予感』
乾いた絵の具の欠片やひしゃげた紙コップを踏まないよう気をつけて、ガレージの中に入る。
「いらっしゃい!」
レイの声が響く。
賢太郎は片手をあげ、カイも何か言ったみたいだけど声が小さくてよく聞こえなかった。
「これ。良かったら」
近くのコンビニで適当に選んだ飲み物やサンドイッチ、スナック菓子を賢太郎に渡す。
ガレージの中は暑いので、スプーンを使わなくてもいいソフトクリームも差し入れた。
「こんなに? ありがとう。助かるよ」
それぞれが好きなものを選ぶ中、理人にソフトクリームを差し出す。
「溶けちゃう前に」
チラリと見ただけで彼は受け取らなかった。
「こっち貰うね」
そう言って缶コーヒーを手に取った。
「理人はソフトクリーム嫌いなんだよね。だからもーらいっと」
私の手の中で行き場を無くしたソフトクリームをレイが手にとった。
「甘党なのにソフトクリームが嫌いとか、変わってるよね」
「ほっといてやれ。個人の嗜好なんだから」
「変わってるから変わってるって、言っただけだもん」
「だったらレイの方が変わってる」
「はいはい! そこ!ケンカしない」
いつもの光景だった。
彼を除いては。
理人は笑っていなかった。
缶コーヒーを開ける自分の指先を見ていた。
みんなから一歩離れたところで。
「そこの赤、ちょっと塊っぽくなっちゃうな」
「ライトの位置変えようか?」
賢太郎が向きを変える。
「どう?」
「いいんじゃない」
「僕のは光強くしないで。シャッター遅めで」
「オッケ」
理人が手に持つカメラは父と同じNikon D5300だ。
使い込まれたボディの傷跡まで良く似ていて、
ちくりと胸が痛む。
「DMの配置さ、均等に並べるのやめない?瞳子ちゃん、どう思う?」
いきなりレイに振られる。
「えっと、少しだけ凸凹な感じで。余白がずれる感じ、とか」
「こんな感じ?」
「あ、いいね」
「今日のインスタあげるからフォローして。過去の作品も見てね」
今までは使うことがなかったアカウント。
でも、削除しなくてよかった。
「おまえら、午前の造形理論遅れんなよ!」
賢太郎の声に送られて夜、ガレージを出た。
「理人、瞳子ちゃんヨロシク」
「大丈夫。一人で帰れるから」
「いいの。いいの。なんかあったら瞳子ちゃんママに叱られちゃう」
「でも」
理人はもう歩き始めていた。
その背中を半歩遅れて追いかける。
外の空気は思ったよりひんやりしていて、ほてった頬に気持ちいい。
夜の中に少しだけ不安が溶けていく。
「なんか羨ましかったな」
そんな言葉が思わず口に出る。
理人が小さく首を傾げた。
「みんな自分の描きたいもの、ちゃんとわかってるから」
「瞳子ちゃんの一番描きたい絵ってなに?」
「私は、まだよくわからない」
ずっと父みたいな絵が描きたかったけど。
「そっか」
そっか。
理人の口癖だ。
「小さい時は何描いてたの?」
「恐竜とか怪獣とか飛行機とか。瞳子ちゃんは?」
「猫」
「わらし?」
「わらし、まだ2歳だし。近所の野良猫とか」
「猫派なんだ。俺は犬派。どっちも可愛いけど」
そういえば、理人はちょっとだけシベリアンハスキーに似てるかも。
「理人君の一番描きたい絵ってなに?」
「俺? 俺はそうだな。ずっと探してる」
「ずっと?」
「そう。ずっと」
「見つからなかったら?」
「泣くな」
「泣くの?」
「だって怖いだろ」
そう言って可笑しそうに笑う。
理人が探す、
まだ見えなくて届かないもの。
アスファルトから立ち昇るぬるい風が初夏の濃い匂いを運んで、白線には月の光が落ちている。
ビルの隙間に小さな星が瞬いていた。
「都会でも、星って少しは見えるんだね」
私の言葉に理人も空を見上げる。
「見えてない星もたくさんあるんだろうな。人工の光がなくて、もっと空気の澄んだとこに行けば、たくさん」
「高原とか、山のてっぺんとか?」
「そう。でも都会でもさ、ちゃんと探せばきっとそこにあるんだろうね」
さっきまではただの暗がりだった天井が、少しだけ明るくなった気がした。
「『余白がずれる』ってさ、いい表現だよね」
さっきの私の言葉だ。
私の歩幅に合わせて理人はゆっくりと歩く。
夕焼けを吸い込んだアスファルトの上に長い影が落ちている。
肩の線もポケットに突っ込んだ手も、黒く平らな輪郭になって揺れている。
少しだけ理人の影に寄り添った。
五の橋に差しかかった時、スマホが鳴った。
姉からだ。
嫌な予感がする。
(もしもし?)
(瞳子? わらしが戻ってこないの!)
(いつから? いつからいないの?)
(30分くらい前。雨戸を閉めてたら縁側から飛び出して。縁の下とか、紅葉や梅の木の上とか探したんだけど、どこにもいなくて)
姉の声は酷く動揺していた。
わらし。
私が雨の日に拾った、ちっとも懐かない白い猫。
わらしに会えなくなるかもしれないと思っただけで、胸の真ん中が氷みたいに冷えていく。
(お母さんたちは?)
(二人とも町内会の集まりにいってる)
(すぐ帰る)
それだけ言って電話を切った。
「ありがと。もうここでいいよ」
「俺も行くよ。探すのは一人でも多い方がいい」
「でも」
理人は走り出していた。
慌てて後を追う。
祖母の店の前、不安そうな顔をした姉がスマホと懐中電灯を握りしめ立っている。
「猫って確か、1日か2日くらいはそんなに遠くには行かないって聞いたことあるし。いつ戻ってきてもいいように雨戸はそのまま開けておいた方がいいかも」
理人の言葉に姉が素直に頷いた。
私が家の中をもう一度探し、姉が商店街の通り、理人が縁の下と庭周りを探すことになった。
「もし見つけたらすぐに連絡して」
「わかった」
わらしの名前を呼びながら姉が歩きだす。
「きっとすぐに見つかるよ」
すぐ見つかる?
本当に?
「見つからなかったら?車に轢かれたら? 川に落ちたら? 死んじゃったら?」
「そんなに簡単に死んだりしないって」
「死んじゃうんだよ! 簡単に!」
理人の顔が一瞬強張る。
あ、どうかしてる。
八つ当たりなんかして。
子供みたい。
でも父は簡単に死んでしまった。
信号無視の車に轢かれて。
「ごめん」
「そんな顔するなって。わらしは女の子だろ?俺、女子にはモテるからさ、きっと見つける」
理人はそのまま裏庭に走って行った。
古い廊下の隅に置かれた年代もののミシンの下。
祖母の部屋のベッドの下。
茶室に積み重ねた座布団の裏。
わらし、どこにいるの?
返事してよ。
一度も抱っこさせてくれないわらし。
でも夜になると部屋に来て、私の足元で丸くなって眠るわらし。
その小さな寝息にずっと救われてきた。
椅子に登って冷蔵庫の奥を覗いていた時、理人の声が聞こえた。
「いた! わらしがいたよ!」
声は父のアトリエからだ。
白い光が部屋の隅の段ボールを照らしている。
光の中、ガムテープや軍手の間からオッドアイの瞳を不機嫌そうに眇めたわらしがいた。
「わらし!」
まだ少し震える手でスマホを握り、姉にわらしの無事を伝える。
わらしは迷惑そうに尻尾をゆらりと揺らした。
気が抜けて涙が滲む。
気がつくと理人は紫陽花の絵を見ていた。
二人で撮ったあの日の紫陽花。
「やっぱり好きだな。君の絵」
好き?
私の絵を?
あの日、初めて私の描いた桜の絵を見た時、
戸惑うような眼差しをしていたのに。
理人が紫陽花の絵の隣、キャンバスにかかった色褪せた白い布に気づく。
「これは?」
「父の絵」
「見てもいい?」
「いいよ」
父の描きかけの絵。
青い滑り台の向こうに咲く満開の桜。
白いキャンバスの中で、散りきらない春がゆっくりと積もっている。
「父の遺作なの。まだ途中だけど」
理人が息をのむのがわかった。
「そっか。 だから似てたのか」
蛍光灯の青白い光の中、理人の顔が歪む。
彼はこの絵を知っている。
桜。
父が亡くなった春。
病院の窓から見えた満開の桜。
あの日もこんなふうに咲いていた。
「この公園…どこか知ってる?」
理人の声は掠れていた。
「わからない。近所ではないと思うけど」
捻れるように二回カーブした青い滑り台はそのフォルムが独特だったから。
理人の指先がキャンバスの縁をなぞる。
その指先が小さく震えている。
触れてはいけない何かに触れてしまったように。
「俺は知ってる」
「え?」
「ごめん。今日は帰る」
「でも」
理人はアトリエを出ていった。
待って。
何が似ていたの?
あの公園を知っているの?
父が最後に描いた満開の桜の咲く公園。
不確かな輪郭が、ゆっくりと闇の中から浮かびあがろうとしている。
その輪郭は黒く姿を変え、私を見つめ返していた。
[次のお話し↓]
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