ゴーギャンを待ちながら #5『あーちゃんの秘密』
「雨戸閉めてね」
家に帰るとキッチンから母の声が届く。
陽が落ちると母屋の縁側の雨戸を閉めるのが子供の時からの私と姉の役目だった。
黒光りした長い縁側。
立て付けの悪い雨戸は閉める時にちょっとしたコツがいるし、そこそこ力もいるので小さい時には苦労した。
それでもこの縁側がとても好きだ。
人気がない日中の縁側では、運が良ければわらしの姿を見ることができる。
昼寝していたり、毛繕いをしていたり。
人の気配を感じた途端、わらしはその場からあっという間に逃げていく。
行き先は今は使われていない茶室の重ねられた座布団の上だったり、私の部屋の窓辺だったり。
父も猫が好きだった。
だけど中学生の時、可愛がって黒猫を事故で亡くしてから猫を飼うのはやめたという。
きっとわらしとは気が合っただろうに。
ガタガタと雨戸を閉め終わった頃、姉が2階から降りて来る。
「ただいま」
ちょうど玄関から祖母の声も聞こえた。
姉が私の耳元に顔を寄せる。
「最近よくお店を閉めて出かけてるみたいだけど、瞳子なんか知ってる?」
「知らない。景子ちゃん聞いてみてよ」
「あーちゃんそういうの好きじゃないし」
「そうだけど」
「まあ、機嫌良さそうだし問題ないんじゃない?」
自分で言い出して勝手に終わりにする。
姉の悪い癖だ。
「今日は筍ご飯と初鰹の塩焼き。それからそら豆と桜エビのかき揚げよ。瞳子ちゃんお皿お願い」
長焼き皿をだしながら、公園からの帰り道にスマホで検索したことを何度も反芻していた。
『人の網膜には赤、緑、青を感じる3種類の細胞があって、この反応の組み合わせで色を認識する。色覚異常の人はこの機能が欠けているため、特定の色が見えにくかったり、違う色に見えたりする』
スマホの固い文字が頭の奥を何度も打ちつける。
迷ったけれど思い切って母に尋ねた。
「魚住くんの目のこと、知ってる?」
「知ってるわよ」
母は気が抜けるくらいあっさりと答えた。
「面接の時、話してくれたから。彼、子供たちが絵を描いている時、使ってる絵の具やクレパスに書いてある色の名前を一つ一つ確認しながら教えてあげてるの。影や光の付け方もとても上手よ。それにりんごは赤である必要はないでしょう? 少なくとも私の教室ではね」
「でも、マイナスにはならないのかな」
「マイナス? それは彼が決めることよ」
赤。緑。青。
私が当たり前に見ていた世界は、彼にとっては
当たり前じゃない。
怖いけど、理人の描く絵が見たかった。
「来週の日曜日、グループ展の制作現場見に行ってもいいかな」
母はきつね色にカリッと揚がったかき揚げをキッチンペーパーの上に乗せる。
「楽しみね。理人くんによろしく」
夕食後、祖母がテーブルの上に白い箱を置いた。
「はいこれ、お土産」
箱の中にはクッキーと蝶ネクタイをした猫のフィナンシェが入っている。
私はリビングボードからウェッジウッドのティーカップを取り出す。
旅をテーマにした異国情緒溢れるこのシリーズの中でも、ディープブルーの地に雲や鮮やかな緑色の南国の木、そして仏塔が描かれたブルーパゴダのカップは父の一番のお気に入りだった。
「お店の方はどう? おかあさん、最近早くに閉めてるみたいだし」
「残り少ない人生、会うべき人には会える時にどんどん会っておかないと」
祖母は指先についた粉をソーサーの上にパラパラと払う。
「残り少ない人生とか、縁起の悪いこと言わないで」
母が眉を顰める。
「あーちゃん、去年の人間ドックだってどこも問題なかったじゃない? 骨密度なんて私より良かったし」
「景子さんは医者の不養生っていうのよ。もっと運動もして睡眠もしっかり摂らないと。夜中にポテトチップスなんか食べてちゃ駄目よ」
逆に祖母の小言を食らった姉は首を竦めた。
「私、これからLINEミーティングなの。あとは宜しく」
「私もお風呂いただこうかしら」
祖母と姉が席を立ったあと、台所で残りの洗い物をしながらテーブルにいる母に声をかけた。
「あーちゃんさ、最近やっぱり少し変だよね。お母さん、なにか知ってる?」
返事がない。
お母さん?
後ろから覗く。
母は焼き菓子の白い箱に貼られたシールを見つめていた。
Oven and Forest
MUSASHI KOGANEI
むさしこがねい?
焼き菓子は武蔵小金井のお店だったのか。
だったら家からはずいぶんと遠い。
「このクッキーのお店って武蔵小金井なんだね」
母の手が小さく震えた。
「カチン」
ティースプーンがソーサーの縁をかすめて高く澄んだ音を立てる。
「そうね…確か、鰻の美味しいお店もあったわ」
「そうなの?」
「もう、ずっと昔のことよ。ずっと昔。瞳子ちゃん、洗い物ありがとう」
部屋へ戻る母の背中はとても小さく見えた。
どうしたんだろう。
いつも母じゃない。
母の部屋は父がいた時と少しも変わらない。
2つのベッドに2人用の大きなクローゼット。
二人で一緒に使っていた書斎の本棚。
壁には父の描いた絵が一枚飾ってある。
それは父が美大生の時、春休みに旅したチベットの湖で見た天の川だという。
影のような黒い山の上にはターコイズブルーの夜空が広がり、真ん中を流れる乳白色の川には星という星が集まって、一筋のうねるような光の雲に見えた。
父の絵は黒を使っても不思議と暗くならない。
群青を重ねても灰色を擦っても、どこか光が残っていた。
キッチンの奥のアトリエには姉と祖母は滅多に来ないし、母もほとんど教室にいるので、この少し薄暗くて湿った部屋は今は私だけの場所だ。
キャンバスの中の描きかけの紫陽花。
この前理人と公園で撮った紫陽花だ。
大きくて丸い3つのかたまりは明るい部分と暗い部分を分けて、影の境目に軽く線を足す。
花の中心の白く抜けているところや奥の花のぼやけているところ、そして花びらの縁の雫のきらめきを線の濃さで差をつけていく。
パレットに絞り出したチタニウムホワイトに理人の声が重なる。
「白い紫陽花はもともとアントシアニンを持ってないから、ずっと白いまま」
ずっと白いまま。
だったら私は何色だろう。
母の心の色は今、何色なんだろう。
チタニウムホワイト。
光を跳ね返す雪よりも冷たいその白は、どんな色よりも強い。
影の色さえ隠してしまうくらいに。
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