7月32日|風まかせ文芸部 第64回
iさん主宰の、風まかせ文芸部・第64回お題企画に参加しています。
お題:"7月32日"がテーマ
ショートショート、小説、詩、エッセイ──ジャンルもスタイルも自由。
──二度目の参加です。よろしくお願いします。
東京は冷たい街だという。
あるいは、優しい街だともいう。
おそらく、そのどちらも「東京」を捉えきれてはいない。
──東京は、無関心な街なのだ。
青山・キラー通りを、一人の女が歩いている。
グレーのハイネックのカットソーに袖はない。
肩にかけたデザイナーブランドのショップバッグ。
一目でそのデザイナーの仕事とわかる、布地を贅沢に使った長すぎるくらいのスカートを履いている。
やや長身の痩躯も相まって、この界隈ではそんな姿は少しも目立たない。
ただ──女は、泣いていた。
こぼれ続ける大粒の涙を、女は拭おうともしない。
赤信号で立ちどまったとき、溢れる涙が一筋に連なり、マスカラを押し流して黒い筋になった。
それでも女は、どこを見ているのか、見ていないのか。涙だけが流れるその表情は、あたかも感情を機能制限されてしまったレプリカントのようだった。
青信号になって、人が流れ始める。
女だけが、動かなかった──
その朝
休日なのに、いつもの時間に目が覚めてしまった。
ゴミの日になると目の前の電柱にとまるカラスの鳴き声が、今日はやけに大きく聞こえる。
朝の時間、時計がわりにつけるテレビも、土曜日だから空気が違う。
それだけで、今日は休日なのだと突きつけられた気がして、テレビを消した。
──今日はなんの日?
そんなの、どうでもいい。
目の端に、サイドボードに置いてあったカレンダーが目に入る。
──7月
彰は、数字だけが並ぶ無愛想なカレンダーを手に取ると、31日の隣の空欄に、青いマーカーで大きく「32」と書き込んだ。
壁の時計を見上げる。
まだ8時にもなっていない。
一日が、長い──
急に空腹を感じた。
いつもは、朝食なんて食べないのに。
冷蔵庫を開ける。
チルドコーヒー。
シュークリーム。
どちらも二つずつ。
いつ買ったのだろう。
覚えているようで覚えていない。
冷凍庫を開ける。
──ハーゲンダッツ。
これも、二つ。
バットに生卵を割り入れ、砂糖をたっぷりと加える。
すこし硬くなったデニッシュ食パンを並べて、ぐいぐいとフライ返しで押しつける。
コーヒーを自分で淹れなくなってどのくらいになるだろう。
最近は、すっかりコーヒーメーカーにまかせっきりだ。
でも豆だけは、なんだかよくわからない中米産のシングルオリジンを、今も欠かしたことはない。
コーヒーメーカーがコポコポ言い出すころ、フレンチトーストも焼き上がる。
彰は、ハーゲンダッツを熱々のフレンチトーストの上にのせた。
「デニッシュ、砂糖にアイスクリーム……こんなのギルティじゃん」
──咎める人はいない。
簡単な朝食を食べても、物足りなくてアボカドをスライスしてレモンを絞って食べても、時計の針はジリジリと進まない。
ネットのサブスクで、おすすめされた海外ドラマを見始めたけれど、ちっとも頭に入ってこなかった。
──二度寝できれば、楽なのにな。
いつもの反実仮想が始まるころ、やっと時計の長い針が12を越える。
「もしもし──おはようございます。松永といいます。
はい、朝倉さんにいつもお願いしてるんですけど──今日って、空いてる時間ありますか?
そうなんです。しばらくサボっちゃってて。
長さはそのままでいいので、カラーをお願いしたいんです」
自転車を出して、駅に向かう。
もう、日差しは熱い。
朝、通勤快速を目指して急ぐときと違って、自転車をゆっくり走らせる。
曲がり角の家の凌霄花が、たわわに花をつけている。
マルハナバチの低い羽音が聞こえる。
乗り換えのタイミングが悪かったので、地下鉄への直通電車は待たずに、終点まで乗ってJRに乗り換える。
電車の中には、よそゆきを着た小さい女の子が、これから始まる何かを待ち切れないようにソワソワしている。
「──今日は、どうしましょうか?」
美容師の朝倉とのつきあいは、長い。
彰が高校生のころ、背伸びして、お小遣いを貯め、東京都下から表参道の美容室にやってきた日から、ずっと何もかも任せている。
「思いっきり、思いっきり明るくカラーしたいんです」
「じゃあ、一度ブリーチしちゃったほうがいいかな」
髪を脱色までしてカラーするのは初めてだ。
時間が──かかる。
目の前に並べられたファッション誌もほとんど読まないうちに、眠気が襲ってくる。
昨日は遅くまで駅前で飲んでいて、あまり寝ていないのだから当然だ。
「ブリーチすると、どうしても髪がキシキシになっちゃうから、トリートメントでケアしてあげたほうがいいですよ」
朝倉がめずらしく、ヘアケア用品を勧めてくる。
彰は、素直にその真っ白な瓶のトリートメントも買うことにした。
会計のとき、海外ドラマに出てくるアジアン女子のような青い髪にしたスタッフが言った。
「これ、間違いないですよ。サロン用って、ほんとに違うから」
──そういうものなのだろう。
半地下の美容室から外に出る。何時間も椅子に座っているうちに、太陽にはずいぶん角度がついていた。
地下鉄の駅まで、表参道を歩く。
カフェの前を通ると、暗いガラスに明るくなった髪がはっきり映った。
なんだかうれしくなって、足が止まる。
汗ばかりかいて喉も乾いた。
たまには、生クリームやシロップがたっぷりのコーヒーを飲んでもいいだろう。
週末の表参道なのに、意外とひとりで歩いている人も多い。
大騒ぎしている女の子たちの姿も、思ったほど見かけなかった。
同じ通りを歩いているのに、誰もがそれぞれの時間を生きている。
路地に入れば、なおさらだ。
なんとなく、そのまま家に帰る気がしなくて、表参道交差点の横断歩道を渡った。
いつもなら眺めるだけのデザイナーズブランドのブティックの前で、ふと足が止まる。
高校生のころの自分なら、ドアをくぐることさえ考えられなかったような場所だ。
店のスタッフは、当たり前のようにこのブランドの服を着ている。
袖丈も着丈もたっぷりとしていて、スカートの裾は、歩くたびに床を撫でるようだった。
一枚のスカートが目にとまった。
布を惜しげもなく使った、真っ白なロングスカート。
スタッフの誰かが、真っ黒な色違いを身につけているところを見たばかりだ。
「御試着されますか?」
手にとって眺めていると、スタッフの一人が近づいてきた。
黒いブラウスに、黒のワイドパンツ。口紅だけが真っ赤だった。
「白だから、意外と何でも合わせやすいんですよ。
今日みたいな薄墨色のトップスにも、似合うと思いますよ」
──薄墨。
今日の彰が、何気なく選んだ色だった。
「これ、このまま着て帰ってもいいですか?」
こんな明るい髪の色にしても、誰も咎めない職場だ。
それでも、このスカートを履いていく勇気はなかった。
彰が求めたのは、週末の一着だった。
ショップバッグには、履いていたダメージドデニムが入っている。
中身のチグハグさに、思わず笑ってしまう。
このスカートにはきっと、シャラシャラと揺れるピアスが似合う。
そのまま南へ歩く。
根津美術館の前で道が大きく折れる。
そこから先は、ゆるやかな下り坂だった。
結局、足が向いてしまう。
来るつもりなんて、ちっともなかったのに。
──あれから、一年が経つ。
左に曲がると、桜並木はすっかり青葉になっていた。
どの角で曲がればいいのか、まだ覚えていた。
忘れてしまいたかったのに、記憶はそれを許してくれない。
彰は、その目印に気づかなかったふりをして、遠回りをした。
それでも、その一画だけに供えられた花から、目を逸らすことはできなかった。
「ごめんね、お花も買ってないの。
お母さんに誘われたんだけど、断っちゃった。
でも良かったね、みんな、来てくれてたんだ。お花、いっぱいある。
髪、伸びたでしょ。
こんなに明るい色にしたの初めて。
似合う? 惚れなおした?
私? 元気よ。
あなたは──向こうでは、もう元気でいるんでしょ。よかったね。
フットサル、またやってるよね、きっと。
ねえ私、彼氏できた。
──って嘘。
できるわけないじゃん。なんでだろね。
お彼岸とか、来なきゃダメだったのかな。
お花見のついでには来ようかとも思ったのよ。
でも、きっと人多かったよね。
あ、月命日も来なきゃダメだったのかな、ごめんね。
でもずるいよ、一日なんて。
忘れられないじゃないの。って忘れてたけどね、ずっと」
彰の左側に、墓碑銘がある。
──令和七年八月一日 没
「あ、言うの忘れてた──お誕生日おめでとう」
彰は、精一杯の笑顔で、墓碑に向けて声をかけた。
──蝉の声が、止まない。(了)
📚 これまで、文芸部の活動に参加した作品をまとめています(マガジン)
📚 もう少し長い物語を読んでみたい方へ──現在連載中の長編三部作です。
私には、「選ばなかった人生」と「なれなかった自分」をめぐる物語があります。
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