ゴーギャンを待ちながら #8『それぞれの境界線』
家に戻ると1階には誰もいなかった。
足元でチリンと鈴の音がする。
わらしが青と緑の瞳で私を見上げていた。
「わらし、お腹すいたの?」
器にカリカリを入れようとして溢してしまった。
床に散らばった小さな茶色い粒を拾う。
海でのこと。
駅でのこと。
名前のない不安が心に居座る。
2階から姉が降りてきた。
その気配にわらしは速攻姿を消す。
「おかえり」
「ただいま。お母さんたちは?」
「二人とも出かけてる」
「景子ちゃんはもう食べたの?」
「食べた。ご飯食べるなら筑前煮と茶碗蒸しが冷蔵庫に入ってるよ。麦茶飲む?」
私が頷くと、姉は二人分の麦茶をコップに注いでテーブルにつく。
「私ね、高認試験受けることにした」
「そう。まあ、わからないことは何でも聞いて」
「うん。ありがと」
試験のことで聞いておきたいことがたくさんあったはずなのに、気がつくと理人のことを考えていた。
そんな自分に小さく苛立つ。
姉はテーブルを人差し指でリズミカルにトントンと叩いた。
考えごとをしているときのいつもの癖だ。
「瞳子知ってた? 前、あーちゃんがたくさんビーフシチュー作ったときがあったじゃない? ずいぶん残ってたのに、次の日食べようと思ったら鍋ごとなかったの。きっと誰かに持っていったんだよ」
「誰かって?」
「恋人とか」
あーちゃんに恋人?
まさか。
「ロマンス詐欺だったらどうする?」
「ロマンス詐欺?」
「ま、そんなのに引っかかるあーちゃんじゃないけどね」
姉は勝手に納得して麦茶を一息に飲み干すと、椅子から立ち上がる。
「お風呂入ってこよっと」
理人のことを言おうか、一瞬迷った。
父の命日と理人の誕生日が一緒のこと。
でも姉ならきっと、そんなのはいくらでもある偶然だと笑うに違いない。
本当はそう言って笑い飛ばして欲しかった。
でも言葉は喉の奥にこびりついて出てこない。
あの日から、胸の奥にずっと引っかかったままの違和感と一緒に。
午前零時を少しまわった頃。
勉強に集中できなくて熱い紅茶でも飲もうと部屋から出ると、階段の1番下にパジャマ姿で座っている姉の背中が見えた。
「景子ちゃん?」
唇に人差し指を当てたあと、こっちへこいと手招きされて足音を忍ばせ隣に座る。
小さい頃、こんな風に姉と肩を並べて座った記憶がある。
あれはいつだっけ?
嵐の夜だったか、停電した子ども部屋だったのか。懐中電灯を持っていたような気もする。
そんなことを考えていたら、深夜のダイニングから母の低い声が聞こえた。
「おかあさんは許せるの?」
「許すとか憎むとか、もうそういうの、全部まとめて抱えて生きていくわ。今更答えなんて出ないもの」
「答え? そんなもの元々必要ないでしょ。お母さんと私を捨てていったあの人に」
「でもね、薫子。『あの頃のようにもう君を照らせない』そう言わせてしまったのは私だから」
祖母の声に重なるように、母の深いため息が聞こえた。
「ある朝、突然父親がいなくなって。ある朝『行ってきます』っていつものように玄関を出たあの人は二度と戻らなかった。みんな勝手にいなくなる。私を残して」
『行ってきます』
母の声でその言葉を聞いたとき、胸を針で刺されたような痛みが走る。
父の最後の「行ってきます」を聞いたのはいつだっただろう。
「ただいま」ももう聞けない。
「瞳子?」
姉がそっと私の腕を掴む。
その感触にハッと我に返った。
私たちは足音を忍ばせて階段を上がった。
「おじいちゃんもさ、蒸発するならせめてお母さんの成人式終わってからにしとけばよかったんだよ」
母が二十歳になる少し前に家を出たという祖父。
成人式の写真の中、祖母の振袖を仕立て直して着た母はとても綺麗で、そして悲しそうだった。
「今日はもう寝よう。うちらが考えてもしょうがないし」
そう言うと姉は部屋に戻った。
私の部屋では、わらしがベッドの足元で丸くなっている。
試験までもう時間がない。
それなのに。
参考書の文字は何度読んでも頭に入らなかった。
理人が絵画教室に来るのは木曜日と土曜日だ。
約束をしているわけじゃないから、私が教室に顔を出さなければ会うこともない。
会えば全部、ただの偶然だって思えるかもしれない。
なのに。
絵画教室への狭い階段が遠かった。
そんな水曜日の午後。
LINEが届く。
《ところでモデルいる?》
* * *
教室にはさっきまでいた子どもたちの絵の具と紙の匂いがまだ残っている。
理人は窓際の椅子に座っていた。
夕方の光が理人の頬に落ちる。
私はイーゼルの前に立って、鉛筆の先で空中に輪郭をなぞる。
でも白い紙の上で、すぐにデッサンの手は止まってしまった。
「どうしたの?」
椅子に座ったまま、理人が私に聞いた。
「影が難しくて。上手く描けない」
「緊張してる?」
「してないけど」
「してるでしょ。さっきから鉛筆持つ手、力入りすぎ」
「人前で描くの、苦手だから」
「慣れるよ」
「そうかな」
「少しずつ慣れてけばいいよ。それに、最初から上手かったら俺が傷つく」
嘘ばっかり。
絶対に傷ついたりしないくせに。
絵画教室の時計が小さく音を刻む。
理人は椅子から立ち上がると、イーゼルに立てかけた画用紙を覗き込んだ。
「へえ。瞳子ちゃんから見た俺って、こんな顔してるんだ」
「なんか、違うよね」
「違わないさ。たぶん、これも俺の顔」
理人は描きかけの線を見つめる。
「消していいかな? やっぱり描き直したい」
「全部消すの?」
「輪郭だけ残して」
私は消しゴムを手に取って、理人の頬のあたりから順番に擦っていく。
紙の上の理人の輪郭はもう何度もなぞったのに、
聞きたい言葉だけがまだ白いままだ。
ザリザリと紙の目が音を立てる。
「そんなに力入れたら、紙へこむって」
理人が笑う。
灰色がかったオレンジ色の光が斜めに机を横切って、光の当たる天板と沈んだ影の間に細い境界線を作っている。
その境界線を理人はゆっくりと指でなぞった。
「夕方ってさ。一番色がぼやけるんだよね。特にくすんだ色。色が混じる感じでさ。光が少なくなるからかな」
光が少なくなると色が混じる。
それはどんな感じなんだろう。
私には見えない景色。
「次の日曜、グループ展のDM作るんだけど見にくる?」
「邪魔じゃない?」
「邪魔だったら誘わないよ」
「なら、行く」
「うん」
「理人くん」
「なに?」
「ごめん…なんでもない」
言葉は続かなかった。
消しゴムにくっついて小さな塊になった鉛筆の粉を指でちぎって、机の端に寄せる。
飲み込んだ言葉の代わりにもう一度、白い紙に灰色の線を置いていく。
昨日でもなく明日でもなく、ただ今だけが続けばいいのに。
もうすぐ夜の部の生徒たちが来る頃だ。
展示用の額を受け取りに行った母も、そろそろ帰ってくるだろう。
それでもまだ少しだけ時間はある。
理人の目元に柔らかな影をつけるくらいの時間は。
[次のお話し↓]
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