ゴーギャンを待ちながら #6『眠る恐竜とアンバランスたち』
「ダ・ヴィンチの頭の中みたいな空間、行ってみない?」
グループ展の制作現場に行く前の日の夕方。
謎かけのような母の言葉に誘われて出かけた先は、東京駅にほど近いインターメディアテクという博物館だった。
「ここは東大の総合研究博物館が運営してるの。考古学、古生物学、自然史、人類史、全部混じってて、なんでもワールドみたいでしょ」
そう言って楽しそうに微笑む。
最近母は少しだけ元気がなかったから、その笑顔を見てホッとした。
母と二人だけで出かけるのはいつぶりだろう。
整然と陳列されたコレクションには説明はほぼなくて、壁一面の標本はガラスの扉がないと引き込まれそうでちょっと怖い。
オキゴンドウ鯨、マサイキリンの骨格標本は近くで見ると恐竜みたいだ。
太古の時代を散歩している、そんな錯覚にふと陥る。
気がつくと、暗い展示室の片隅に置かれた赤いソファーに母が一人で座っていた。
「ここ、絶対お父さんも好きだったよね」
「そうね。骨格標本とか好きだったから」
「私はちょっと怖いかな」
「どうして?」
「だって、静かに眠ってた動物たちを人間が勝手に組み立てて、展示して。誰にも見られずに眠っていたかったかも知れないのに」
母はそっと目を閉じた。
閉じた瞼に疲れが薄く滲んでいる。
「でも呼んでいる魂もあるかもしれないわ。死んでもここにいるよ、いたんだよって」
もしも私が恐竜だったら。
誰かに見つけて欲しいと思うのかな。
そのまま眠っていたいと思うのかな。
だけど、目覚めることのない眠りはやっぱり怖い。
博物館の照明の下で見る母の白い横顔は、どこか頼りなげだ。
まるで迷子になった子どもみたい。
そういえば、父が亡くなってから母は泣かなくなった。
何にでもすぐ感動しては、子供の前でもよく泣いていたのに。
「お母さん。私ね、高校卒業の認定試験受けようと思うんだ」
頬をふんわりと持ち上げて、母はいつものように微笑む。
「時間て不思議ね。止まってるみたいで、ちゃんと動いてる。瞳子ちゃんの時間もね」
***
「おーい!ゲスト連れてきたぞ」
日曜日の昼過ぎ。
理人と向かった先は閑静な住宅街の隅にあった。
シャッターは半分上がっていて、中に入ると油絵具と溶剤の匂いがムッと押し寄せる。
床にはブルーシートや新聞紙が敷き詰められ、部屋の隅はガムテープで止められていた。
熱い空気の塊みたいなものに押されて、思わず足が止まる。
知らない人と会うのは苦手だ。
それでも、足元のシートに落ちた黄土色の乾いた絵の具をそっと跨ぐ。
ガレージの中、三人の顔が上がる。
壁際に置かれたイーゼルから濡れた筆を持ったまま、大柄な青年が私を見た。
「牧村賢太郎です。日本画専攻の3年。俺以外はみんな油画専攻なんだよね」
「私はレイ。よろしくね」
ペインティングナイフを手にしたレイが、ピンクアッシュに染めた髪を肩先で揺しながら歩いてくる。
ピンク色の柔らかな髪は眩しくて。
理人の目にはどんな色に映るんだろう。
「撮る? ここ映えるよ。汚いけど」
肩にかけたカメラに気づいて屈託なく笑う。
いきなり距離が近い。
でも不思議と嫌な感じはしなかった。
「撮ってもいいんですか?」
「むしろ撮って。でも顔のアップはやめてね。化粧落ちてるし。てかカイ。あんたも挨拶くらいしとけ」
細身の身体に大きめのパーカーをざっくり着たカイと呼ばれた少年は色白で少し神経質そうだ。
ちょっとわらしに似てる。
「靴。そこ踏むと滑るから」
私の足元を指差す。
床に落ちた透明な液剤の跡が光っていた。
「あ、はい」
「まあ、カイはいつもこんな調子なんで。カメラは瞳子ちゃんの好きなタイミングで撮っていいよ。疲れたらその辺の椅子に座っといて」
ガレージの奥。
壁に寄せたイーゼルの絵は、白と黒の明暗の塊の上に赤と緑の線が不規則にぶつかりながら重なっている。
理人はスマホで撮った画面を白黒に切り替えると、黒い絵の具を絞り出した。
「ああするとさ、バランスの崩れ方がわかるんだって」
レイはそう私に言うと、絵の具のついたスウェットの袖を無造作に肘まで捲り上げて、理人の肩に腕を回し絵を覗き込む。
「なんとか間に合いそうじゃん。ところで留学から帰ったらどうすんの?」
「どうだろ」
「どうだろって」
「院かもしれないし、就職かもしれないし」
「将来設計ふわふわしすぎ」
「レイにだけは言われたくないな」
「私は有名になる予定だもん」
理人が笑う。
あんなふうに笑うんだ。
ここには私の知らない理人がいて、私の知らない時間が積み重なっている。
「そうだ。カイと賢太郎は昨日新宿のグループ展行ったんだろ?どうだった?」
「会場サイズは僕たちと同じくらい。トーンは揃ってたけど、ちょっと物足りないな」
「でも入口の立体の子だけ、空間の使い方上手かったよ。天井まで意識してた」
ゲスト。
確かにそう。
この部屋の温度とリズムに、私だけが馴染めていない。
それでも。
「瞳子ちゃん、奇跡の一枚頼むよ!」
振り返った理人の笑顔に、思わずシャッターを切った。
ファインダーの中に写る雑多な音の層。
扇風機の鈍い響き。
筆がキャンバスを擦る音。
紙やすりで削る音。
気づけば何十枚も撮っていた。
「白がない!白がないと詰む!」
突然レイが叫ぶ。
「あー、海行きたい!」
「なんで海?」
「ずっと籠ってて窒息しそうなんだもん」
「でもまだ泳げないよ」
「魚は泳いでる」
噛み合わないレイとカイの会話に賢太郎が笑う。
「海、いいんじゃないかな。どうせ乾かさなきゃいけないし。触ると終わるしね」
「だよね。だよね。理人も行くでしょ? 瞳子ちゃんはどうする?」
海?
これから海?
ありえない。
だって、私はみんなと違うし。
扇風機の風に混ざった溶剤の匂いで、さっきからずっと目の奥が重い。
音や匂い。
色んなものが重なり過ぎて。
昨日までの日常と違いすぎて。
長い間、自分の呼吸と古いラジオから流れる音だけをずっと聞いていたから。
「どうする? やっぱ疲れた?」
隣に立った理人が私を見る。
理人やレイ、賢太郎やカイのスニーカーの裏はブルーシートに落ちた様々な色を拾ってる。
赤や青や緑や黄色。
それから黒も。
自分の足元に目を落とす。
私のスニーカーの裏だけ、まだ白いままだった。
それなのに。
ペールブルーの髪の隙間からのぞく理人の瞳を見たとき、知らないうちに首を横に振っていた。
もう少しだけ見ていたい。
一緒にいたいと思ったから。
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