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ゴーギャンを待ちながら #3『あの時の彼』


有栖川公園には光林寺の脇の新坂を登っていく。
笛ふき少年の像のある広場は平日の午前中だからか、思ったより花見の客は少ない。
曇りでよかった。
晴れの日は誰かに責められているみたいで居心地が悪いから。
満開の桜は桃色の雲のかたまりに見える。
ずっと暗いアトリエにいるせいか、優しい桜色なのに目に眩しい。


シートの上にとき油や油壺、古布を並べていると、褐色の肌のベビーシッターに連れられた金髪の女の子がパタパタと駆けてきた。
3歳くらい?
ホリゾンブルーの瞳の女の子は、不思議そうな顔で私のスケッチボックスを見ている。
年季の入った木製のスケッチボックスは父が愛用していたものだ。

女の子は小さな白い人差し指で木の箱をつつく。
どうやら中が見たいらしい。
「いいよ」
ボックスを開くと女の子の顔が輝く。
パレットの上にピンク色のオペラとバーミリオンの朱色をのせて2つの色を混ぜると、鮮やかなピンクがサーモンピンクに変わった。

「Waouh!」
女の子は嬉しそうに何か喋っていたけど早口でよくわからない。
「あ」
次の瞬間、小さな白い手が絵の具に伸びた。
それまで後ろにいたシッターが素早く抱き上げる。
「トゥシュ  パサ!」
フランス語?
多分「触っちゃダメ!」とかいったのだろう。
そのまま連れて行かれた女の子を見て、ちょっとだけ名残惜しいと思っている自分がいた。

なぜだろう。
言葉が通じないから?

あの日、教室で投げつけられた言葉。
暗い記憶が体の奥からゾロリと顔を覗かせる。
大丈夫。
薬は飲んだから。
大きく深呼吸して絵筆をとった。




陽が暮れて空気が少しだけ冷たい。
家に戻ると、祖母の店の扉にあったあの張り紙がなくなっていた。
閉店には早い時間なのに店の中は暗く、ドアには鍵がかかっている。
店の窓から中を覗いても誰もいなかった。

「あーちゃん、またいないのか」

とりあえず2階の絵画教室へ顔を出そう。
水曜日は大学生以上のクラスで、教室は6時半からのスタートだから今は母しかいないはず。
外階段を上がる。
ドアを開けると先客がいた。

「お帰りなさい」


教室の長机に誰かが座っていた。
見覚えのあるペールブルーの髪。
振り向いた人を見て一瞬息が詰まる。

今日はサングラスをしていない。
影の濃い切れ長の瞳。
こんな目をしてたんだ。
その瞳がわずかに揺れた。


「桜、まだ散っていなかった?」
「うん」
「雨に降られなくて良かったわ。絵、見てもいい?」
「え、でも、まだ途中だから」
「途中でも良いじゃない?」

知らない人。
名前も知らない人に自分の絵を見せるなんて。


「上手く描けなかったし」
母はただ微笑んでいる。
こんなことなら真っ直ぐに家に帰ればよかった。
諦めてバッグから今日描いた絵を取り出す。
母はしばらく黙って絵を見ていた。
それから何も言わず、そのまま彼の前に差し出した。

「魚住くんの感想を聞かせてくれる?」
魚住くんっていうんだ。
だけど、そんなこと今はどうでもいい。
早くここから逃げ出したい。


「これって」
彼は一瞬息をつめ、私の絵を凝視した。
灰青色の前髪が額に落ちる。


「……影が、沈んでない」
小さく呟く声はそう聞こえた。

「この影はフタロブルー?」
「えっ?」
「違ったらごめん。青い影が綺麗だったから」
そう言うと、黙ってその影を見つめた。



「こちら魚住理人くん。都立藝術大学の3年生。お父さんの後輩ね。この子は逢坂瞳子。私の娘です。魚住くんにはアシスタントで入ってもらうことになったの。留学するんで9月までだけど」
「よろしく」
理人が軽く頭を下げる。
私も慌てて頭を下げた。


「なぜ魚住くんはうちの教室を選んだの?」
「隣の神谷町にアトリエがわりに使わせて貰ってる友人のガレージがあるんで。あとは名前かな」
「あら? ミュレットの意味知っているの?」
「ミュレットって確か、スペイン語で曇り空って意味ですよね。青空とかじゃなくて、曇り空っていうのがなんかいいなって」
「教室の名前は夫が考えたの。空は青いだけじゃないからって」
そう言って、頬をふっくらと引き上げて嬉しそうに微笑んだ。





母が白磁の小皿にエビチリを取り分けている。
家族で囲むいつもの食卓だ。
「ちょっと会ってみたかったかも」
「景子さんは面食いだから」
「 今は夏のグループ展に向けて準備してるんですって」
エビを取り分けた小皿をみんなに配りながら、母が新しい情報を提供した。
「楽しそうねえ。私も個展とかやりたいわ。景子さんも一緒にどう?」
「私は昔から絵だけは苦手なの」
「あら?そうだったかしら」



祖母たちの会話が頭の上を通りすぎる。
ずっと感じていた。
言葉ではうまく言えない微かな違和感。
それは小さな棘にも満たないほどの、ささくれみたいなものだったけれど。


私の絵を見た時。
理人の瞳に宿ったわずかな戸惑い。
絵の中に何かを探すような。


でもそれはほんの一瞬のことで。
だから気のせいかもしれない。
それはまるで下地の色を覆い隠すガッシュのように、すぐに消えてしまったから。




食事を終えるとドアがノックされた。
「これ」
姉が1通の封筒を差し出す。
「Webサイトから請求しといた」

高卒資格認定試験の受験案内と願書だった。
「8月の試験の願書の締め切りは5月下旬だから、もうあまり時間ないけど」
「ありがと。よく考えてみる」
「まあ、道はいろいろだからさ」
そう言って姉は小さなくしゃみを1つした。
近くにわらしがいるのだろう。

机の上に姉から渡された書類を置く。
誰もはっきりとは言わないけれど。
心配されていることが少しだけ重たくて。
そんな気持ちを振り切って、四角い封筒の中を見る。


それなのに。

願書の文字を目で追いながら、頭の片隅では理人の一瞬の戸惑いがずっと小さく軋んでいた。




[次のお話し↓]


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