「母から娘へ、そして孫へ。傷も愛も今はすべてにありがとう。」今日のカレンダーから「英語のある暮らし」vol.25
今日のカレンダーは「母親の役割」を問いかけるメッセージでした。
“In mothering, if you do it right, you work yourself out of a job.”
「母親業というのは、うまくやればやるほど、自分の役目が終わっていくもの」
「英語学習編」には、今、まさに私が娘を育てている気持ち英文と共に綴りました。
こちらでは、私の”母”について書きたいと思います。
母は91歳で亡くなりました。
長い生涯だったので、内容も長くなりますが、記録としてここに残したいと思います。
よかったお付き合いください。
母の生い立ち : 三人の母を持った母
母の性格を一言で表すなら「天真爛漫」かもしれません。
複雑な生い立ち、そして夫からの暴力という壮絶な人生を歩んできたにも
かかわらず、母はよく「私、呑気だから、忘れちゃうのよ」と笑って言っていました。
母には3人の"お母さん”がいました。
実母は母が1歳の時に病死し、母には記憶がありません。
育ての母は実母の妹で、母にとっては叔母にあたる人。母はその事実を知らずに育てられたそうです。
育ての母は教育熱心で、母に家庭教師をつけたほどだったそうです。
一方で、母はとてもわがままに育てられたとも言っていました。
デパートで洋服を見ては「これが欲しい」と駄々をこねる母に、毎回、自分でデッサンしてそっくりな服を何着も作ってくれたそうです。
のちに母は『私のわがままを毎回も聞いていてくれたのは、本当のお母さん
ではなかったからだったのかもしれない』と自分が母親になって分かったと言っていました。
その育ての母も、戦争の空襲で亡くなってしまいます。
それからが、母の苦労の始まりです。
母は叔母さん夫婦に育てられたので、父親とは血縁関係ではありません。
その父親が再婚したことで、「三人目の母」が現れます。この継母からひどい仕打ちを受けたそうです。
戦争中の食糧難もあり、継母は、実の娘には白米を与え、母には、ほんの少しの麦ごはんしか与えなかったそうです。
父との出会い・結婚生活 : 苦悩の日々
24歳まで大阪で暮らしていた母は、ちょうどその頃、私の父とダンスパーティーで出会います。
父は母に一目惚れし、2日に一度は恋文を送り、週末には静岡県の浜松市から大阪まで母に会いに来たそうです。
母は、「一日も早く家を出たい」と思っていたこともあり、
『見知らぬ土地の方が都合がよい』と交際半年で結婚を決めたそうです。
結婚後、五年間は子どもに恵まれませんでしたが、新婚生活は平穏無事に
過ぎていったとのことです。

父は男ばかりの4人兄弟の次男。
その母(私の祖母)は「よく和男と結婚してくれましたね。本当にありがとう。」と母の手を取って泣いて喜んだそうです。
その時、『何故、そんなに大げさに?』と不思議に思ったそうですが、
その後、事態は一変します。
長女(私の姉)が誕生して数か月後頃から、父の態度が急変。母への暴力が始まりました。

父は49歳で脳動脈瘤破裂で亡くなりましたが、もしかすると、その病気による頭痛や苦しさ、不安が暴力の一因だったのかもしれません。
けれど、祖母が自分の息子を恐れた様子から、もともと、そのような性格だったのかもしれません。
私が生まれてからも、父の暴力は止まらず、自己紹介にも書いたように、
私は暗闇の子ども時代を経験しました。
母が髪の毛を鷲掴みにされ長い廊下を引きずられ、玄関に突き落とされたり、蹴り上げられたり、殴られたりする母の姿を見て育ちました。
父に耳を殴られ、耳が聞こえなくなったり、次の日には体のいろいろな箇所に傷や青あざだらけの母の姿を見て、『母はいつか父に殺されてしまう』と思っていました。
父が激昂すると、それが深夜であろうと母を外に追い出すまで続きました。
私は父の怒鳴り声で目を覚まし、制服を用意してランドセルに入る限りの教科書を詰めて、いつでも一緒に出ていけるように、声を潜めて自分の部屋で待っていました。
父は姉を溺愛していたため、姉はいつも家に残されるように言われていました。
女の子でありながら、母に付いていくことが許されなかった姉は姉で
辛い思いをしたに違いありません。
一度、私は母に「姉も一緒に」と頼んだことがありましたが「それは無理なのよ。ごめんね。わかってちょうだい」と言われたことがあります。
どこに行くにしても、私ひとりを連れて行くことが限界であり、何よりも
父に逆らうことができないのだと
子どもながらに理解しました。
私は背を向けて寝ている姉に向かって「ごめんね。行ってきます。」と声をかけて、泣きながら家を出たことを
忘れることはできません。

母の子育て : 天真爛漫な母の教育方針
父は姉のしつけには熱心でしたが、
私に対しては、母に任せきりでした。
私が、父の暴力から母をかばって
止めようとしたり、一緒に出ていくような子だったからかもしれません。
母の教育方針は「自分の蒔いた種は自分で狩りなさい」
勉強も、受験も、東京の一人暮らしも、一切干渉はありませんでした。
子ども時代、私は毎日何かしらのお手伝いをしていました。
特に料理が多く、鰹節を削ったり
野菜を刻んだり、母の補助的な役目や、洗い物をしていました。
母はいつもこう言っていました。
「これは私がやりたくないから、やらせているんじゃないの。
あなたのためによ。いつか感謝する日がくるからね。」
その頃は『本当に感謝する日なんか来る?』と思っていましたが
今では母の言葉が本当だったとわかります。
食にこだわりがあった元夫が晩酌のために「7品おかずを用意して」という要求にも、それほど苦を感じませんでした。
今でも「自分の身体は自分で作る」をモットーに、朝食から品数を多く用意しています。私と娘の健康は、間違いなくその日々の積み重ねのおかげです。
「重い十字架」と言われたこと : 母に理解してもらうために
母の一本筋が通った私への接し方には感謝しています。
けれど、私が一番苦しかった時に
「障がいのある子を連れて浜松に戻ってくることは、恥ずかしい。
絶対帰ってきてはいけない」や「
もし、死にたくなったとしても、電車に飛び込むのは一番人に迷惑がかかるから、してはいけない。」などには、
『母親ってこういうことを言うものかしら?』と不思議に思ったのも事実です。
でも、考えてみると、これも「自分の選んだ行動や運命は自分でなんとかするもの。人に迷惑をかけてはいけない」ということに、繋がらないわけでもありません。
それよりも母から聞きたくなかった言葉は、娘のことを「重い十字架」と呼び、「あなたのように親孝行の子がなぜ、こんな試練を背負わされたのかわからない。」と言われたことです。
冷静になって考えてみると、孫よりも子の方が血が濃いので、その可愛い自分の娘を苦しめている孫の存在が疎ましい、という思いから発した言葉だったと思いますが、その当時は、
すんなりと受け入れることは出来ませんでした。
私は、娘を産んだことを後悔したことは一度もありません。
また、自分の人生をみじめとか不幸と思ったことはないということを母に分かって欲しいと思いました。
その想いを手紙に綴り「喪失から立ち直っていく5段階のプロセス」についても説明しました。
そして、今はそれも超えて、その災難や不幸と思われる出来事を生かそうという「心的外傷後成長」という段階に達しているのだということも伝えました。
母はその手紙を何度も何度も読み返したと言っていました。
そして、ようやく母にも理解してもらうことができました。
最期の時間:親子三代で暮らした日々
それからまもなく、母と姉がほぼ同時期に癌を患い、私は千葉に
二人を呼びよせて一緒に暮らすことを決めました。
周囲の反対を押し切って始めた4人暮らし。
個性の強い母と姉、そして娘との生活は大変でしたが、母は次第に
変わっていきました。
娘が私を一生懸命助ける姿や、漢字を勉強したり、刺し子をする姿、言葉のコミュニケーションはなくとも
私たち親子がしっかり支え合いながら生きている姿を見て、母は私が言っていることが真実であると、確信してくれたようでした。
最期には、毎朝の「おはよう」の挨拶のたびに、娘の名前を呼んで「大好き!」と抱きしめてくれるようになりました。
そして旅立ちの間近には、母は娘に「ママのこと、頼んだからね」とまで言い残しました。
「重い十字架」と言っていた母が、「大好き」と言って抱きしめるようになったー
その姿を見て、私が二人を呼び寄せた本当の理由は「母を安心させる」ということだったのかもしれないと思いました。
「十字架」と言っていたのに「大好き」と言って娘を抱きしめていた母。
やっぱり母を一言で言うなら「天真爛漫」です。
そして、孫の誕生日の5日後というタイミングで旅立って逝った母は、
「自分の蒔いた種は、自分で狩り取る」を貫いたのだと思います。

今は「私を生んでありがとう。育ててくれてありがとう。」
感謝の気持ちを込めて、毎日、娘も私も手を合わせ朝の挨拶をしています。

娘は刺し子をしています
あなたの「お母さん」はどんな人ですか?
何か受け継いだものはありますか?
あなたにとって「母親であること」は
どんな意味を持っていますか?
最後まで読んでいただき、ありがとうございました。
