ゴーギャンを待ちながら #4『白い紫陽花』
5月最後の土曜日。
絵画教室で母に一台のカメラを渡された。
Nikon D5300。
マットな質感の少し丸みのあるシルエット。
父が愛用していたカメラだ。
まだ小学生だった頃の私が、父から借りてよく一緒に遊んだカメラ。
あの時のカメラ、こんなに軽かったっけ?
「カメラで撮るって、絵を描くこととは違う眼差しが見つかると思うの」
「私、オートでしか撮ったことないよ」
母は後片付けをしている理人に声をかける。
「理人くんはカメラ持ってる?」
顔をあげた理人がこちらを見る。
「持ってますよ。課題撮ったり、ポートフォリオの作成に必要なんで」
「そう。これからの予定は?」
「夜は友達んちでグループ展の準備です」
「なら、まだ少し時間あるわね。瞳子にカメラ教えて貰えないかしら。マニュアルが無理ならAモードからでも」
「お母さん!」
遅かった。
「いいですよ。どうせ今日は泊まりだし。集合時間も特に決めてないから」
理人があっさりと承諾したので、私は何も言えなくなってしまった。
外階段が濡れている。
少し雨が降ったのだろう。
「適当に理由つけて断ってくれたら良かったのに」
「断った方が良かった?」
「だって、迷惑でしょ」
「別に」
別にって。
「あの、聞いてもいい?」
ずっと気になっていたこと。
「どうぞ」
「そんなに下手くそかな」
「何が?」
「私の絵。感想聞かれた時、ちょっと困ってたみたいだから」
理人の顔から笑顔が消えた。
瞳が翳る。
「嫌いなんだ。桜の花」
嫌い?
桜の花が?
心の中が小さく波立つ。
思ってもいない言葉。
何だかとりつくしまもなくて、急いで次の質問をした。
「美術館なのになんでサングラスかけてたの?」
「白と黒だけにすると明暗とか輪郭とか、よく見えるんだよね」
「色を減らすっていうこと?」
理人はちょっと驚いたように私を見た。
「え? なんか変なこと言ったかな」
「いや、色を減らす。そう、そんな感じ。中国の美術学院に留学するのも水墨画とかが好きだから。滲みとか掠れとか。あと余白? 全部じゃない感じが好きなんだ」
「一人で留学するのって怖くない?」
「みんなで行けば怖くない?」
理人が笑う。
「そういう意味じゃなくて」
「怖いよ。でも同じくらい楽しみかな」
彼の言う、怖いけど楽しみな世界。
今いる場所から動けないのか、動かないのか、自分でもよくわからない。
そんな私には遠い世界。
雲の隙間から落ちてくる光を受けて、少しだけ前を歩く理人の髪が薄い水面みたいに揺れている。
「友達の家って神谷町のどの辺り?」
「駅から歩いて20分くらい。近くに公園があったな。変わったオブジェの噴水があるちっさい公園」
「白山公園?」
「ああ、そんな名前。じゃあ、そこで撮ろうか」
天現寺の交差点を渡り、20分ほど歩くと白山公園が見えてきた。
休日でもあまり人のいない小さな公園だ。
近くのサラリーマンが昼休みにベンチでコーヒーを飲むような、そんな公園。
砂場の向こうには翼を広げたような銀色のオブジェがある三角形の噴水があった。
「今日はAモードでやってみる? 光の量を自分で決められるからボケは残したまま、明るさの整った写真が撮れるよ」
公園の斜傾地に咲く五分咲きの紫陽花は、蕾と咲いた花が混じりあって豊かな色のグラデーションを作っている。
満開とは違う、その余白を好きだと思った。
「あの紫陽花、撮ってみたい」
カメラを構える私の隣で身を屈め、理人が視線の先を覗き込む。
肩が触れた。
理人の気配が急に濃くなる。
思わず息を止めた。
「もうちょい寄ってみて」
「うん」
蟻の細い列の上に落ちかけた足を引っ込めたら、靴が濡れた地面を踏んで微かな音をたてた。
ファインダーの中、青い花びらとその縁にぶら下がる丸い水滴がくっきりと浮かぶ。
その小さな世界を切り取った。
角度を変えて何枚も撮ったあと、近くのベンチに腰を下ろして撮ったばかりの写真を一緒に見直す。
「いいね。これ」
「うん。私も好き」
「このピンクの紫陽花、よく撮れてる」
「え、これ…青だよ?」
「あー、ごめん、ごめん」
理人は苦笑しながら立ち上がった。
「喉乾いたね? 何か飲む?」
「えっと、じゃあ烏龍茶で」
笑って流したけど。
青とピンク?
「はい」
理人は買ってきた烏龍茶を私に渡すと、自分は缶コーヒーを手に隣に座る。
「あ、お金持ってない」
「奢るよ」
「すいません」
「フッフッ」
「なんで笑うの?」
「なんか、急にしおらしいからさ」
やっぱりちょっと感じ悪い。
それなのに、少し楽しいと思ってる。
「グループ展ってどこでやるの?」
「恵比寿。学割効くギャラリー。恵比寿とか新宿ってそういうとこ多いんだ」
理人が私のカメラを覗きこむ。
「そのカメラ、結構使い込まれてるね」
「父がずっと使ってたから」
「お父さん、山登りとかしてたの?」
「なんで?」
「この、擦れたような傷。岩にでも擦ったのかなって思ってさ」
その古い傷跡を指でなぞる。
「学生の時は、たまに登ってたみたいだけど」
「今はもう登らないの?」
「登らない。死んじゃったから」
理人は熱い缶コーヒーを指で転がしながら、遠くの噴水を見ていた。
「へえ。偶然。俺も父親はいないんだよね」
本当に?
冗談?
どっちかよくわからない。
あんなこと、言わなければ良かった。
「俺も持ってるよ」
「え?」
「NikonのD5300。昔から欲しかったんだ」
なんでだろう。
時々理人はこんな表情をする。
届かない場所を見つめてるみたいな。
「コーヒー飲まないの?」
「猫舌だから」
「じゃあ、なんで冷たいの買わないの?」
「熱いコーヒーが冷めて、ぬるくなったのが好きなんだ」
冷めたコーヒーって美味しいのかな。
そんなことをぼんやり考えていたから、最初理人が言った言葉がすぐには頭に入ってこなかった。
「紫陽花の色の元って、アントシアニンっていう色素なんだってさ」
「アントシアニン?」
「でも土で色が変わるらしい。酸性だと青。アルカリ性だとピンクとか。日本の土は酸性が多いから青い紫陽花が多いんだって」
「だったら白い紫陽花は?」
「白い紫陽花は、もともとアントシアニン持ってないから白いまんま」
「自分で色、選べないんだね」
「そう。選べない。持ってないから選べない」
理人が手のひらの缶コーヒーから目をあげて私を見た。
「色覚異常って知ってる?」
しきかくいじょう?
「昔の言い方でいうと色盲とか色弱とか。色を感じる細胞が欠けてるから赤とか緑とか、ピンクとかグレーとか、色がわりとあやふやな感じ」
「それって困らないの?」
「黒板の赤いチョークが読めなかったり。青だと思って買ったTシャツがピンクだったり。コンビニでイチゴ味だと思って買った飴が梅味だったり。まあ、その程度?」
彼の口調はいつもと変わらない。
でも……
青とピンク。
「もしかして」
「そうだよ」
それは、
「ご飯たべた?」
「食べたよ」
くらいの軽い感じで。
「あれ? なんか怒ってる?」
「怒ってなんかない」
「だって、眉間の皺すごいよ」
人差し指で私の額をつついて理人が笑う。
なんで笑えるの?
ちっとも笑えないよ。
「そんな大したことじゃないよ。普通に学校行って、普通にゲームして。あの紫陽花を見れば綺麗だと思うし。その綺麗がみんなとちょっと違うだけ」
理人は缶コーヒーのプルトップを開けて一口飲んだ。
「来週の日曜、グループ展の制作現場見にくる?
変な奴らばっかだけど」
理人が私の顔を覗き込む。
知らない人と会うのは苦手だ。
苦手なのに。
「もし来る気になったら先生に了解とっといて」
「母親の了解とか、子供じゃないし」
「子供だろ。ギリまだ子供」
三つしか違わないのに。
「じゃ、あなたは?」
「俺? 俺はギリ大人かな」
[ 次のお話し↓]
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