【とんま村の物語】🌻最終回 解説:競争を、生きるための義務から解放したい
🍃物語本文
【とんま村の物語】第20話:
「幸せとは、心置きなくポンコツでいられることと言っても過言ではないのだ(最終回)」
どうぶつの村がおしえてくれること

とんま村には、いろいろなどうぶつが暮らしています。
まじめに働くもの
何かおかしいと感じながら、うまく言葉にできなかったもの
うまく立ち回りながら、村の仕組みを自分に有利に使っていったもの
そして物語が進むにつれて、村のどうぶつたちは少しずつ気づいていきました。
苦しさの原因は、そもそもの「お金の仕組み」、
すなわち最初に出てきた「足りない一枚」でした。
アリクイが作った村のお金は、十枚。
でも、アリクイに返さなければならないお金は、十一枚。
最初から、一枚足りない。
どうぶつたちは、永遠に釣り合うことのない「その足りない一枚」をめぐって、働き、競い合い、さらに一人一人が、村が借金を繰り返し続ける。
物語の前半で見つめてきたのは、誰か一人の性格や行動だけで閉じるものではなく、
「苦しみの原因」を知らないまま、仕組みの上で右往左往する私たち現代人の姿そのものだったのです。
物語の後半で見つめてきたのは、まさにその先です。
「足りない一枚」の穴が問題ならば、そもそも「村に穴が生まれないお金」はつくれないのか。
自分たちの地域を大事にしながらも、ほかの地域や国に負担を押しつけないみんなが幸せになる仕組みはつくれないのか。
もしそれができるなら、競争を、生きるための義務から解放し、個々人が選べる挑戦へ戻せるはず。
この物語で考えてきたのは、そのことでした。
では、なぜ私は、この物語を書きたいと思ったのか。
まずは、そこから始めていきます。
第1章 なぜ、この物語を書きたかったのか
私は、幼少期から思春期までを海外で過ごしました。
国や文化が変わると、「当たり前」も変わります。
お金の意味も。
働き方も。
豊かさの形も。
ただ、見てきたのは、小さな文化の違いだけではありません。
信じがたい差別。
目を覆いたくなるよう悲惨な歴史。
生まれた場所や、属する集団が違うだけで、人の尊厳が軽々しく踏みにじられる現実。

私自身も、少なからず「差別される側」になった経験もありました。
なぜ、人はここまで他者を分けるのか。
なぜ、誰かを下に置かなければ、自分たちの安心を守れないのか。
なぜ、ある人たちの豊かさの裏側で、別の誰かの痛みが見えにくくなってしまうのか。
その問いは、大人になってもずっと心の中に残りました。
そして社会人になってからは、金融の現場に立ちました。
数字の向こうには、一人ひとりの生活があります。
小さな努力。
見えない不安。
どうにか今日をつなごうとする人の姿。
金融には、人を支える力があります。
同時に、仕組みの中で、誰かへ負担が偏ることもあります。
その両方を静かに見つづけてきました。
そして結婚し、子どもを持つようになりました。

次の世代が生きる社会は、このままで本当によいのだろうか。
実は、いまのお金や世界の仕組みを当たり前として受け入れる前に、もっと良い別の形も考えられるかもしれない。
そう思える余白や希望を残したい。
それが、この物語を書き始めた理由です。
第2章 競争を義務にするお金の仕組み
競争や成長には、本来、前向きな力があります。
より良いものをつくる
新しい技術を生み出す
知らなかった世界へ挑戦する
昨日より少し遠くへ進む
それは、人間社会を動かしてきた力です。
問題は、競争や成長があることではありません。競争し勝たなければ生きられないこと、競争や成長が生存条件になっていることです。
では、なぜ競争は、選べる挑戦ではなく、生きるための義務になっていくのか。
その中心にあるのが、物語の最初に象徴的に出てきた「足りない一枚」です。
まず、ほぼ全てのお金は誰かの、もしくは国の借金によって生まれます。
社会全体を一つの塊として見るならば、銀行などの金融部門以外の「暮らしや企業が動く実体経済」の側では、借入によって生まれたお金が、まず元本として社会の中へ入ります。
けれど、銀行などへ返すときには、元本だけでは足りません。利息も支払わなければなりません。
つまり、実体経済の側には、最初に借入として入ってきたお金よりも、利息分だけ多くのお金を用意し続ける圧力が残ります。
この構図を、物語では「足りない一枚」として描いてきました。

水は入ってくる。
けれど、同時に抜けていく。
だから、常に次の水を入れ続けなければならない。
その「穴を埋める」ために、個々の話では、企業は売上と利益を常に求め、個人は所得を得続け、地域は外からお金を呼び込み、国家は税収、外貨、資源、市場を確保し続けることが求められます。
それでも足りなければ、さらに新たな借金をして、無理矢理「穴を埋め合わせる」。
こうして社会は、足りない一枚を埋めるために走り続けないといけません。
この走り続けないといけない回路の中では、競争は挑戦の手段から、生き残るための条件へ変わっていきます。
競争しなければ、暮らしが守れない
成長しなければ、会社が続かない
外からお金を呼び込まなければ、地域が弱っていく
税収、外貨、資源、市場を確保しなければ、国家も不安定になる
けれど、多くの人は、この圧力がお金の仕組みから生まれていることに、はっきりとは気づいていません。
自分はただ、生活を守っている。
会社を続けている。
地域を支えている。
家族のために頑張っている。
国のために必要なことをしている。
それぞれは、目の前の条件の中では合理的な行動です。
しかし、お金の仕組みが競争を義務にしていることに無自覚なまま合理的に行動すると、誰かより多く取ること、誰かより先に確保すること、誰かを蹴落とし切り捨ててでも勝ち残ることさえ、ときに「仕方のないこと」として処理されていきます。
ここに、この仕組みの怖さがあります。

もちろん、この仕組みだけでは説明できない明確な悪、救いようのない罪も現実には存在しています。
奪うこと。
貶めること。
他者を踏みにじること。
その責任は、決して消えません。
ただ、私が問題にしたいのは、このお金の仕組みがもたらす無自覚な残酷さです。
特別に悪意のある人でなくても、この仕組みに適応することで、他者の痛みに鈍感になっていくこと。
そして、欠乏を前提にしたお金の仕組みが、人の内側にも欠乏を蓄積させていくのです。
足りない
奪われるかもしれない
もっと持たなければならない
先に確保しなければならない
実際には足りている場面でも、不安だけが残る。
その不安が、さらに競争を強めます。
競争が、さらに分断を生みます。
分断が、さらに新しい不安をつくります。
いまの文明の基本設計は、
人を露骨な悪人にするというより、
顔の見えない他者の痛みに鈍感なまま走り続けられること、
この社会の仕組みに疑問を持たず無自覚に適応させることを求めているのではないか。
そういう世界に本当に希望はあるのか、違う形を現実の選択肢として考えたくなりました。

第3章 誰かを悪にして終わらせず、土台を変える
物語では、アリクイをただ倒して終わる話にはしませんでした。
なぜでしょうか?
現代では誰もが息苦しく、社会全体に閉塞感があり、大きな分断の風潮が強まっています。
本当は見えにくい仕組みそのものが色々な問題の根本原因であったとしても、えてして多くの人は目の前に見える現実について、敵か味方か、白か黒か、正義か悪か、正しいか間違っているか、2つに単純化して探したくなります。
あれが悪い。
あれを裁けばよい。
あれを倒せば、よくなるはず。
その瞬間、自分たちは正しい側に立ったように感じられます。
けれど、その繰り返しでは本当は何も変わりません。
悪を倒したはずの場所に、また別の線が引かれる。勝った側が次の秩序をつくり、そこからまた、正しい側と間違った側が分かれていく。
私たちの歴史はこの絶え間ない繰り返しです。
たとえ正しいことであっても、裁く気持ちが次の分裂を生むのです。
この物語が向かったのは、その線引きの外側です。
誰が正しいか、誰が間違っているかではなく、対立を何度も生み出してしまう前提そのものを変えることです。

・競争は残す。けれど、競争しなければ生きられない状態を終わらせる
・成長は残す。けれど、成長し続けなければ維持できない圧力を緩和する
・違いは残す。けれど、違いが優劣や支配へ変わる仕組みをほどく
多段階ベーシックインカム(MBI)は、この土台を変えるための構想です。
現行の円、銀行融資、国家財政、金融市場、広域取引や国際取引を担う法定通貨は残します。そのうえで、個人へ毎月届くお金の入口を分ける。
借金と返済に紐づくお金だけに、毎月の暮らしに関わる支出まで背負わせない。
個人へ毎月届く複数の地域通貨を置き、地域の中で循環させ、必要な分だけ現行の円へ接続する。さらに、国内の偏在を整え、国家間の偏在も補完する。
ここまで複雑な仕組みを考えてきたのは、人が生きること、変わることを、個人の倫理や努力だけに委ねないためです。
人をもっと優しくしようと説くだけでは、届かない。
人が今より少し優しくなれる前提を、社会の中につくる。
誰かを切り捨てなくてもよい
自分と違う生き方を、敵として見なくてもよい
自分自身の弱さも、不格好さも、少しだけ許せる
多段階ベーシックインカムが目指すのは、そのような前提を社会の中に置くことです。
最後に:生きていることに条件をつけない社会へ

この人間社会の残酷な現実を、難しい言葉だけではなく、どうぶつたちの物語として、できるだけ優しく受け止めて伝えたいと思いました。
誰か一人を悪者にして終わるのでもなく、誰かに、もっと強く、もっと正しく、もっと優しくあれと求めるのでもなく。
この物語の最後で戻りたいのは、もっと根本の問いです。
シェイクスピアは、問いかけました。
To be, or not to be.
丸山眞男は、「である」ことと「する」ことを問い直しました。
ここでいう To be は、ただ存在すること。
To do は、何かをすることです。
現代社会では、いつの間にか、何をしたのかによって、ただ生きていることの価値まで測られやすくなっています。
どれだけ役に立ったのか
どれだけ成果を出したのか
どれだけ成長したのか
どれだけ勝ち残ったのか
でも、生きることに、条件をつける必要はないはずです。
まず、To be。
ただ、生きていてよい。
その土台の上で、挑戦する。働く。つくる。休む。遊ぶ。誰かをケアする。
自分の To do を、自分で選べる社会へ進む。
誰かより速く走れる日もある。立ち止まる日もある。何も生み出せない日もある。
それでも、明日は続く。
そんな社会を、夢物語で終わらせないために、制度まで考える。仕組みまでつくる。少しずつでも、現実へ置いていく。
この物語は、ひとつの入口です。
次の世代へ、いまより少しだけ選択肢の多い社会を渡したい。
多段階ベーシックインカムが目指すのは、To do がなければ To be を認められない文明から、To be を先に支え、その上で一人ひとりが自分の To do を選べる文明への転換です。

Fin
