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ゴーギャンを待ちながら #7『海と棘』


神谷町から銀座に出て、ゆりかもめでお台場海浜公園に向かう。
6月の海は群青に薄い翡翠色が滲んでいた。

「海の匂いがする!」
レイが走りだす。
理人はサングラスを外すと無意識に前髪を触った。
淡い青が指の間で揺れる。
「きれいな色」
思わず口にしていた。
「ん?」
「あ、海の色。海の色がとっても綺麗」
雲の隙間から溢れた太陽の光が水面に落ちて、ファインダー越しに白く飛ぶ。

「瞳子ちゃん!こっちこっち!」
レイが笑う。
レイの笑い声はオレンジ色の絵の具を投げたみたいに、華やかで明るい。


波打ち際。
素足に絡み付く白い泡を蹴って遊んでいるレイの赤い爪が光る。
スマホでレインボーブリッジを撮っているカイ。
賢太郎は横一列に連なる灰色の高層ビル群をスケッチしている。
それぞれの海の時間。


砂浜を少し上がったところにある木のベンチに、レイと二人で腰を下ろした。
こんなに太陽の光を浴びたのは久しぶりで、少しだけ頭がクラクラする。
海風に晒された皮膚がじんわりと熱い。


「気分でも悪い?何か飲み物買ってこようか?」
「ちょっと疲れただけ」
「でも顔が赤いよ」
「太陽の光浴びたの久しぶりで、体が驚いたのかも。ずっと学校行ってないから」
「あーやっぱり?」
レイは驚く風でもなく、少しだけ禿げた赤いペディキュアに目を落とした。
「不登校ってやつ?」
上手く返事ができなかった。

「自分ではどうにもならないことってあるよね。気持ちとか体とか。わかっててもどうにもならないこと。瞳子ちゃんにも私にも。それからあいつにも」


レイは知ってる。
理人の目のこと。

「そういえば、理人たちは?」
「賢太郎さんとカイさんは桟橋に魚がいるか見に行くって。理人さんは、どこだろう」
「また行方不明か」
「LINEする?」
「いいよ。どうせまた未読放置だから。どっかでスケッチとかして、そのうちフラッと帰ってくるし」
「みんな、これから戻って制作の続き?」
「あー理人たちはね。私は帰る。周りに人がいると眠れないから仮眠もとれないし。え?なに? 意外?」
私の心を覗いたように首を傾げた。

「えっと、なんかイメージと違うから」
「イメージかあ。だったら瞳子ちゃんはウサギかな。黒いウサギ」
「黒いウサギ?」
「そう。月の光が似合うほう。でもさ、眠れないっていえば理人のほうがヤバいよ。描きだすと2、3日平気で寝ないし。あと食べないし」

そういえば、ガレージでも理人は缶コーヒーばかり飲んでいた。
猫舌だから、いつもぬるいコーヒーだったけど。


「あいつ人当たりはいいんだけどさ、自分のテリトリーにあんまり人を入れないタイプなんだよね。だから不思議だったの。瞳子ちゃん連れてきたとき。でも何かわかった気がする」

理人のテリトリー?
考えたこともなかった。

「ところで血液型なに?」
レイの話はいつもいきなりだ。
ポップコーンみたいにあちこち弾ける。
ガレージからいきなり海に来たみたいに。

「A型」
「私はO型の天秤座。瞳子ちゃんは?」
「私は乙女座」
「乙女座かあ」
少し考えてからレイは笑う。

「なんかガラス瓶みたいな星座だよね」
「ガラス瓶?」
「うん。透明なのにいろんなものが入ってそう。貝殻とかビー玉とか、星屑とか。理人はいかにも牡羊座ぽいよね。風と土と火か。相性はどうだったかな」
「理人くんは牡羊座なんだ」
「そう。たしか四月二日生まれだから、牡羊座」


四月二日。


体の芯が凍えた気がした。
さっきまで微熱があったのに。
波の音も、海の匂いも遠ざかる。



父の命日だった。
信号無視の車にひき逃げされた日。
理人の誕生日と一緒?


桜の花が嫌いだと言った理人。
私の絵を見た時、一瞬翳った理人の瞳。
でも、きっと偶然。
そうに決まってる。




そのままガレージに戻る賢太郎とカイ、夜は家に帰るというレイと一旦別れた。
まだ8時だし、送ってくれなくてもいいといったのに「あの橋の辺り、少し暗いから」と理人は私と一緒に電車に乗った。


ただの偶然。
何度も心の中で繰り返す。
それなのに。
気持ちはずっと沈んだままだ。


「疲れた? 今日暑かったしね」
「大丈夫」

会話が続かない。
言葉にならない不安だけが波のざわめきみたいに、胸の奥で途切れずに続いている。
そんな気持ちのまま広尾のホームで降りて、地上改札口へと歩き始めた時だった。


「あ、瞳子じゃん!」
「本当、瞳子だ」

反対側のホームで見慣れたセーラー服を着た少女たちが3人、スマホを片手に点字ブロックを越え私に手を振っている。
「あれ?もしかしてカレシ?」
「ねえねえ、紹介してよぉ」
笑い声がホームの天井に跳ね返る。
夜9時を過ぎた広尾駅のホームは人気がなくて、線路の向こう側からの声が鼓膜に突き刺さる。

「てか、学校来ないで何してんの?」
江口さんだった。

全身の神経が粟立つ。
「ねえねえ、教えてよぉ」
「やめときなって。あんまりしつこいと私みたいに突き飛ばされるよ」
けたたましい笑い声。

「黄色い線の内側までおさがり下さい」
アナウンスが流れても、彼女たちはまだ身を乗り出している。
轟音と共に反対側のホームに滑り込んできた銀色の車体が視界を塞いで、江口さんたちの視線から私を隠した。
数分後、電車がホームを出て彼女たちの姿が消えても動悸は収まらない。


視界が狭い。
上手く息が吸えない。
理人が何か言ってる。
でも聞こえない。
その場にしゃがみ込んだ。

あの時の教室。
あの時の視線。
左腕が焼けるように疼く。


女子高特有ののりみたいなものについていけなかった。
カラコンや彼氏や芸能人の話。
誰かの悪口と噂話。
ある時、いきなり両手で胸を掴まれて。
くだらない悪ふざけ。
悪気はないのは分かっていたけど。
気がつくと突き飛ばしていた。
江口さんは派手な音をたてて教室の床に尻もちをついた。
「何すんのよ」

「だって」
突然胸を掴むなんて。
ちっとも笑えないよ。
「気持ち悪かったから」
正直に言ってしまった。
でも突き飛ばしたのは私が悪い。 
だからちゃんと謝ろう。

「キモいのはそっちでしょ。いっつもどっか掻いててさ。汚いんだよ」
言葉の棘は真っ直ぐに私の胸を突き刺す。
薄くて平らな胸。
気づいたらトイレで吐いていた。


その夜、赤く太いミミズ腫れが全身に出て。
我慢できないほどの痒みと刺すような痛み。
赤い腫れは地図のように私の体の上を広がっていった。

朝、薬飲んだっけ?
たぶん。
ああ、わからない。
右手で思い切り掻く。
でも私の爪は私ではない誰かの右手に深く食い込んだ。


「引っ掻いちゃ駄目だ。傷になる」
そう言って私の腕を強く掴む手。
理人の右手の甲についた赤く細い線。
「ゆっくり呼吸して」
理人の声が遠くから聞こえた。
私がつけてしまった傷が滲んでいく。


気がつくと手を繋がれて歩いていた。
階段を上がり、改札を出て明治通りを天現寺の交差点方面に向かう。
もう涙はとまっていたのに、理人は私の手を強く掴んだまま離さない。
手を繋いだまま、自動販売機の前で小銭を出そうと悪戦苦闘している姿がおかしかった。

「笑うところ?」
「もう手、離していいよ」
「大丈夫?」
「大丈夫」


烏龍茶を手に古川にかかる五の橋を真ん中あたりまで渡って、低い欄干から川面を覗く。
「昔は護岸、こんなにきっちり整備されてなかったのに」
「魚もたくさんいたんだろうな」

理人は何も聞かない。
だから、話した。

「さっきの子たちクラスメートなの。私、8月に高校の卒業認定試験受けるんだ。もう、戻らない」

「そっか。その先は?」
「その先?」

私の未来。
考えないようにしてた、未来。

「絵を描きたい。描いていたい。だから、美大に行きたい」
気づくと言葉が溢れてた。
初めて口にした言葉だった。

そうか。
私は絵を描きたいんだ。
もっと、もっと。



「石膏像や人物のデッサンしてる?」
「教室のモチーフ部屋にあるやつとか、あと自画像くらい」
「そっか。だったら、これからは鬼のように描きまくれ!1日1枚で180枚はいけるな」
声の端に笑いが滲む。



高架から差し込む光が川面に反射してキラキラと揺れていた。
夜の川に向かってシャッターを切る。
揺れる光だけを今は見ていたくて。
灰色の不安にそっと蓋をした。



【次のお話↓】



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